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日当たりのよくない地面近く。
枯れた茶色だらけの中に、鮮やかな緑色。
これ目立ちますねぇ。
いくら枝の格好をしていても、色がなあ。
目立っちゃう。
妻が見つけて教えてくれて、この子、自分はトクサだって主張してるんじゃない?と。
そういうことならと、トクサの間に入るように撮ってみましたが。
ホンキかよ?
完全な「Ω」型にはなりませんね。
右側が腹端、左側が頭なんです。
よく見ると、頭の形が特徴的。
ね。
頭の先端が二つに分かれていて、木の芽風。
側単眼や、小さくまとめた脚も写っています。
で、よくよく見ると
合掌して、祈っている風ですね。
「祈り虫」という名前をささげましょうか。
普通祈り虫というとカマキリなんですけれどね。
カマキリは「おがみ虫」ともいわれますね。
英名は「Praying mantis(祈り虫)」ですね。
でも、このシャクトリムシの姿も、敬虔な祈りの姿に似ていませんか?
オニユリの花の写真の、下のほ~う、をみてください。
茎にくっついてムカゴが見えますね。
ここは一応公共の場所だし、何個かいただいてもバチもあたらないだろうと、二人で出かけて行って、ムカゴをもらってきました。
もう充分に成熟していると思います。
見てください。
親植物にくっついているうちに、もう、根を出しています。
準備万端ととのっています。
ミカンの種などでも、時折実の中で根を出してしまったものも見かけますね。
フチベニベンケイやコダカラソウ、セイロンベンケイソウなどでも、親植物にくっついたまま根を出しているのをよく見かけます。
オニユリのムカゴもそうだったんですね。
もちろん、早速、プランターに植えました。
こういうのが好きなんですよ。種をまいたりね。
やがて芽が出て、成長して、花を咲かせて、また種を作る・・・
植物の生きる姿が好きなんです。
オニユリです。7月18日撮影。
駅前の商店街の個人宅の前。
メシベとオシベをきちっと撮ることができました。
このオニユリ、見れば、ムカゴがいっぱい。
むか‐ご【零余子】広義には珠芽(シユガ)と同義。また、特にヤマノイモの葉のつけ根に生ずる珠芽を指す。肉芽(ニクガ)。ぬかご。<季語:秋>
(「零余子」は難読語に登場しますね。読めない「The 政治家」もいるだろうなぁ。)
ヤマノイモだけじゃないんですけれどね。栄養生殖という、親植物の一部が分離して子植物を作る増え方ですね。
イチゴのランナー、ユキノシタの走出枝なども栄養生殖の例です。
ところで、このムカゴがほしいんですが、個人のお宅だからなぁ、ちょっとマズイよなぁ。
家に帰って、妻にこの話をすると、妻は妻で別のところのオニユリのムカゴが気になっていたらしく、二人で取りに出かけることになりました。20日に。
それは、ムカゴ(2)でお目にかけます。
2009.7.27付 朝日俳壇より
百名山七つ数ふる帰省かな:(塩尻市)古厩林生
{大串章氏も同じ表現で選んでいます。}
稲畑汀子 評:百名山の山々がある故郷への帰省である。山の一つ一つに郷愁があり、なつかしい。原句は「百名山の」だが、この助詞は省略したほうがよい。
私ねぇ、この稲畑氏の評を読んで、朝日俳壇に不信感を抱いてしまいました。
朝日俳壇って、添削教室でしたか?同人誌でしたか?
基本的に、紙面に載った句は原句である、と理解していましたが、違ったのですか?怒りがこみ上げてきます。
原句のまま掲載して、「ここはこう省略したほうがよい」と評で書くのならまだしも、既に添削した形で掲げるのは失礼な話だと思います。新聞俳壇としてはやっちゃいけないことではないのかな。
しかも、この句、大串氏も選んでいて、稲畑氏と同じく「の」を省略した形で掲載し、二人が選んだという☆印がついている。ということは、お二人が相談なさって、「の」はない形で掲載しましょうね、と合意があったという事でしょう。
激しい言葉遣いをさせていただきます。私は憤激に堪えない。
20年以上朝日俳壇を読んでいますが、これからはもう、選者の添削後の句を読まされているのだ、と理解しなければならないのですね。投稿者の句を直接に鑑賞するのではなく、選者の目を通してしか鑑賞が許されないのですね。がっかりしました。
「百名山のうちの七つも」いっぺんに数えることのできる山深い故郷への帰省。おそらくは過疎問題なども抱えているのではありませんか。私は俳句にも「ひとのこと」を読み込みたいたちです。「写生」という事にはあまり興味がない。
山の多さと故郷のうら寂しさを読み取りたい。その意味で、「の」はあったほうがよい、と私は主張します。
名山が多くてなつかしくていい故郷だ、だけではないと私は読みました。
繰り返します。
必ず原句を示して下さい。評で何かを指摘することは構いません。
新聞読者が原句と向かい合って、それぞれの解釈をする自由をください。
鑑賞という行為も自己表現なんです。人に強制されたくない。
選者のフィルターで濾しわけたものしか味わえないんですか?
新聞俳壇は、ご自身が主催する句誌では決してないのです。
下手するとこれは「新聞俳壇」というものの自殺行為ですよ。
お聞き苦しい激しい言葉を吐きました。ご容赦を。
2009.7.27付 朝日俳壇より
大蟻の弾き出されし蟻地獄:(徳島市)椎野たか子
稲畑汀子 評:蟻地獄に落ち込んだ大蟻。たちまちひそんでいた蟻地獄が捕らえようとして弾き出された。難を逃れた大蟻と作者の存問。
原句では弾き出されたのは大蟻ですよね。違いますか?
評では弾き出されたのは「蟻地獄」=ウスバカゲロウの幼虫のように読んでませんか?
蟻地獄がとらえようとして(かえって蟻地獄が)弾き出されてしまった、と評の中段は述べていませんか?
でも、後段では、「難を逃れた大蟻」とも書いていますから、大蟻が弾き出されたと読んでいらっしゃるのかな?選者がどう理解したのか、うまく読み取れません。
アリジゴクが弾き出されたのなら、「大蟻に」でしょうね。
「大蟻の」ですから、弾き出されたのは大蟻ですよねぇ。
アリジゴクが、大きすぎると嫌がって大蟻を弾き出したのかな?
蟻が大きすぎてアリジゴクの力に余り、蟻が自力で脱出したのかな?
あるいは、体液を吸われて抜け殻のようになった大蟻が弾き出される瞬間を見たのか。
こんな大きな蟻まで食べられるのか、という驚きの句とも読めないことはない。この解釈、虫好きとしては、ありうるなぁ、と思っていますが。
そん‐もん【存問】(「存」は見舞う意) 安否を問うこと。慰問すること。[広辞苑第五版]
「難を逃れた大蟻と作者の存問」というのは「難を逃れた大蟻に、作者は、大丈夫だったかい?と声をかけている」ということですね?
どうにも、読みが安定しない。困った。評がこの不安定をもたらしたように思います。
2009.7.27付 朝日俳壇より
手の中に鮎の筋力ありにけり:(三木市)酒井霞甫
手の中で暴れる魚の力。慣れてくるとそれを無理なく受け止められるのですが、初心者は、思いきり力を入れて握っていても逃げられたりしてね。
実は、虫好きの私に言わせると、虫捕りも同じ。手の中に虫の筋力ありにけり。なんですよ。
いろいろやってみると、面白い。
魚はね、釣る方の経験は少ないのですが、食べる方はおまかせあれ。細部にわたって食べつくします。活きた伊勢エビがあれば、刺し身を作って差し上げましょう。
基本は「好きこそものの上手なれ」ですね、当たり前だけれど。
魚を切り身でしか知らない子は、生きた魚をつかんだ時に、暴れ、思うようにならないことに驚きます。でも、それが生きているってことなんだし、命をもらって食べる、ということは相手の力を認識することでもあるのです。
店の棚にならんだ「食材」しか知らないということは、悲しいことです。
2009.7.27付 朝日俳壇より
泳ぐ子を追うてゐし目も岸に着く:(八代市)山下接穂
口はおしゃべりに動員されていてもいいから、目はしっかりと子を捉えて離さない。これ、大事。子の命を守る基本。
子も、ある時、親の視線がいつも見守ってくれていることに気づきます。
最近、子連れで、子がいろいろ親に向かって発信しているのに、携帯に夢中の親も多くって。
傍から見てて、こわいよなぁ。
2009.7.27付 朝日俳壇より
夜濯ぎや日本のかたちにシャツ絞り:(船橋市)笈川夜白
大物を絞るには技が必要。肩から腕を駆使して絞り上げる技があるんですよね。
するってぇと、まっすぐじゃなくて曲がるんですね。「日本のかたち」とは、言い得て妙。
(アハハ、選者の方の言い方みたいだなぁ)。
2009.7.27付 朝日俳壇より
香水の敵意あらはにすれ違う:(岡山県)丸山敏幸
私、よい香りでも「かがされる」ということが苦手なたちでして。
香水というものは、女性がまとう「鎧」の一種でもあるわけですね。
それが「敵意」のごとくに、ある種の実体をもつもののごとくに、襲いかかってくることもあるのでしょう。
すごいポイントをえぐりましたね。ナットク。
2009.7.27付 朝日俳壇より
羽たたみ残して急ぐ天道虫:(北九州市)伊藤信昭
後翅の先端がはみ出していることはよくあります。
あれだけ薄い翅を、うまくたためる方がとてつもないことだと思います。
しばらく、動かしているうちに折りたたみが完成して前翅の下にちゃんと収納されます。不思議だ。
猫と生活していると、たまぁに、猫が舌をしまい忘れることがあります。あれかわいいですよね。
今度、甲虫が翅をしまい損ねていたら、教えてあげてください。あわてて、や、教えてくれてありがとう、と翅をしまうかもしれません。
2009.7.27付 朝日俳壇より
八十の肌とて容赦せぬ藪蚊:(府中市)酒井努
打たれたるそは人慣れぬ蚊なるらむ:(芦屋市)高杉靖子
雨後の庭朝一番の蚊に刺さる:(大分市)上尾さち女
蚊の句、3つ。
最近、刺されても昔ほど赤く膨らんだり痒くてかきむしることが少なくなったような。六十の肌というのはさすがに鈍くなったのかいなと、面白がったり。
そうそう人慣れした蚊もいないでしょう。卵を成熟させるための吸血ですから、一度十分に吸血すればそれ以上吸う事はない。あっちだって命がけですからね。ただ生きるだけのためには蜜を吸うのです、蚊だって。
蚊がひどくしつこくなる時ってありますね。雨後はその一つ。雨後でもあんまり蚊の顔を見ない時もあります。あちらにはあちらの都合というものもあるのでしょう。
変な話:私が自分の老眼を意識した出来事は、一つは1mm方眼のグラフ用紙がうまく見えなくなったこと、もうひとつが、飛んでいる蚊をうまく叩けなくなったこと、なんです。
遠ざかっていく蚊は叩きやすいんですね。ところが、近づいてくる蚊に目の焦点を合わせようとするとうまくいかない。あれあれ、と思っているうちに逃げられる。
最近、蚊を叩きにくい気がするなぁと思ったアナタ、それが老眼の始まりなんですよ。
2009.7.27付 朝日俳壇より
若き日の勘取り戻し泳ぎけり:(大村市)小谷一夫
泳ぐとか、自転車に乗るとか、キャッチボールをするとか、体で動きを覚えたことは、長い間のブランクを挟んでも、意外と体が思い出してくれるものです。これが小脳による運動の記憶の特性なのでしょう。
単純な反復ではだめなんですよ。自分の体がどう動いているのかを、自分でイメージとしてとらえることができて、理想の動きとのギャップが意識できて、それを近づけるように練習する、というのが効率的な練習方法なんです。体が覚える、頭が納得する、というのが大事。
がむしゃらな精神主義は無駄です。
平泳ぎ出来て読書が好きと言ふ:(金沢市)前 九疑
大串章 評:文武両道(?)の健やかな子供。今日もプールから帰ってきて本を呼んでいる。このまま大きく成長して欲しいものだ。
さて、「若い人」の方です。
今までできなかった平泳ぎができるようになって、今日はとっても上機嫌、ということはありませんか?そんな気もするのですが。
何十年か経つとね、体は覚えているもんだなぁ、と思うようになるんですよ。
2009.7.27付 朝日俳壇より
お向かひと地球の話水を打つ:(沼津市)羽田甲子雄
昔、夏の暑かった日の夕方、門前の道に打ち水をする、というようなことは日常生活の常識でした。熱い昼間にはしません。湿気が上がって蒸し暑さが増すだけだからです。また、道が舗装道路ではなくて、土の道でしたから、撒いた水が吸い込まれて溜まるというようなこともなかったのです。
ヒシャクでバケツの水を打つ。きれいにパッと開くようにまくもは、手や手首のちょっとしたコツがあるんですね。
今、ある程度以上の年齢の人が打ち水なんかしていると、そんな話も出るでしょう。今や、地球温暖化だ、省エネ冷却だ、なんだかんだと、打ち水が「地球の話」になっちゃった。そんな風な気分を読み取りました。
たいそうな話になりましたな。
2009.7.27付 朝日俳壇より
水着つけまづは鏡に入りけり:(海老名市)川上益男
長谷川櫂 評:プールの水に入る前に、冷たい水のような鏡に映してみる。一句に心のときめきがある。
私はまず、句だけを読む人なんです。作者名も読まない。
そうしたら、はじめ女性だと思ったんですね。水着が縮んじゃったわねぇ、と苦笑している女性かと。
ところが作者は男性。「まずは鏡に入った」けれど、あ~あ、なのではなかろうかと思ったのです。
評を読んで、そりゃないんじゃないかなぁ、と。
ナルシスティックに自分の筋肉美にときめいているわけでもないでしょう。やっぱり、苦笑の句なのではないのかなぁ。
私は毎週のように民間プールの一般開放に行って泳いでいますが、ナルシスティックになれるような肉体をお持ちの男性はまずほとんどいませんね。(失礼。ゴメンナサイ)。
私など、痩せてはいるけど、その分肌が緩んでしまって、水の抵抗で波打つんだもんなぁ。とほほ情けない。
さて、この句の真相や如何に?
