半跏像
2009.7.6付 朝日歌壇より
本棚で鈍く光れる半跏像贋物なれど二十年もいる:(奈良市)森秀人
馬場あき子 評:「贋物」も二十年の愛がこもり、作者にとっての本物になっているにちがいない。
仏教では、人の生き方を説いているのであって、仏像の力で人が救済されるなんて説いてません。ですから、仏像にあまりこだわるのは「変!」です。形あるものはみな滅す。仏像もまた。
でもね、20年傍らにあれば、人の心をうけて「ON」の仏像ですよね。仏像を見ながら、考えることもありましょう。それは、心の鏡として自己を照らしてくれるでしょう。ですから、まったく無意味だなどとはいえません。
批判:それに比べると、善光寺のご本尊はかわいそうですね。誰も見たことがない。私に言わせれば「OFF」の仏像。身代わりの前立本尊さまが「ON」。じゃあ、どっちが心の鏡として働いているのですか?明らかですね。
みられることもない仏像は、存在しないと同然。働くこともできないのです。おかわいそうに。
人々の悩みを受け止めながら、「もの」としては朽ちていく。それが仏像の使命でありましょう。
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