棘ある実り
2009.7.13付 朝日歌壇より
一粒の麦地に落ちて清志郎ロックンロールは棘ある実り:(岡山市)佐藤茂広
馬場あき子 評:忌野清志郎への挽歌。その時々の状況に対応し、時には挑発的なロックを作詞作曲してきた一粒の麦といえる人、結句の「棘ある実り」に作者の思いが籠もる。
忌野さんは「まつろわぬ人」だったと思います。それがロックというものでしょう。今の歌は妙に道徳的で、応援歌的で、励ますことに一生懸命で、優しい。トゲが無い。日本に大人のロックが成長しますように。むしろ、歌として穏やかそうな、一青窈さんの歌なんかのほうが、存在と非存在、現実と非現実の「あいま」にきびしくえぐりこんでくるように感じています。
◆ところで、この歌、当然ながら聖書の言葉
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を残すべし」
を踏んでいます。
ここで、とんでもなくお恥ずかしい打ち明け話をしなければなりません。
私は、完全に誤解していました。宗教的な回心などと縁遠いところにいます。
「一粒の麦が石の上か何かに落ちて死んでしまったら、芽も出ないし、実りはない。しかし、湿った肥沃な土に落ちて生き続けることができれば、命をつないで数多くの実りを結ぶことができる。」このように理解していました。身も蓋もない、という典型でしょうね。
生物的には正しいんですが、宗教的には、価値観の反転、といった回心を読めなかったんですね。おそらく、聖書の意味合いとしては、キリストの死と復活もこの文脈の中にあるのでしょうね。
この思い違いに気付いたのは今年の6月でした。
[私の収穫]大地に落ちる:人類学者・中沢新一(2009/6/3)
少年の頃、私がもっとも衝撃を受けたのは、つぎのようなイエスの言葉だった。「一粒の麦が大地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」・・・[私の収穫]人類学に出会う:人類学者・中沢新一(2009/6/4)
一粒の麦が豊かな実りをもたらすためには、死んで大地に落ちなければならない(イエス)。・・・
この記述を読んで、えっそうなの?ホント?とショックを受け、調べなおしたのでありました。
実がみのり、穂を離れて散布され、発芽して次代をつくる。
このことを、麦の実が死んで大地に落ちる、あるいは、大地に落ちることが一旦の死であり、発芽は復活である、と読むべきなんでしょうね。
[かーかん、はあい]という俵万智さんの連載コラムがあります。息子さんの成長と本の関わりを語る、ほほえましくも、鋭いエッセーになっています。
6月24日付けでは「心に染みる 時と命のめぐり」というタイトルで
「田んぼのいのち」(立松和平文、横松桃子絵、くもん出版)
という本と息子さんの関わりが取り上げられました。
「五十年間米をつくっている賢治さんも、五十回しかつくってなくて、いつも一年生の気分です」。
「たった一粒を土にまくと、秋にはおよそ百八十粒にもなるのです」
「米は人の命も養うし、米そのものが命なのです」
ここで息子さんが
「米そのものが命って、どういう意味?」
俵さんが答えて
「だから、お米も生きていて、一粒のお母さんから百八十粒の子どもが生まれて、命がつながっていくってことだよ」
私としては、聖書の言葉より、俵さんと息子さんの読書体験のほうが心に染みます。
心になじみます。
命はず~っとつながっているんだよ。
生命というものがこの地球に誕生してから私まで、38億年もの間、一回も途切れたことはないんだよ。途切れていたら、私は生まれてこなかったんだよ。
と、真剣に思うのです。
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