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2009年07月27日(月)付朝日新聞の天声人語から部分引用します。
身体の露出が増えるからだろう、夏の前にはダイエットをうたうサプリ類の売れ行きが伸びると聞いたことがある。〈体重が増えしか水着が縮みしか〉前田千恵子。万人の心にひそむ飽食時代の「恐怖」が、ユーモラスに透けている。
・・・
現代の娘さんたちは、誰(た)がために身を細らせるのだろう。関連する業界やメディアが作り流す「美」のイメージは、人工的で、生身の人間からは遠いように思われる。「水着が縮んだのよ」と笑い飛ばすおおらかさが、周囲にも、彼女たちにもほしい。
2009.7.27付 朝日俳壇より
安いスーツ安いカバンで炎天へ:(入間市)峠谷清広
長谷川櫂 評:連日の炎天にも負けず、元気に働く人。現代の清貧の人というべきか。世のブランド趣味の対極に広がる俳句の世界。
皮肉を一つ。俳句の世界には「流派ブランド」がはびこってませんか?
俳句が「芸事」に変質しているのでがないか、と案ずる私です。
ブランドと無関係に、ブランドに楯突いて、句自体を読もうとしている、かかしです。
2009.7.27付 朝日俳壇より
夏来れば道路工事と巴里は化す:(フランス)平川美穂子
金子兜太 評:この句をわざわざ巴里から送ってくる人の楽しさ。
大家の金子氏に楯突くのは恐れ多いのですが、この評は作者に失礼だと思いました。
「わざわざ」という言葉がいけない。句は評価しないが、句を送ってきた労力は評価する、という表現になってしまっていませんか?この評はない方がいい。
フランスは9月あたりが年度初めで、7、8月は新年度前のバカンスの季節ではないでしょうか。
そんなことを考え合わせると、私ならこんな評になる。
「大規模バカンスで人の少ない年度末に道路工事が満ちる。彼の国もまた、か。」
こんな感じでどうですか。日本の年度末工事とあわせて皮肉を利かせることができると思いますが。彼の国にも似たようなことはあるんだなぁ、と。
2009.7.27付 朝日歌壇より
血の池と呼ばれ蜻蛉の生るるのみ:(名古屋市)近藤峰子
どこの「血の池」なんでしょうね。
愛知県長久手に血の池公園というのがありますが、今はもう池はないそうですし。
別府の血の池地獄じゃ、ヤゴが生きられるわけないし。
香川県高松市にも血の池というのがあるそうです。ここには池があるらしい。
その他にも「血の池」って、きっとあるんでしょうね。
できれば、詞書に、どこそこの血の池にて、と書き添えてもらって、選者の評で知らせていただけるとよかったな、と思います。
血のついた刀などを洗ったという伝説でしょうか。今は血の色もなく、蜻蛉が羽化してくる静かな池なのでしょう。
2009.7.27付 朝日俳壇より
蜘蛛の囲に身を反らしたる若さかな:(芦屋市)田中節夫
若さの持つしなやかさ、反射神経の鋭さが、うらやましいなぁ。
瞬間的な状況に反射神経で対応できるんだよなぁ。
もうダメ。
あっ蜘蛛の巣だとわかっていても(老眼だから蜘蛛の巣なんて見えない、というほうが適切か)、止まれないで、突っ込んで、顔じゅうに網を貼り付けて、眼鏡にまで蜘蛛の巣プリントして、ぶつぶつ、見えない糸を拭う羽目になる。
そういう年です。情けない。
若いって、すごいことですよ、まったく。
2009.7.27付 朝日歌壇より
手の甲にまるい突起物 ガングリオンガングリオンとはおまえのことか:(埼玉県)小林淳子
永田和宏 評:できた結節腫を嘆かず戯れる余裕。「聖書ダコ」と呼ばれることもある。
話には聞いていたが、これがガングリオンというものか、と眺めておられる。
直接命にかかわるというものでもないので、余裕も生まれるのでしょうけれど、なんとも、妙なものと付き合う羽目になったなぁ、という一種の慨嘆はあるでしょう。
民間療法などに走らずに、医者と相談しながら付き合い方を研究してください。
2009.7.27付 朝日歌壇より
肩腰に湿布を貼りて息を吐く 孫は来てよし去りてよしかな:(さいたま市)泉明
若いお母さんは、気合を入れて子らと一緒に動き回り走り回り、一緒に成長していきますが・・・。
孫となるとなぁ。
かわいくてしかたないのではあるけれど、体がもうついていかないな、というのも真実。
適当な距離感が必要ですね。祖父母の側も、父母の側も。
2009.7.27付 朝日歌壇より
真っ白な三枚パックTシャツを全部おろして夏は来たれり:(高槻市)有田里絵
Tシャツというのをあまり着ない人ですが、新しいシャツを下して気分一新、ということは分かります。着たきり雀で何年も過ごしてきましたが、今年珍しく新しいシャツを3枚買いました。
ふむ、気分が新鮮だな、と思っております。(新鮮なのは気分だけ。使い古した身体はギシギシきしんでしょうがない。)
幼いお子さん二人はきっとものすごい勢いで成長中。
この夏は、気合を入れて、夏しかできない経験をへと導いていくのでしょう。
さて、新しいシャツをおろして、
こどもたち!夏だよっ!
2009.7.27付 朝日歌壇より
救急のサイレン今日も聞こえくるニュータウン今は老いゆく団地:(広島県)宮本悠三
団地、街にも「年齢」がありますね。
昔、若い夫婦がいっぱい入居して、子をなし、子を育てた。全体が活気に満ちていた。
子らはやがて旅立ち、残ったのは年齢を経た夫婦。
東京にもそういう「ニュー」タウンは少なからずあります。
日本の社会全体が、持続可能なレベルまでいったん収縮する必要があるのかもしれません。
世代の交代による命の循環が定常状態になるのはいつになるのでしょう。
2009.7.27付 朝日歌壇より
水無月の日誌に書きし孤独死の人を悲しむ吾が身も老いて:(八戸市)山村陽一
高野公彦 評:死は悲しい、まして孤独死は――。そして自分も死へ近づいてゆく寂しさ。
鈍感な人なんですね、私って。死は悲しい、と必ずしも思っていない。非業の死は悲しいけれど、順なる死は祝福されるべきことだと思っています。
孤独死が悲しいとも思っていません。どうせ死ぬのは一人で。誰にも知られず一人静かにこの世から消え去るれるのならば、それはむしろ幸福なことだ、望ましい死に方だ、と考えるものです。
生きてるんですから死にます。
死ぬんですからちゃんと死にたい、それだけです。
2009.7.27付 朝日歌壇より
四針縫合だけで終わりぬ石頭階段10ケも転落をして:(三鷹市)稲垣元博
お気をつけくださいね。
人生が変わってしまう可能性もありますから。
私なんぞ、石段をたった一段落ちただけで、右足の膝をひねり、なけなしの行動力をさらにまたほとんど失ってしまったのです。
年齢を重ねると、踏ん張りはきかないし、とっさの動きも思うようにはならないし。
用心するほかありません。
どこかをかばうと、かならず手痛いしっぺ返しを食らうし。
かばうのが一番いけません。
素直に、そして、少しずつ。
若いころのようにはいきません。
2009.7.27付 朝日歌壇より
「そういう所あるよねぇ」で人格が決められてゆく外されてゆく:(町田市)冨山俊朗
これって、血液型の話じゃないですか?
血液型性格判断には一切の根拠がありません。もうやめてください。
「楽しむだけなんだから、むきにならなくていいじゃない」と言われますが、実害が多数発生しているのですから、やめるべきです。これは差別です。
・採用面接で血液型を聞かれた。
・ある会社の社長は、仕事の実績に血液型による指数をかけて、社員の賞与を決定していた。A型は元々几帳面だから0・8、B型はマイペースなのに成果をあげられたから1・2倍などだった。
こんなことが許されていいと思いますか?
明白に実害があるのです。
血液型性格判断があるのは、日本だけですよ。
公然たる差別がなぜ許されているのでしょうか?
