手紙が来そう
[恋する大人の短歌教室](2009/6/29 朝日新聞から)
{応募作}手のひらのなんだかかゆいと思ふ日はあの人からの手紙が来そう:東京 花岡智恵子
嬉しいような切ないような、恋する女性の複雑な心の揺らめきが、愛らしく表現されています。手のひらがかゆくなるという変わった予感の現れ方も、面白いですね。「掌」とか「痒い」とかいった難しい漢字を使わず、ひらがなを多くしたところも、いかにも若々しい。しかしこの歌、若い作者のものではありません。「愛するうちの旦那が亡くなりましてから一年少したち一人暮らしになりました。大昔のあの頃の気持です」とのこと。80歳近い高齢とは思えない瑞々しい歌いぶりが、とても魅力的です。
欲を言うと、「かゆいと思ふ」にちょっと引っ掛かります。感覚の表現が二段重ねになっていて、この場合靴ではなくて手袋かもしれませんが、ともかく隔靴掻痒の感あり。「思ふ」はいらないのではないでしょうか。ついでに、「思ふ」に倣って「来そう」も旧仮名遣いにしておきました。ひらがなの多い歌にさりげなく旧仮名が用いられていると、何となくエレガントな雰囲気が醸し出されますよね。(石井辰彦)
{添削}手のひらのなんだかかゆくなる日にはあの人からの手紙が来さう
「かゆい」と「思う」が、「感覚の表現が二段重ね」だというのは変です。
「かゆい」というのは感覚の表現ですが、「思う」は感覚ではありません、思考・判断です。
手のひらが本当にかゆくなる必要はないのではないでしょうか?
人間の予感というものは、後付けで、「ああ、あれが予感だったのか」ということが多いのです。実際に、何かを感じているときに、「ああ、これは~~の予感がする」と感じる方はおそらくそう多くはないはずです。
愛する人からの手紙が来た、ああ、そうか、あの時何だか手のひらがムズムズするような気がしたのはこのことの予感だったのか、ということだと思いませんか?
ですから、「かゆいと思う日は」でよいのだと思いますよ。
実際にかゆかったかどうかはいいんです。そう思ったことが大事なんです。
というのが、今回の添削への批判のポイントです。
旧仮名にこだわることもない、と思ってはいますが、どっちでもいいです。私の世代は新旧どっちでもそう違いを感じる世代じゃないので。
もし、古い言葉遣いで統一したければ、「なんだか」というのは完全に口語形ですから「なにやら」とするとかね。
手のひらのなにやらかゆしと思ふ日はあの方からの手紙が来さう
こんなになっちゃって、これはいけませんね。
応募作そのままで、佳い歌だと思います。
◆別件:最近の若い恋人はJPを使っての「ラブ・レター」なんて出すのでしょうか?
メールで恋を語らうのでしょうか?
男女二人が電車の座席に並んで座って、それぞれが別々にメール打ってたりするのを見ると、私のようなじいさんには、理解できません。
阿久悠さんの遺作で高橋真梨子さんが歌っている「目を見て語れ恋人たちよ」という曲がありますが、もろ手を挙げて賛同します。
メールで恋を語る世代だと、かゆくなるのは「手のひら」ではなくて、「おやゆび」なんでしょうかねぇ。
「マナーモード」の振動にしびれた、とかいうのも、あり、か?
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