2009.7.27付 朝日歌壇より
プランターのきゅうりのコストを計算す経済学を学びし妻は:(石川県)吉川明彦
経済学ではおそらく、きゅうりの成長、開花、結実という過程がもたらす喜びを計算に入れることはできないでしょうね。それが入らなければ、家庭菜園はすべて大赤字にきまってます。
共に生きることの価値を入れればコストは決して高くない。
農家は命の価値を肌に感じながら出荷し、末端での消費者は単なる商品として買う。
そのギャップをなくすことが「エコ」なのだと思いますよ。
2009.7.27付 朝日歌壇より
自転車で夕刊配る若き女性ひと息ついて手鏡覗く:(奥州市)大松澤武哉
髪の乱れ、汗をぬぐった化粧の乱れ。手鏡を覗く動作は女性特有のもの。
(男が手鏡覗いても、鼻毛抜くくらいで、色気も何にもありゃしない。)
その光景が夕方の街に、一瞬風を吹かせたような気分だったのでしょうね。
2009.7.27付 朝日歌壇より
置くなよと言わんばかりに赤子の手ぎゅっとつかんだわき腹の肉:(ひたちなか市)沢口なぎさ
佐佐木幸綱 評:抱いている赤ちゃんの手が、脇腹をつかむように動いたというのだ。ユーモア感覚がうれしい。夏服ならではの感触。お母さんの歌か。
歌を呼んで、しばらくの間「置くなよ」の意味がつかめなかったんです、お恥ずかしいことでした。
「私を布団に置かないでよ、抱っこのままでいてよ、と言わんばかりに」なんですね。
下の歌とあわせてお読みください。生後2か月の赤ちゃんです。
こうのとり娘をつれてくる途中おやつをあげすぎてはいませんか:(ひたちなか市)沢口なぎさ
高野公彦 評:葉書に「生後2か月」とある。さかんに母乳をほしがる赤ちゃんを、童話仕立てで歌ったのが面白い。
元気でいいなぁ。
短歌じゃなくなるんですけれど
こうのとり こうのとり
娘をつれてくる途中
おやつをあげすぎてはいませんか
こんなふうにして、声に出して読んでみてくれませんか。
いっぱい いっぱい
おっぱい飲んで
いっぱい いっぱい
すやすや寝て
ぐんぐんそだってくださいね。
2009.7.27付 朝日歌壇より
巣に付きし木の葉手早く落とし終え孤独の世界に還りし蜘蛛は:(富士吉田市)萱沼勝由
世界とは、配偶相手、餌、敵、それら以外からなるものでしょうね。
どのレベルにおいてもクモは孤独です。昆虫類も社会性昆虫などはちょっと構成の仕方を変えなければならないですけれど、基本的に孤独です。
果たして、ヒトは孤独ではないのか?孤独ではないというのは幻想ではないのか。
生まれるといい死ぬといい、孤独であることに間違いはない。
せめて、立ち会う事が出来た者としては、祝福し、冥福を祈るのみ。
それは、ヒトに対してだけではなく、昆虫やクモたちに対しても同じでありましょう。
2009.7.27付 朝日歌壇より
白妙の木天蓼(またたび)の花咲き匂う峡の沼田のハッチョウトンボ:(伊那市)小林勝幸
作者にゴメンナサイ。
ひたすら私は「いいな、イイナ、いいなあ~~~」なんです。
「私もハッチョウトンボ見たいよ~」
ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉 Nannophya pygmaea )は、トンボ科に分類されるトンボ。日本一小さなトンボとして知られ、世界的にも最小の部類に属する。
形態:成虫の体長は雄で20mm、雌で18mmほどで極めて小さい。一円玉の直径が20mmなので、その中に頭から腹端までが納まることを考えれば、いかに小さいかがわかる。雄の体は羽化直後は橙褐色だが成熟すると体全体が赤みを帯び、羽化後20日ほどで鮮やかな赤色となる。 雌は茶褐色で、腹部に黄色や黒色の横縞がある。翅の大半は透明であるが、付け根付近は美しい橙黄色になる。幼虫(ヤゴ)も体長9mmと非常に小さく、緑色を帯びた褐色であるが、体表が泥で被われていることが多い。
有名なんですが、見たことがありません。
もう旅行する体力は失って久しいので、わが人生にハッチョウトンボなし、なんですよねぇ。
いや、うらやましいことです。
2009.7.27付 朝日歌壇より
どう見ても後期高齢者の猫が来て庭石の上しばし寝てゆく:(佐世保市)近藤福代
コメント無用ですね。世間は「お互い様」で出来上がっております。
2009.7.27付 朝日歌壇より
出尽くせば汗出ぬことを知りたるは夏の船底に作業せしとき:(横須賀市)丹羽利一
それはそうなんでしょうけれど。
汗がもう出ないほどに出尽くした後に来るのは、熱中症。
どのような職業であられたかはわかりませんが、どうかお体を大切になさってください。
別件ですが、障害者の中には、旅行したいけれど、列車のトイレが使えなくて、トイレに行かなくて済むように、前日から水分を制限して体を絞るという方がおられます。
夏の旅行は命がけ、という事になってしまいます。
体に水分をいっぱいもって、安心してどこへでも自由に行けるようになりますように。
2009.7.27付 朝日歌壇より
道を聞く老婆を囲み中学生船団のごと動き始めぬ:(東京都)丸木一麿
馬場あき子 評:中学生船団は老女に対する集団ぐるみの優しさがうれしい。
私は高校教師でしたからね。いかつい男子高校生の「気のよさ」を十分に知っています。
いろいろ騒がれる年代ですが、基本的にはとっても気のいい連中ですよ、中学生も高校生も。
タフだし、しなやかだし。こういう連中が気のよさを発揮すると、実に楽しいことになる。
ちょっと外れますが、災害時ね、中学生や高校生をもっと組織的に走り回らせていい。(もちろん危険のない範囲でね。)
重い水汲み、食事の配膳、高齢者のお世話、どんどん使えばいい。疲れさせてしまっていい。彼らの回復力は信じられないほどなんだから。自分が役に立てる、という楽しさを存分に味あわせてやっていいと思うんですよ。
2009.7.27付 朝日歌壇より
浅場にて麦の穂ほどに育ちたる烏賊が深場へ落ちゆきて夏:(中央市)前田良一
馬場あき子 評:烏賊の成長とともに来る夏の感覚に風土性がある。
佐佐木幸綱 評:いよいよ本格的な夏の到来をうたう。「麦の穂ほどに」がユニーク。
私ってホントに無粋。この歌を「レポート」のように読みました。
何イカかは知らないけれど、浅いところで麦の穂程度まで成長すると、夏の頃になると、深いところへ去っていくのか。そういう習性があるなんて知らなかった。これで、イカの種類までわかると楽しいな。
と。
知らなかった「行動」を知ることができて、嬉しかったです。
イカの種類、内緒で教えてください。
[恋する大人の短歌教室](2009/07/27 朝日新聞より)
{応募作}
見上げたる 2階の窓に 青いシャツ 振り向きますように 心から願う:神奈川 山口モカ
青いシャツの男性に恋をしている女性。どの程度親しいのか、まだ憧れのみの段階なのか、ともかく後ろ姿で想う相手を識別できるなんて、恋心のなせる業なのでしょうね。ちょっと切ない感じのする、初々しい歌です。
ただ、どうも第一句にひっかかります。内容も歌いぶりも口語系なのに、ここに使われている助動詞「たり」の連体形「たる」だけがいかにも文語だといった顔をしていて、違和感を覚えずにはいられません。文語の「たり」に相当する口語「た」を使った方がよいのではないでしょうか。「見上げた」として第一句を四音節にすると玄人好みですが、とりあえず「仰ぎ見た」としてみました。算用数字になっているところは、やはり漢数字に。各句の間にある一時空きは、ひとつだけにしておきました。第四・五句の字余りは気になると言えば言えますが、作者のやるせない気持ちが溢れ出ているかのようで、むしろ魅力的だと感ぜられます。(石井辰彦)
{添削後}
仰ぎ見た二階の窓に青いシャツ 振り向きますように心から願う
いつもの2階。目をやれば今日は青いシャツ。振り向いてくれないかな。振り向いてよ。
比較的穏やかな添削でした。
「第一句を四音節にすると玄人好み」といいつつ、「第四・五句の字余りは気になる」というのが私には理解しにくいところです。「仰ぎ見た」という「仰ぐ」という角度は気になるので、むしろ字足らずで、「見上げた2階の窓に」とした方が、読んだときなめらかに心に入りこんできますが。
字余りは全然気にしない。短歌としてのリズムは崩れていません。
短歌を踏み出して、もう一回、「心から願う」を繰り返してつけてもいいくらいに思っています。
私としては、文語も口語も入り混じっていていいと思います。道具としての言葉のバリエーションが広がるのなら。むしろ、文語だけにこだわるような姿勢には否定的です。
「2階」はそのままの方がいいですよ。敢えて言ってしまえば、「二階」は木造家屋、「2階」はオフィスビル。
こういうのも作者の表現手段として認めるべきだと私は思います。
一時空きを一つにするのには賛成します。
見上げたる
目をやれば
見上げれば2階の窓に青いシャツ 振り向きますように心から願う
2009.7.27付 朝日歌壇より
歩行虫(オサムシ)か塵芥虫(ゴミムシ)かはた埋葬虫(シデムシ)か雨あがりを行く子細ありげに:(新潟市)太田千鶴子
馬場あき子 評:蒸し暑い季節に繁殖する歩行虫や塵芥虫、埋葬虫たちのうごめきが目につく頃だ。夏のいのちのいぶせさもあるが、第一首の結句「子細ありげに」が面白い。どんな虫にもその動きには理由がある。
永田和宏 評:虫の名は面白い。どれも漢字とのセットでヒドイ命名だが、素人には見分けがつきにくい。シデムシは日高敏隆さんお気に入り。結句が飄逸。
◆語彙不足ですみません。「いぶせさ」がわからなかった。
いぶせ・し【鬱悒し】形ク
①(恋しさ、待ち遠しさなどのため)気分が晴れず、うっとうしい。万葉集4「ひさかたの雨の降る日を唯独り山辺にをれば―・かりけり」
②いとわしく、きたない。むさくるしい。沙石集1「人は―・き事に思ひて見訪ふ者もなし」
③恐ろしく、気味がわるい。平家物語9「余りのいぶせさに、目をふさいでぞ落しける」
はて、馬場氏のおっしゃる「いぶせさ」ってどれかな?②か③なんでしょうね。
夏の虫たちは気持ち悪いけれど、「子細がある」というように擬人化すると面白味が湧く、とおっしゃっているのかな、多分。
永田氏は生物学者だし、おそらく一応、ここにあげられた虫たちの名や姿をある程度ご存じでいらっしゃる。虫として美しいものもたくさん含まれていますのでね、この名前の中に。そのことを御存じなので「ヒドイ命名」とコメントされた。
ただね、動物行動学者・日高敏隆さんのお名前を知っている人は、どうかな、短歌を詠む方々の中ではポピュラーではないのではないかな。シデムシが日高さんのお気に入り、と聞かされて、なるほどやっぱりね、と思う人はきっと少ない。ということは、さらに日高さんという名前に註が必要になってしまうので、短い「評」の中に書き込むのは必ずしも適切ではなさそうですね。
お二人とも結句の「子細ありげに」に惹かれたようですが、その機微が私にはよくわからなくて。
単純虫好きおじさんの無粋です。餌さがしに、いろいろ向きを変えながら歩き回っているということでしょ、と思ってしまう。詩心がないなぁ。
むしろ、上げられた虫たちの名から、実物のことを思い出して楽しんでいるというのが本当のところ。また、よく漢字を調べられましたね、という所にも感心しています。
慣れると、この3つのグループはそう無理なく見分けられます。子細に見てくださいな。(種まで同定できる必要はないですよ、ああこれはオサムシの仲間だ、これはシデムシだね、と分かれば十分です。)
オサムシは、機織り機の「おさ」(筬)から来た命名でしょうね。形が似ているわけではないけれど。(形ならむしろ「ひ」(杼・梭)に似ている気がする。)
参考までに広辞苑から
おさ‐むし【筬虫・歩行虫】ヲサ オサムシ科のうちオサムシ亜科に属する、比較的大形の甲虫類の総称。体は細長く、筬に似る。大多数の種は後翅がなく飛行不能のため、地域分化が著しい。成虫、幼虫ともに肉食。美麗種や体形の変ったものが多い。オオオサムシ・アオオサムシ・マイマイカブリなど。
ごみ‐むし【芥虫・歩行虫】
オサムシ科のうち、オサムシ類以外の甲虫の総称。体は長楕円形で、多くは黒褐色、光沢がある。石やごみなどの下に多く、肉食性。日本に千種以上が分布。その一種のゴミムシは、体長約13ミリメートル、黒色で光沢がにぶい。草むらの中、石の下などに多く、夜行性。しで‐むし【埋葬虫】
シデムシ科の甲虫の総称。体長は約3~30ミリメートル。一般に体は扁平長楕円形。前胸は亀甲形で盤状、触角末端部は球稈状。成虫は好んで動物の死屍に集まる。幼虫も腐敗物を好む。
家の周りをブラブラしていたら、妻が家の裏の方からミョウガをとってきました。家に自生するミョウガです。
もちろん食べました。おいしかったです。
わたくし、ミョウガとかショウガとか、そのものをそのものとして食べるのは好きなんです。
でも、ショウガを「匂い消し」に使うのは大嫌いなんです。
鰯の料理なんかで、すぐ臭みを消すためにショウガを、とかいいますよね、あれがダイッキライ。
臭みまで合わせてすべてひっくるめてこそ「鰯」でしょ。その臭みを消そうなんて、鰯に対して失礼です。と考える私です。
へそまがり。
シソもそうだな。シソとして食べるのはいいけれど、シソで匂い消しをするのはきらいだ。
へんなおじいさんなのでした。
クロアゲハが飛び去ったあと、妻と二人でまた、家の周りをぶらぶらしていましたら、今度は、妻の周りをアオスジアゲハが飛び回り始めました。
この写真の右上の方に青緑色のものが写っていますが、これがアオスジアゲハです。場所が木の下で暗くて、なかなかシャッターがうまく落ちてくれませんでした。
なんとかチョウらしく撮れました。
このすぐそばにクスノキがあるので、やはり産卵に来たのだと思います。
でもまぁ、ずいぶん長い時間、妻の周囲を飛び回っていたんですよ。そう化粧をする人じゃないし、遊びに来てくれたような、姿を見せに来てくれたような、またまた嬉しくって。(化粧品の防腐剤などの香りにチョウがひかれてやってくることはあります。)
二人して、この日は、なんだかずっと気分が弾んで、嬉しくって、「佳い日」でした。
「あ~、すごかったなぁ、なんだったんだろう、あれ。うれしかったなぁ」と繰り返す二人でした。
これ、クロアゲハが私のそばで飛び回っているところなんです。
カメラを振ってなんとか追随して、シャッターを切りました。顔や胴体は何となく写っているのですが、翅は羽ばたいていてぼやけています。
すぐ足元のランタナの花にとまります。
右の後翅が少し欠けています。何かあったのでしょうが、元気に飛び回り、花の蜜を吸っては、飛びあがって、反対側のキンカンの葉に産卵に行きます。
羽ばたきながら口吻を伸ばしています。
少し痛々しい感じもしますが、元気ですよ~。
これ完全に逆光ですが、産卵中です。腹部を曲げてキンカンの若い葉に産卵しています。
産卵してはランタナの蜜で一服し、また木に戻って、ということを何回か繰り返し、その間、私の顔の周囲を飛び回り、翅を打つ風を頬に感じたほどです。
なんだか嬉しくって。無性に嬉しくって。妻を呼んでしばらく二人でクロアゲハの行動を鑑賞していました。我が家で羽化した成虫かどうかは全くわかりませんけれど、なんだか、姿を見せに来てくれたようで、心の底からあたためてもらいました。
ネコジャラシ=エノコログサに、小さなカメムシらしきものがついています。
これが全体像。
調べてみると、ヨツボシヒョウタンナガカメムシ。
中胸部に四つの星があって、前胸部が膨らんでひょうたん型の、ナガカメムシ、のようですね。
よく見ると、細い針のような口がまっすぐエノコログサの葉脈に刺さっているようです。
細い口を収める鞘がくの字に折れ曲がっています。
科と似てる。
こちらはエノコログサの穂にいた幼虫。
翅が未完成で、翅芽の状態です。
実を熟させるために植物体が穂に送り込んでいる栄養分がきっとおいしいんでしょうね。夢中で潜り込んでいました。
これでエノコログサが全滅するわけでもなし、毎日、観察しています。このカメムシはかなりエノコログサ特異的なようです。いまのところ他の草では見かけません。
いつものアリグモより飴色だな、と思って撮影。
「日本のクモ」という本の、最後のページに掲載されている2種。
ヤガタアリグモかタイリクアリグモではないか、と思うのですが、腹部上面の模様がどちらとも微妙に違う気もします。
それともまだ幼体で、模様などが図鑑と違うのかなぁ。
ヤガタアリグモ:平地に生息。草原、樹林地とその周辺などの草や樹木の葉上、枝や茎の間に見られるが個体数は少ない。タイリクアリグモに極めてよく似ており、外見での区別は難しい。2004年の日本蜘蛛学会第36回大会において、池田博明により日本新記録種として発表された。
タイリクアリグモ:アリグモより茶色が強く、成体での区別はつけやすいが、アリグモも幼体期は茶色であるため、幼体での正確な同定は不可能。平地~山地まで分布するが、個体数は少ない。・・・
困りましたね。私は普通種でいいんです!個体数の少ない希少種にはあまり手を出したくない。普通のクモさんと遊んでいられればいいんです。
以上、この写真からは種の同定は無理でしょう。
花は花で美しいのですが、花が終わって、花びらが落ち、オシベも落ちたころ、メシベの付け根の子房がはっきりわかって、花の咲いている最中よりある意味で面白いという事に気づきました。
で、このごろ、花の後、というものに関心を持っています。
上の写真では、花びらやオシベもまだ残っていますが、子房がはっきり見えています。ここがキンカンの実になる部分です。
アブラムシもたかっていますが、しょうがないですね。そういう中で、実るもの実らないものができて、「ちょうどいい」になっていくのでしょう。
こちらはもう花の姿はありません。
未熟な青い実、です。
ただ、ここからメシベが伸びていたよ、という跡は残っています。
花は実を実らせるための器官です。そこまでちゃんと見てあげたいと思います。
朝日新聞の報道動画です。
「水平線だけが明るい帯になる」とあります。
「水平線は赤く染まった」というキャプションがついた写真です。
さて、太平洋上の船の上から眺めて、頭上が真っ暗な時に、なぜ360度全周の水平線が赤く染まるのでしょう?
船の上の人は頭上に半径100kmの黒い傘をさしている、と考えてください。その傘の中で日食が見えています。
ところが、傘の覆いの先は明るいのですね。濃い半影部分から明るい半影部分へ、その先は全くの昼。
その明るいところからの光が、水平線ギリギリの低い角度で走ってきて船の上の人の目に入る。
これって、夕方の夕焼けと同じですね。水平線のこちら側はもう暗くなってきているのに、水平線の向こうの太陽からの光が低い角度でさしてくると、夕焼けになります。
昼間の青空、太陽光が空気で散乱されて生じるのですが、波長の短い青い光が散乱されやすいのです。赤い光は散乱されにくく、遠くまで届きます。
低い角度の光は長い距離を通ってきますので、白色光のうち、青い光は散乱で失われ、赤い光が届いてくるのです。ですから、「夕焼け」は赤いのです。
日食のときも同じこと。月の影の傘の外からの光が長い距離を進んで赤い光が届くのです。しかも、月の影の丸い傘の全周が同じ状況ですから、360度、見わたすかぎり水平線が明るく赤くなるのです。
◆水平線って自分の位置からどのくらい先なんでしょう?
図の中に式を書き込みましたので読んでください。ピタゴラスの定理を使っているだけです。
おおざっぱな話ですので、近似を使っています。
地球の半径 r=6378kmを入れると
高さ h kmの位置から見る水平線までの距離xは
x=113×√(h)
となります。
h=1km(1000m) x=113km
h=0.1km(100m) x=36km
h=0.01km(10m) x=11.3km
h=0.02km(20m) x=16km
h=0.001km(1m) x=3.6km
h=0.002km(2m) x=5.1km
海岸に立つ身長2mの人が見る水平線は海岸から5kmくらい先なんですね。
大型の船の上が例えば海面から20mあったとしますと、水平線は16km先です。
半径100kmの傘の下ですから、光源は水平線の向こうにあるわけで、まさしく夕焼けを見るのと似た条件なのですね。
◆今回の日食に関してお話したいことはほぼ尽くしたと思います。
もしまた何か思い出したら、その時書きますね。
授業でも、こんな雰囲気だったんですよ。本来の授業から脱線して日食の授業を1hくらいやるんですね。
プリントを2,3枚作っていって、詳しく知りたい人はプリントをきちんと読めばちゃんと理解できるようにして、授業では、要点をかいつまんで話すわけです。
こんなことばっかりやってましたからね、同じ授業ができるわけがない。
やれ日食だ、やれ雪が降った、やれ雷が鳴る、やれ青空って何だ、やれ誰かがあくびした、猿にはあくびがうつるか、・・・・
その日その時、授業はライブ。
同じ授業は2度とできないんです。一回っきりのものなんです。
授業って生徒と教師が共同で作る「創作物」なんです。
授業って、始まりから終わりへ向かって、誕生し成長し終焉する「生き物」なんです。
授業を殺さないでください。
2009年07月18日(土)付 の朝日新聞「天声人語」の一部です。
・・・
月の400倍の直径を持つ太陽が、約400倍のかなたにある。この奇跡が二つの球体の見かけの大きさをそろえ、月が日にぴたりと重なる時が巡り来る。創造主からの贈り物と言われるゆえんだ。
・・・
こんな表現を、今回、何回も見かけました。
ここでは、これにかかわる話をしましょう。
データは理科年表を参照しています。
◆
月の赤道半径= 1738km
太陽の赤道半径=696000km
696000/1738 = 400
なるほど、400倍大きい。
月の軌道の長半径= 38,4400km
地球の軌道の長半径=1,4960,0000km
149600000/384400 = 389
なるほど、約400倍遠いですね。
◆図1を見てください。
△ABCと△A'B'C'があります。
∠ACB=∠A'C'B'=直角 とします。
便宜的に、AC=a、BC=b とします。
また、A'C'=400a、B'C'=400b とします。(図形の実際の大きさの比は400なんて全く無視していますが話の進め方には問題ありません。)
これが、「400倍大きなものが、400倍遠いところにある」という言葉の内容ですね。
すると
AC:BC=A'C':B'C'=a:b であり
∠ACB=∠A'C'B'
ですから
△ABC∽(相似)△A'B'C' となります。
二つの三角形が相似ですから
∠BAC=∠B'A'C'
となります。
そうすると
左の図2のように、二つの三角形を重ねることができて
A(A')のところに眼を置くと、BCとB'C'が重なってしまって角度的に同じ大きさになるのです。
お分かりと思いますが、皆既日食の場合、BCが月の半径、B'C'が太陽の半径ということになります。
というわけで、「400倍大きなものが、400倍遠いところにある」と「月が日にぴたりと重なる」という言葉の正当性は、このように三角形の相似、という形できちっと裏付けられるのですね。
感覚的には納得しますが、ホント?と確かめてみるのも無駄ではないでしょう。
数学って生活に役立つんですねぇ
◆実際のところ、∠BAC=∠B'A'C'はどのくらいの大きさの角度なのでしょうか?
この図3を見てください。天体の実際の大きさではなく、天体を見る角度で大きさを議論するのですね。
図3の中のθを「視半径」といいます。
月について
tanθ=1738/384400=0.004521
です。
タンジェントが求まればアークタンジェントという関数で角度が求まりますね。
arctan(0.004521)=0.004521
あれ?!タンジェントの値と角度の値が同じになっちゃった。いいのかな?
高校数学で極限を学ぶと、θ→0のとき、((sinθ)/θ)→1 というのを習ったと思います。
(tanθ)/θ=(sinθ)/((cosθ)・θ)=(1/cosθ)((sinθ)/θ)
ここでθ→0のとき、前のカッコ内は1に近づき、後ろのカッコ内も1に近づきますので
結局、θ→0のとき、tanθ=θになってしまうのですね。
ただし、これは角度をラジアンではかっている時のことです。これではピンときませんから
度にしてみましょう。
ラジアンを度に換算するには、(180/π)という値をかけてやればいいのです。
0.004521×(180/π)=0.2590度 です。
1度の約1/4位ですね。
ちゃんというと、15分32秒くらいです。これが月の視半径。
太陽はというと、
tanθ=696000/149600000=0.004652
θ=0.004652rad=0.2665度=15分59秒 これが太陽の視半径。
視半径がほぼ同じですから、「太陽と月の見かけの大きさはほぼ同じ」で、重なることがあれば、月が太陽を隠すことができるわけです。
これが日食なのです。
ところで、
針式の時計の一目盛は6度です。
ですから、月や太陽の視半径は時計の一目盛のさらに24分の1という角度なんですね。
1円玉の半径は1cmです。2m=200cm先に置いた1円玉の視半径は17分11秒くらいです。ですから
太陽や月は2m先の1円玉よりもう少し小さいくらいなのですね。
黒い線は資料を見ながら私が適当に描きこんだ皆既日食帯の北と南の限界線です。
地図の下のスケールを使って、皆既日食帯の幅を見積もると、約240kmくらいありますね。
皆既日食「帯」というものは、地表に落ちた月の「丸い影」が移動していく帯です。左図がそのイメージです。
ということは、皆既日食帯の幅が、月の影の直径である、と考えていいでしょう。
地表に落ちた月の影は直径約240kmという事です。
帯のほぼ中心に位置する悪石島では、この240kmの影が約6分半くらいで通過していったわけです。
240km/6.5min=36.9km/min
分速37kmといってもピンときませんね。60倍すれば時速になりますね。
36.9km/min ×60≒2200km/h !!!!
時速2000kmですよ!
物体が動いているわけではなく、影という現象の移動速度ですから、周りの空気をまきこんで・・・などということはないからいいですけどね。
時速2000kmというのは想像を絶していますね。
地球に落ちた月の影が移動していく様子の動画が見られます。
気象庁のサイトです
http://www.jma-net.go.jp/sat/data/web/suneclipse_observation.html
気象衛星ひまわり7号が撮影した15分ごとの画像を動画化したものです。インドの方に現れた影が猛スピードで太平洋の方へ抜けていくのが見えます。なかなかに見ものです。どうぞ。
地表に立って、太陽の前に月が入って隠した、という出来事が、別の側面で見ると地表を走る影ということにもなるのです。「視点」の変更って、結構楽しいですよ。
更に別の見方もあります。月も地球も太陽に照らされて、宇宙空間にいつでも影を曳きながら運動しているわけです。月と地球、それぞれに相手の影に入ってしまう事があるわけで、それが今回のような日食であり、月食であるわけです。
月の影は月食のときだけあるのではなくて、いつも宇宙空間に影を曳いているのですね。
◆宇宙的な話は人間のスケールを絶しています。
地球の自転速度は赤道上の点で、約1680km/hです。
公転速度はというと、なんと、10,8000km/h=30km/s です。
すごいでしょ。
昨日は那覇での気温変化のグラフを掲載しました。
なかなか楽しい作業でした。
今日は、皆既日食帯に入った鹿児島県中之島での気温変化をお目にかけます。悪石島と屋久島の中間付近にある島です。
晴れていれば、日の出とともに気温が上昇し始めて、日食の時間帯にぐんと下がる、ということになったはずですが、残念なことに、雨。
朝、27℃くらいだった気温が、日中にかけて下がっていきました。
グラフ中の青い線が、強引に全体的傾向を示すかな、と描いた線です。
ところが、日食が始まったころから、気温がぐんぐん下がりました。
そして、日食が終わると、また本来の気温低下傾向の線へと復帰していく、というのが、なんとなく、ストレートには理解していませんが。
そうなんだなぁ。
グラフを眺めて、いろいろ解釈してみてください。データは気象庁のホームページから頂きました。
気象庁のホームページから、気象統計を取りだしてグラフ化しました。
2009.7.22の那覇における10分ごとの気温の変化です。
那覇での日食は9時32.7分に始まり、最大は10時54.0分で、食分は0.917、12時20.2分に終了でした。天気は晴れたり薄曇りだったようです。
グラフを見ると、10時頃から気温が下がり始め、11時ころに谷底に入り、12時半ころには回復したようですね。
これは、日食の影響でしょう。日が陰って気温が下がる、ということを、肌で感じたことはありますが、グラフ化できたのは初めてでした。
この気温のグラフ化についてのヒントは、当日2時からのNHKの「お元気ですか 日本列島」という番組の中で、気象予報士の関嶋梢さんが紹介しておられた、那覇での気温変化のグラフです。当日ですので、グラフは部分的でした。
そこで、翌日の今日、7月22日全体にわたってのグラフを私がエクセルで作ったものです。まぁ、みごとですね。
小学生の頃、潮干狩りの最中に、かなり食分の大きい日食があって、空気がひんやりしたのを覚えています。多分、宇宙飛行士の毛利衛さんが宇宙への関心を持つきっかけになった日食と同じものでしょう。
2009.7.20付 朝日俳壇より
会釈して消ゆる幽霊夏芝居:(三鷹市)大津留貞人
大串章 評:夏芝居には怪談物が多い。「幽霊」が「会釈」をして消えた、のが面白い。
芝居の一座がまわってきたのか。そうだとしても、毎年なじみの顔。芝居以外では一緒に飲み食いもある同士。
あるいは、芝居の一座ではなく、地元の有志一同による芝居。そうなればみんな顔なじみ。
というわけで、顔なじみですから、幽霊の役者も目が合えば、つい会釈をしてしまいます。
(芝居小屋 幽霊よりも蚊が怖い)
2009.7.20付 朝日俳壇より
黒枠の写真に今日の暑さ云ふ:(岡山市)大本武千代
大串章 評:生きている人に言うように「今日は暑いね」と遺影に呟く。この日の暑さは生涯忘れないだろう。
また、評に逆らってしまいますが。
「この日の暑さは生涯忘れないだろう。」この一文はなくていいんじゃないかなぁ。
「毎日、毎日、あついねぇ」「この世は暑いよ、あの世は涼しいかい」「今日も一日暑かったよ」・・・
なにかにつけて、写真に話しかけて、ふっと、ため息をついて。
私を置いて、先に逝っちゃってさ、と、愚痴の一つもこぼしながら、大丈夫、何とか生きてますよ、と伝えたい。
きっと。
2009.7.20付 朝日俳壇より
汗の身を搾らば限りなかるべし:(神奈川県)中島やさか
いやまったく。どこからこれだけ汗が出てくるのか、不思議なくらいに出ます。もし洗濯物のようにしぼったら、きっと、すごい量がしぼり出されるんでしょうね。
汗は際限なく、出る。
昔話:幼いころ、母は井戸端で盥と洗濯板と四角い洗濯石鹸で、手で洗濯をしていました。
小物は手で握って搾りますが、シーツのような大物を搾るには、両方の腕全体を使う「技」がありました。(表現できないけど。)
小学生になって、いつか、洗濯機を買いました。2本のゴムローラーがついていて、手でクランクを回して、ローラーの間に洗濯ものを通して搾るんですね。ノシイカみたいになって出てくるんですね。面白くって、ちからまかせにまとめて搾ると、母親に叱られましたっけ。それじゃ、水が搾りきれないでしょ。と。
広げて、まんべんなく圧力を加えて搾るのです。
今、そんな話は通じないでしょうから、手でちょっとしたものを搾る以外は、回転式の「脱水機」が思う浮かぶんだろうなぁ。
2009.7.20付 朝日俳壇より
ぱつと閉ぢゆつくり開く川蜻蛉:(高岡市)杉本透
「カワトンボ科」の「カワトンボ」でしょうかね。
私はカワトンボ科ではハグロトンボしか見たことがないようです。
カワトンボ科は「均翅亜目」というグループに属していて、前翅と後翅が同じ大きさで、体つきがきゃしゃで、止まるときにたいていは翅を閉じます。イトトンボ科も翅を閉じますね。(アカトンボや、ヤンマなどは不均翅亜目といいます。)
ということで、翅を閉じてとまるという習性が詠みこまれています。
川の涼しげな雰囲気が伝わってきますね。
2009.7.20付 朝日俳壇より
に、し、び、き、れ、い、ね、と人工発声器:(札幌市)諸中一光
長谷川櫂 評:俳句に点や丸は不要なのだが、この句の場合、とぎれとぎれの息づかいを伝える。何事も臨機応変。
この読点は、普通につかう読点とは違うんです。
笛のような機械的な振動や、ブザーのような電気的な振動を、口のなかの空気に伝えて、構音器官の形を変えて発声する道具=人工発声器、で話しておられる。おそらくは喉頭がん手術で声帯を失われたのでしょう。
ですから、一音ごとに切って発生しないと、子音がうまく構成できません。
この句で使われた読点「、」は一音ごとの間にある切れ目を表現する文字、ある意味で「無音文字」なんです。
俳句では読点は不要、とか、臨機応変、などと言っていられる場合ではないのです。
読んでください。一音ごとに、口と舌と喉の形を変えて、一音ごとに肺からひと吹きの息を吐き出して。
あるいは、食道発声法のように飲み込んだ空気をひと固まりずつ口に送り込んで一音を構成する。
そういうことをイメージしながら、声に出して読んでください。五、七、五なんかどうでもいいんです。
いったん失った言葉を回復することの意味を考えながら、読んでください。
以下、新聞記事から引用します。
声失った妻よ、「きょうも寅さんになるよ」2009年6月3日 朝日新聞
東京で、腹いっぱいご飯を食べられるくらいの人気者になりたい。タレント原一平さん(71)=世田谷区在住、本名・日下部護(くさかべ・まもる)=の芸名にはそんな思いが込められている。「フーテンの寅さん」の物まねで売り出し36年。「声なき」妻、幸子さん(66)に支えられての芸の道だ。
ハイトーンで若々しい声の持ち主だった幸子さん。舌の付け根にピンポン球ほどの膨らみができ、声帯だけでなく舌も切除したのは89年5月だった。いまは人工発声器を使って声を出している。
「声帯模写の仕事をしている私の身代わりになってくれたのです」と原さんは言う。
幸子さんは手術の前日、「人生80年とすれば、私の人生の半分は話すことができました。幸せでした」と最後の声で留守番電話にそう吹き込んだ。声を失ってからは、都障害者福祉会館(港区)で人工発声器で声を出す訓練の指導員をしてきた。
今春、原さんは、東京のお笑い芸人でつくる「東京演芸協会」の副会長になった。それを知った幸子さんは、「こ、れ、か、ら、は、ま、わ、り、の、ひ、と、と、け、ん、か、し、な、い、で」と人工発声器を使って注意したという。
2人は北海道出身。1967(昭和42)年、旭川で結婚した。大手楽器メーカーの営業マンだった原さんは成績を伸ばし、本社の「教育課長」に昇進。だが社員に「クビ」を言い渡す仕事がつらかった。「もうやめるよ。芸人になる」。幸子さんにそう告げたのは35歳だった。
もともと芸達者の原さん。学生時代から色々なのど自慢大会に出場しては優勝した。だが、プロの世界は厳しい。鳴かず飛ばずの日が続いた。「顔の形も声も渥美やんにそっくり」と喜劇役者の関敬六さんが親友の渥美清さんを紹介。お墨付きを得て寅さんの物まねを始めた。
苦労した夫が、演芸協会の重鎮の一人となったことを、幸子さんは我がことのように喜んだ。だが、今度はあごの辺りにしこりを感じて今月2日に検査入院。「表皮がん」と診断され、周辺組織を含めた切除が施された。手術は成功し、近く退院する。
伴侶を次々襲う病魔に打ちのめされながらも、原さんは渥美さんから生前聞いた言葉をかみしめている。「雑草のごとく、踏まれても踏まれても生き抜く芸人になろう」(小泉信一)
2009.7.20付 朝日俳壇より
金色に揺れ銀色に滴りぬ:(立川市)日置正樹
長谷川櫂 評:金色を孕んだかと思うと、次の瞬間、銀色に染まって滴り落ちている。岩から滴る水の動きを色によって描き出した。
疑問:「滴る」という言葉だけで、「岩から」ということが分かるのですか?
葉先からではだめですか?かけひ、からではだめですか?花びらからでは?
金色は色の一種ですが、いわゆる銀色は色ではなく、白や灰の「輝き」です。(白も灰も黒も、色ではありません。)
ですから、「銀色に染まる」というのは、意味の通じない表現になっています。
「銀色に輝いて滴り落ちる」というのが、より正確な表現でしょう。
2009.7.20付 朝日俳壇より
美しい蟬のごとくに赤ん坊:(松戸市)大谷昌弘
金子兜太 評:「美しい」ではっきり切る。蟬のような赤ん坊、その美しさ。
敢えて、金子先生に逆らってみたいと思います。
美しい蟬のごとくに/赤ん坊
私が何を考えているかというと、蝉の羽化をイメージしているのです。
ほとんど白、うっすらと緑がかって、息をのむほどに美しい情景なのです。
すやすやとねむる赤ちゃんをやさしくくるむ、おくるみ。
というイメージです。
どっちでもいいのですよ実は。赤ん坊が美しいのです。
2009.7.20付 朝日俳壇より
舞台裏より仰ぎ見る星涼し:(奈良市)杉田菜穂
大串章 評:演技を終えた後、舞台裏で汗を拭いながら夜空を見上げている。「星涼し」がいかにも涼やかであり、安堵感がただよう。
{稲畑汀子氏も選んでおられます。}
作者は、短歌、俳句双方で朝日歌壇・俳壇に複数回登場しています。
読みたいもの・ことがあって、形式は時に応じてふさわしいものを使う、という立場なのだと思います。
しなやかで、とても好ましいと、私は思っています。
どうも、短歌だ、俳句だ、なんだかんだと窮屈だ。
形式は後からついてくればいい。肝心なのは中身ですよね。
「芸事」になってしまうと、とかく「技」が先行し、「型」が重んじられる。
「芸術」で先行すべきは「心の熱」。その熱が噴出する時に、もっともふさわしい表現形式を探ればいい。
そんなことを(熱のない男は)思います。
2009.7.20付 朝日俳壇より
雷涼し雨は俄かに大粒に:(横浜市)橋本青草
またまた、味もそっけもないことを。
涼しくなるのは雨の最中から後にかけて。ぐんぐん気温が下がります。
雷が聞こえ始め、バシバシと大粒の雨が降り始める時、おそらく最初に感じるのは「におい」。
蒸し暑さが極限に達し、草いきれがたちこめ、生きるものたちの「におい」が籠る中に、「水のにおい」が強烈に立ち上がってくる。
「水のにおい」というものは、理科的にはないんでしょうが、雨の独特のにおいってありますね。思わず深呼吸したくなるにおい。直後には、雨よけに走らなければならない激しい雨。
そんな「におい」のことを、句を読みながら思っていました。
2009.7.20付 朝日歌壇より
叱られても弱音はかぬ児夕焼けにまだ立っている誰も呼ぶなよ:(岐阜県)棚橋久子
きっとこの子、歯を食いしばってますよ。うっすら涙がにじんでいるかもしれない。
意地を貫いている。くやしかったり、さびしかったり。
もう泣きそうなんだけれど、頑張っているんです。背中がそう言っているんです。
もし、誰かが声をかけたら、この危うい均衡が、一瞬で崩れる。
この子の意地をうまく通してあげようじゃないか、とおっしゃっている。
そのとき、この子は一段、大人になる。
かならず。
2009.7.20付 朝日歌壇より
絶壁を並んで落下する滝は雄滝と雌滝虹一つ架け:(熊谷市)内野修
雄滝と雌滝を一つの虹が架け結ぶ。ということはわかるのですが、理科おじさんはどうもいけません。虹の生成の理屈を知っているものだから。
太陽と自分の頭を結ぶ直線に対して40度~42度開いた方向に主虹ができるのです。
雄滝と雌滝がそれぞれに水しぶきをあげていたとしても、一人の人に対しては一つの虹しか生成しません。
まったく、みもふたもないなぁ。
雄滝と雌滝が結ばれる、というロマンは私にはないのですが、そのかわり、虹が生成することの不思議を深く感じます。実は、虹を深く追求すると、単なる幾何光学では済まなくなるのです。その辺も含めて、虹の不思議にロマンを感じます。
2009.7.20付 朝日歌壇より
浄智寺の山門に見るあぢさゐの近勝りとも遠勝りとも:(横浜市)田口二千陸
初めての言葉に出会いました。「近勝り」「遠勝り」。
辞書を引かなくても、意味はわかりました。近くに寄って見るもよし、遠く離れて見るもよし。
(写真的にいえば、ズームレンズを使って、ズームアップしてもいい絵になるし、広角を使って広く収めても美しい風景になる、というところでしょうか。)
辞書も引いてみました。
ちか‐まさり【近優り・近勝り】遠くで見るよりも近くで見る方がまさっていること。源氏物語明石「御志の―するなるべし」 近劣り[広辞苑第五版]
「遠勝り」はありませんでしたが、意味を置き換えればすぐわかります。
そういう言葉があったとは。奥行きが深いものですねぇ。私は浅瀬でじゃぶじゃぶしているだけなんだなぁ。
2009.7.20付 朝日歌壇より
入院の長き夫を通ひ看てときめきにも似る通ふといふは:(浜田市)隅井泰代
高野公彦 評:病院通いの看護はつらいはずだが、恋人のところへ通うような気持ちだと歌う。プラス思考の爽やかさ。
私は「プラス思考」という言葉を、あんまり好んでおりません。そういう方を見ると偉いなぁとは思うんですが、どこかに無理がきそうで、傍から見ていて、かえってつらい。
ごく自然に、事態を正面から受容することができれば、それがよい。
毎日、面会時間に合わせて通い、話をし、身の回りの世話を焼く。まるでこれは「通い婚」だわねぇ、と、自分を省察して、ふとため息とともに心の隅に微笑を灯す。
美しい。
これ、1997年3月9日の日食の写真です。
部分日食が6つ写っています。
ですから、日食がいっぱい!
これを撮ることができたおかげで、こののち、教材としてずいぶん活躍してもらったものです。
その年に持っている教科が化学だろうと物理だろうと生物だろうと、日食がどこかである、という話になると、日食の原理から、観測の仕方、日食がいっぱいの話・・・軽く1時間は費やされますね。別に試験に出るわけでもなし、ただひたすらに好奇心の発露というやつです。
生徒の中には、先生って、いっつも楽しそうに授業やってたね、とか、先生の授業は「脱線 命」とかいってくれたり。もう、にこにこ、脱線だらけの授業だったのです。
最後に、上の写真を撮るのに使った、穴のあいた紙。
これです。
こんなもので楽しい写真が撮れます。お試しあれ。
木漏れ日でもいいんですよ。葉っぱの重なりのすき間がピンホールになって地面に日食が写ります。ただ、こちらの撮影しやすい場所に写るかどうか、コントロールできにくいので、穴のあいた紙はお薦め。
また、指を曲げて、関節の間のすき間を使ってもいい。
両手の指を直角に重ねて、格子状のすき間をつくってもいいのです。
ほかにもいろいろバリエーションはあると思います。今度日食に出会うことのできる方はぜひ試してみてください。
東京都大田区の南ふち。
7月22日午後12時46分。
です。
朝から結構強い雨が降り続き、この時間やっと、この曇天。
いやあ、残念でした。部分日食は見られませんでした。
日食を見ようと準備していたんですよ。
これ、観測用眼鏡の表側。強く光っていますね、この面にコーティングが施されていて反射率を高くしてあるのだと思います。
強い太陽光のかなりの部分を反射でシャットアウトするのでしょう。
こちらが、顔の側。
光っていませんね。反射されなかった光はさらに吸収されてわずかだけが透過して目に入るのです。
普通にこの眼鏡怖を目の前にかざすと、何にも見えません。真っ暗です。相手が太陽だから透けて見えるのですね。
星の手帖社が出した、日食本「欠ける太陽を見よう! 皆既日食」に付いていました。
日本全国各地での見え方の地図とこの眼鏡で合わせて500円。かなり売れたそうです。
アサヒコムの記事によると
2009年7月22日1時57分
・・・
星の手帖社(東京都渋谷区)は5月、「欠ける太陽を見よう! 皆既日食」(税込み500円)を発行した。本の中に、目を保護するフランス製の日食メガネを挟み込む作業があり、社員3人で毎日2千部を出荷するのがやっとだったという。
ところが6月以降、人気に火がついた。3日で完売という書店も現れ、特に奄美大島などで皆既日食が見られる鹿児島県での売れ行きが突出している。1万部でヒットといわれる天文分野にあって、すでに約13万5千部を完売。紀伊國屋書店によると7月には全国販売数で、村上春樹さんの「1Q84」を超えた日もあったという。
・・・
ということです。知らなかった。2冊買いましてね、妻と二人で並んで観測する予定だったのですが・・・。ザンネン。
次は26年後とか。多分生きていませんね。わが人生最後の日食でしたが、見られませんでした。
ただの紙。折りたたんで角をハサミで切って、9つの穴をあけたものです。
名付けて「日食がいっぱい」観測装置。
立派な名前でしょ。
一つ一つの穴がピンホールカメラになって、9つの日食像を結ぶのです。
それを写真にとってお目にかけるつもりだったのですがだめでした。
つまんないから、こんな写真を撮りました。
室外からの光をカーテンで遮って室内を暗くし、天井の蛍光灯の像を白い紙に結ばせて撮影したものです。
蛍光灯は3本セット。そのセットが9つ写っています。小さな穴からの像は暗くなっています。
紙にあけた穴は四角いのですが、結ぶ像は四角くなんかありません。ピンホールカメラですからね。
このように、四角い9つの穴から、9つの部分日食像が写る予定だったのです。
はい空振りしました。
テレビの中継を見て、テレビ画面の写真を少し撮ってあります。面白いものがあったらそのうちお目にかけますが、もう、みなさんごらんになっていますよね。
2009.7.20付 朝日歌壇より
食べ終えてようやく丸い顔になり「あばよ」と野良猫伸びをして行く:(さいたま市)菱沼真紀子
丸顔の猫にも、空腹で「とがった顔」と、満腹で「丸い顔」とがあるんだなぁ、と猫の顔をしみじみ眺めてしまいました。猫の歌は無条件に好きです。
我が家の外猫ちゃこちゃんは、居着き猫。のそっとでかい雄猫が最近現れて、ジャイアンなどという名前を奉っていますが、あいつの行動がこの歌のようですね。
どこかの飼い猫なんです。人を全く警戒しない。ヒトのオス(=私)が近寄っても警戒もせず、寝そべっている。
時々やってきて「メシくれ~」と叫んでいます。
2009.7.20付 朝日歌壇より
逆上がり出来て一つの坂を越え逆さなる世を幼児は知る:(高崎市)門倉まさる
個人的なことなんですが、私、左足が不自由で、小学校に上がる1年前から左足に「補装具」を装着して行動しています。そうすると、「逆上がり」は無理なんですね。自転車も乗れなかった。
そういう経験を、高校生ころかなぁ、視界が逆さまになる経験を持たない、何かの拍子に頭が下になると、経験したことのない感覚入力になってしまって、正確に沈着に状況が把握できなくなる、と思いました。
また、生身の体が高速で運動するという感覚がない、とも思いました。そのような状況下で自分は正確な認識ができなくなる、と思いました。
上掲の歌では「逆さなる世」という言葉で、世の中の仕組みが「順」だけでできているわけではないという事実に初めて直面する、というような比喩的表現になっています。
私はもっと直接的にとらえたいと思います。
体が逆さまになる。頭に血が上る。髪が垂れ下がる。情景が反転している。それらは、初めての感覚経験であって、直立だけが体のあり方ではないことの初めての経験になる。体がどのような状況にあっても、空間的な認識が可能になる最初の一歩だ。とね。認識世界が広がったのです。
そのようにして、たくさんの感覚経験を積んで世界を深く見ることができるようになります。
その時、世界、社会を見る視点はひとつに限定されるものではなく、視点自身が多様であり得るとともに、存在のあり方も多様だ、と知ることになるのでしょう。
2009.7.20付 朝日歌壇より
火縄銃連射するよう母キジのあと間をあけてヒナ四羽飛ぶ:(山口市)平田敬子
前の記事は、平田さんのトカゲの歌。今度はキジの歌。
動物の動きをつぶさにみつめて、言葉に写し取ることに巧みでいらっしゃいます。
母とヒナが飛んだ姿が、火縄銃の連射になるとは。意表を衝かれました。
でも、なんだか、その光景が目に浮かぶようで、微笑んでしまいました。
大人のゆとり、子の必死。
2009.7.20付 朝日歌壇より
コンクリのすき間に消えていく尻尾デクレシェンドの余韻をひいて:(山口市)平田敬子
トカゲですね。
「デクレッシェンド」と、つめる音=促音が入るときついですか?なめらかに減衰していく感じにならないのかな?個人的には「デクレッシェンド」の方が好きですが。「decrescendo 」の正しい発音は知らないのですけれど。
もっと個人的には、「フェード・アウト(fade out)」の方がイメージとしては好きだなぁ。
ひょっとして、トカゲに出会ってしまって、ドキドキしていた胸が、平静に戻っていく、というデクレッシェンドが詠み込まれていますか?読み込みすぎかな?
2009.7.20付 朝日歌壇より
古本を買いてひもとく出で来る四万円の歯科領収書:(高槻市)奥本健一
図書館の本に書き込みや線引などしてはいけませんが、個人の本には構いません。
私の場合、奥付に購入年月日を書き込んであります。後で見ると、購入時の気持ちなどが蘇ってくるものです。
古本屋へ行くことはもうほとんどなくなりましたが、古本の楽しみの一つは、そういう書き込みなどでもあります。
前の所有者の気持ちがその向こうに透けて見えるような書き込みに出会う事もあります。
この歌では、書き込みではなく、領収書が出てきたようですね。どういうジャンルの本なのでしょう。興味をそそられます。
治療に通う間に読んだ小説?健康本?・・・
本に残された「跡」というものは所有者の「表現」でもありうるという事ですね。
2009.7.20付 朝日歌壇より
一瞬の涼被らんと保護帽に水を満たして置く昼休み:(東京都)津和野次郎
佐佐木幸綱 評:炎天下で仕事する作者。「一瞬の涼被らん」が切実である。
命がけです。今年もすでに炎天下での作業中の熱中症が発生しています。
服を二重にして風を強制的に流す服とか、水冷の服とか、開発されたようではありますが、コストが高いのでしょうね。行き渡るというわけにはいきません。
人の命を大切にする経済活動に向かわなければならないのに・・・。現実は・・・。
2009.7.20付 朝日歌壇より
飛び入りて四角な居間を三巡りし二羽のつばめは糞をして去る:(四万十市)島村宣暢
これ、四、三、二と、数の遊びが入っているんですね。 では、蛇足。「一件」落着。
そういうお部屋で暮らしておられますか。いいですね。あこがれます。都会の片隅では常に窓を閉め、音を遮り、悪意の入り込む隙をつくらないことが必要で、ツバメは飛び込んできてくれません。
「糞をして」というところが生々しいですね。文鳥を飼ったことがあって、楽しかったのですが、所構わず糞をするのがチトやっかいでした。鳥にはトイレのしつけはできませんので。
飛ぶために、常に体を軽く保つために、いつでも排泄できる、というのが彼らの特徴です。
余談:妻と一緒に車で細い道をとろとろ走っていたら、カラスが一羽、上・前の方から降下してきて、私の車の上をかすめて、糞をして上空へ。
「あいつさぁ、飛びながら糞をしたときに真下に落ちるとは絶対思ってないね。放物線を描いて糞が飛び、前方に落ちることを知っているね。爆撃の仕方を熟知してると思うな」
「そりゃカラスだもの、知ってるわよ」
という会話を交わしたのでした。
2009.7.20付 朝日歌壇より
子ガラスの母呼ぶ声もひとしきり夏至の曇り日しろじろ永し:(徳島市)上田由美子
巣立ちの頃でしょうか。親が雛に、思い切って飛び出してこい、と呼んだりしますね。かなり騒々しい事態がしばらく続くことがあります。そんな光景かなぁ。などとも思いました。
2009.7.20付 朝日歌壇より
初夏の光のなかに重たげに金魚も目高も腹に子を持つ:(つくば市)橋本美知子
卵に栄養を持たせるという事のすごさを感じます。いろいろ、金魚やメダカも飼いましたが、メスは産卵前と後で全然体が変わりますものね。身を削って次世代を生むのです。
[ちょっと生物]
卵を産むのがメス。精子をつくるのがオス。なのです。
ふつうはメスが卵を産む。オスが精子をつくる。と考えるでしょ。メス・オスを固定して考えがちです。
ですから、ある種の魚が性転換するというと、なんだか変な気がします。
でも、体が小さなうちは、配偶子に栄養を持たせることができませんから栄養のあまり要らない精子をつくる。だからこの時代はオスとして生きる。メスが死んで新たなメスが必要とされる時、体を先んじて大きくする事ができた個体が、今度は体が大きくなりましたから、配偶子に栄養を持たせられるようになる。だからメスになる。こういう事が起きるんですね。こう考えると、違和感も少し和らぎませんか?
2009.7.20付 朝日歌壇より
学校のふれあい祭りの廊下ゆけばカレーの匂いが曲がりつきくる:(沼津市)森田小夜子
匂いが廊下の角を曲がってついてくる、というのは可笑しい。ああいう強い匂いは、そう感じられますね、確かに。私たち程度の嗅覚の動物でも、匂いをたどって匂いの源へたどりつけそうだ。
学生・生徒が作る料理で一番ポピュラーなのがカレー。
いかにも、祭のにぎわいが「香り立って」くるようです。
2009.7.20付 朝日歌壇より
黒南風に不機嫌な海見つめおりわれに漁師の血が三分ある:(鳥取県)表いさお
いわでもがなのこと。黒南風=くろはえ です。
「季語と歳時記」というサイトによりますと
黒南風[仲夏]
暗くどんよりとした梅雨の長雨が続く時期に吹く湿った南風のこと。雨が続いて憂鬱な心持ちと、このころの空や雲の色を重ねて「黒」とされた。他に、梅雨中頃の激しい南風を「荒南風」、梅雨明けの明るい空に吹く南風を「白南風」という。
ということで、海も心も暗く、不安を秘めた海なのでしょう。海の色というものは、実は空の色の反映です。そして、心も空の色を写すのでしょう。
俳句の季語を、季節に縛られることなく、短歌の中に埋め込んだらまたひとつ、面白いことになるのかもしれませんね。
2009.7.20付 朝日歌壇より
野苺を食めば夕陽の匂いして山羊小屋の山羊えさねだり鳴く:(伊那市)小林勝幸
馬場あき子 評:野苺を口にする人間と空腹どきの山羊が季節の夕陽の中に収まって一体感がある。
猫と生活していると、彼らはヒトが何か食べ始めて口を動かしていると、ボクも、ワタシも、ってやってきますね。 なんか食べてるでしょ、ボクも。
哺乳類だからなぁ、山羊も。なんか食べてるでしょ、私にもちょうだい、と言いそうな気もするんですが、どんなものでしょうか。ご経験はありませんか?
2009.7.20付 朝日歌壇より
対局が終わり敗者の後ろには勝者をうつすカメラ居並ぶ:(横浜市)おのめぐみ
馬場あき子 評:羽生善治の逆転劇などが思われるが、そうでなくても勝者のクローズアップの背後には無念の敗者が必ずいる。この光景に対する感慨は人さまざまに深いものがある。
この場合、あんまり「勝者の背後には敗者がいる」と象徴的に考えなくていいのでは?
現実には、敗者の背後に人だかり(カメラマンの)という、皮肉の方を読み取りたいと思いました。囲碁将棋以外では、勝負の後にこういう形になることはあまりないのでは?
ですから、面白味が増すのでしょう。
具体的に読んだ方が面白い。
2009.7.20付 朝日歌壇より
「変」と「恋」下の部分が違うけどなんかやっぱり似てる気がする:(横浜市)
永田和宏 評:高校三年。
{佐佐木幸綱氏も選んでおられます}
高校三年生でいらっしゃいますので、名前は載せないでおきます。
私の年齢ですと、リアルタイムではもちろんありませんけれど、石坂洋次郎さんの「青い山脈」を思い出してしまいますね。
「ああ、変しい、変しい・・・」
旧字体だと「戀」「變」ですね。上がややこしいから、間違えそうですね。「いとし、いとし、と言う心」なんて覚え方もあったようですが。
青い山脈の歌と、ジングルベルの、前奏部だけ聞かせると、ある年齢を境にして、どちらの曲を思い浮かべるかが分かれるそうですね。
歌の部分は違うけど、前奏は同じなんだものなぁ。
2009.7.20付 朝日歌壇より
桃の実にかけられし袋の新聞の歌壇らしきが道より見ゆる:(埼玉県)吉野ミヨ子
新聞紙で袋かけなんですね。あの段組は歌壇・俳壇だなぁ、と見える。合せ鏡まではいかないにしても、入れ子になったようで面白いですね。
私の子どもの頃は、電気冷蔵庫なんてない時代でしたから、母親にくっついて毎日買い物に行くと、食品の包み紙は新聞紙が多かったですね。買い物かごというのをぶら下げて、毎日買い物に。今のようなレジ袋はないし、包装も新聞紙のリサイクル。エコでしたよ。ものすごく。それは不便と不衛生(さほどじゃないのですけれどね)と、イコールでもあるのです。現在60歳くらい以上の世代は、かなりそういう面ではタフですよ。エコはタフ。
尾籠な話で申し訳ないのですが・・・。
昔の「落とし紙」は、すごかったですよ。とけきれなかった新聞の文字が残っていたりしてね。御不浄にしゃがみながら、元の記事を推測したり。荒っぽいリサイクルでしたっけ。ふと思い出してしまった。変な話ですみません。
2009.7.20付 朝日歌壇より
照射受くる夫を待ち居て水槽のネオンテトラの漂ふを見る:(山梨県)塩島敏子
がん手術後の放射線治療ですね。
御主人の治療や検査などに奥様が付き添っていらっしゃる。待っている間、というものは不思議なもので、長いような短いような、時間の流れ方がふだんとは変わってしまいます。
その間、見るともなく病院の水槽を見ている。ふと、時間がとんでいるということも。
人生を「連れ合う」ということの不思議さにうたれます。
希硫酸が走っていました。
信号停止していたら、タンクローリーが右前に停止。時間があったのでパチリ。
10060/7800=1.29
なるほど、表示はあってますね。
kg/L=(1000×g)/(1000×mL) =g/mL となって、普通の密度表示単位と同じなんですね、
さて、元化学教師としての感覚では、比重1.29の硫酸を「希硫酸」といっていいのかなあ、という気がしました。
その場では正確な数値は分かりませんでしたので帰って調べてみました。
比重1.29の希硫酸は38.03%、5mol/Lという濃度です。
95.6%の濃硫酸が、比重1.84、18mol/L ですので、タンクローリーの「希硫酸」は、濃硫酸を約3倍強に薄めたものに相当しますね。
高校の化学室としてはこれはかなり濃いです。
生徒に使わせることを考えると、3mol/L よりは薄いものの方が安全。
濃硫酸を6倍に希釈したものを用意しておいて、用途に応じてさらに薄めて渡すことが多かったと思います。
3mol/L の希硫酸というと、比重は1.18、24.8%くらいになります。
自動車なんかの鉛蓄電池に使っている硫酸の比重が1.3くらいでしょうか。ですから、このタンクローリーの希硫酸は、バッテリー・レベルであって、高校化学のレベルの希硫酸ではないですね。
かなり濃い硫酸が走るものだなぁ、と感心しました。
◆古い人なものですから。希硫酸、希塩酸などの「希」の字が嫌いでしてね、願うわけじゃなし。
稀硫酸、稀塩酸でしょうにねぇ。薄めたのですから「稀」。
希薄じゃぁ、望み薄ですよね。やはり稀薄がいいなぁ。
時々、授業で、ボヤキを聞かせながら教えていました。
去年は8月に初めて出会って、戸惑いました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_a5db.html
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_a5db_1.html
このあたりで、書いています。↑
幼虫の腹部の先端から糸のようなものが「4本くらい出ている」と書いてありますが、今回よくみたら、「8本」も出ています。
これ、一体何だろう?
そういう役に立っているのかな?
ふしぎなやつですねぇ。
ちょっと露出に失敗していますが、正面顔。
なんだか後光がさしているみたいだ。
(仏像の光背みたいだ、なんていったら、バチがあたるかな?)
成虫にもお目にかかることになるのでしょうか。夏ですねぇ。
予行練習に、一枚普通の太陽を撮ってみました。
一眼レフを使うのはちょっと怖くて、前の機種、ディマージュZ3で撮るつもりです。ただ、絞りが8までしか絞れないので、ちょっと明るすぎますね。
16とか20くらいまで絞れるといいのですが。
でもまぁ、仕方ないか。
ピンホールカメラタイプでいっぱい撮るつもりではいます。
ただ、今日20日の予報では22日は曇り。雲を透かしてでも見えないかなぁ、と期待しています。
だめなら、NHKの中継とか、気象庁のひまわり画像とか、鹿児島大学の画像とかを見るつもりですが・・・。
皆既日食にはこだわりはないのですが、できれば、自分の手で部分日食の写真を撮りたいなぁ。
ネコハグモの巣をお目にかけます。(前にも載せましたが、今回は分かりやすく撮れたと思うので。)
「日本のクモ」という本から引用
人家、神社、寺院、倉庫、屋外トイレの周囲、壁、窓枠、塀、フェンス、門扉、鉄柵、看板、歩道橋などの隅に棚網または不規則網が壊れたようなボロ網を張る。庭木、生け垣(主に広葉樹)の葉の上に張られた網では白色の天幕状の覆いを付けたものが多く、天幕網と呼ばれる。
ボウガシの葉につくった「天幕網」です。どういう意味か、実物を見ればすぐわかります。
結構いろいろな小昆虫を捕まえているようです。
これで完全におわかりでしょう。葉を曲げてそこに生じた空間を巣にしているのです。クモ本体も見えています。
気づけばたくさんいます。人工物のくぼみにもよくいます。探してみてください。クモ自体はなかなか見づらいですが。
元気なシロテンハナムグリでしてね、ケースに入れて撮影していると、時々、翅を開いて飛ぼうとするのです。
さて、この写真、見てください。カブトムシが飛ぶところなどを見たことがありますか?前翅(鞘翅)を2枚立てて、膜状の後翅を広げて飛びますね。
ところが、上のシロテンハナムグリ、前翅を立てていませんね。ハナムグリやカナブンの仲間はこのように、前翅を開かず、浮かせて、体との隙間から膜状の後翅を展開して飛ぶのです。
うまいこと、ほぼ真後ろから撮れました。
前翅が浮いていますね。その下のすき間から、後翅が出て広がっています。
(出す方はまだいいとして、これをきちっとたたみこむというのはすごい技ですよね。折り畳み傘では無理だ。)
これが、開ききった翅です。
折りたたみの筋があるんでしょうね。
薄いけれど、丈夫。
薄いけれど、折り目がきちっとしていて、きれいにたたみこめる。すぐれものですね。
あんまり暴れさせてはかわいそうなので、外で蓋を開けたら、飛び去って行きました。
木の前でホバリング(空中停止)してからとまりましたよ。
カブトムシなんかだと、まるで体当たりのような激しさで木にぶつかってつかまりますけれどね。
シロテンハナムグリの方が飛行術は高度です。甲虫がホバリングする瞬間を見たのは初めてでした。
かじるのかなぁ、結構痛いわ、といっておりましたが、かじったのではなく、脚の棘が皮膚に引っかかるのですね。痛いといっても、程度は知れています。
子どもたちも、痛みを避けるだけでなく、どの程度いたいのか、我慢できないほど痛いのか、痛いけどこの程度、といっていられるのか、いろいろ経験したほうがよいのです。
(話が飛びますが、化学教師としては、毒ガスのにおいも適当に嗅いで知っておくのがよいのです。硫化水素、塩素、塩化水素、アンモニア、酸化硫黄、酸化窒素、などなど。知っていればそれなりに対処法もあるんです。どの程度危険かもわかるんです。あらゆる危険を避けるのではなく、危険とうまいこと付き合う方法を身につけることの方が大事だと思います。でもね、塩素なんかを使う実験やると、クレームがつく世の中だからなぁ。身を守るすべも教えられないですよ、情けない。)
顔。
このごろ、虫の写真撮る時に、どうしても顔が見たくって。
いろんな顔つきがあって、楽しいですね。
ご機嫌麗しい顔、ではないです。
腹側もとらせてもらいましたが、あまり鮮明には撮れませんでした。
腹部の下にも「しろてん」がありますね。
それから、この写真の上の方に、白濁した液体が写っています。
これは、おそらく、腹端から出した一種の「おしっこ」だと思います。口からではないはずです。これも、ちょっと興奮したしるしですね。
昔、小学生の頃(50年も昔だなぁ)、近所のお家の葡萄棚に、いっぱいカナブンがついていて、とりに行ったのです。いっぱい捕れたのですけどね、入れ物を用意して行ったわけではなかったので、ズボンのポケットに突っ込んで帰ってきたのですが、いやあ、ひどいめにあった。
カナブンたちがみんな興奮して、おしっこを放出したんですね。ポケットの中だけではなく、ズボンまで、びちょびちょ。すごかったですよぉ。以来、カナブンをポケットに入れるのはやめました。
この、みごとな「十字対生」をご覧ください。
2枚ずつ、常に直角に。
このとき、私はこれが何なのかわかっていませんでしたが、あまりにみごとな十字対生に感動して写真を撮りました。6月29日のことです。
7月12日。花が咲きました。
ナデシコですね。
そうだったのかあ。
淡い紫がきれいです。
近づいてみると、メシベの先端が2つに分かれているようです。
花弁にずいぶん毛が生えているんですね。
これは翌13日。
オシベの葯が成熟してきたようです。
中から花粉が出てきました。
ところで、カメムシも勤勉ですねぇ。きてましたよ、ちゃんと。
種類はよくわかりません。
縦縞が特徴的なのですが「幼虫図鑑」というサイトでは合致する写真がありませんでした。
7月22日(水)に日食が見られるというので、大分テレビなどでも解説が増えましたから、日食のおおよその仕組みはお分かりと思います。
ただ、なんとなく、もう一歩、という感もありますので、少しだけ補足を。
左図では、太陽や月や地球の大きさや距離関係は完全に無視しています。
影の理解のための図です。
月の影が地面に落ちています。
この時、FGの間の影を「本影」といい、EF間よびGH間の影を「半影」といいます。
あまり意識しませんが、普通に地上の物体の影でも、この本影と半影はあるのです。
窓枠の影に、頭の影を近づけていくと、頭にこぶができたようになって、影が伸びることがあります。これは窓枠の半影と頭の半影が重なって暗さを増し、こぶのように伸び出して見えるのです。
◆さて、FG間の本影の落ちている地面上で、V1という観察点を考えます。
V1と月の縁Cを結ぶ直線は太陽の縁Aより外を通過しますから、V1から太陽のA点は見えません。おなじように、V1と月のD点を結ぶ線も太陽のBより外を通りますので、V1から太陽のB点は見えません。
ということは、V1から太陽を見ることができないという事ですから、V1では「皆既日食」が見えるのです。
◆GH間の半影の中の観察点V2を考えます。(EF間でも議論は同じ)
V2とBの間を遮るものはありませんから、V2からBは見えます。
V2とDを結ぶ直線は、太陽面のA'を通ります。そこで、V2から太陽面のAA'間は見えませんが、V2から太陽面のA'B間は見えます。
ということは、太陽面の一部が見えないのですから「部分日食」ですね。
V2がGに近いほど、たくさん欠け、Hに近いほど欠ける割合が少なくなります。
◆今回、鹿児島県のトカラ列島などは、この本影の中に入り、私の住む東京は半影にはいるのですね。
これは1999年の日食のときにミールから撮影した地表の写真です。
真っ黒いところが本影、薄黒いところが半影です。
本影が落ちた所では皆既日食が見え、半影が落ちた所では部分日食が見えているはずです。
この写真には感激しました。
★さて、ちょっと、地球・月の位置関係が変わると、左のようなことが起こります。
本影が直接地面に落ちず、その延長が地面に落ちている、という図です。
本影の延長の中の観察点V1ではどのような日食が観察されるでしょうか。
本影の延長なのだから、皆既日食が見えるだろう、と考えますか?
ちょっと違うんですね。
ずがごちゃごちゃしていますが、V1から月の縁をかすめる直線を引くと、太陽面面に交わってしまうのです。
ということは、V1から太陽面のAA'とBB'が見えるんですね。A'B'間は見えません。
これは、太陽の中心部は隠されているのに、縁の部分が見えてしまうという日食=「金環食」なのです。
今回は、皆既日食であって、金環食ではありません。お間違いのないように。(観察点V2からみえる部分食は同じことなので説明しません。)
◆「ダイヤモンド・リング」というのも聞きますね。
太陽がすべて隠れた直後に、太陽の光が一か所だけ漏れて輝くことがあります。これは、月の「谷」から漏れた光です。月面の谷を観測しているとも言えるわけですね。
同じようなことなのですが、月面の谷から漏れる光が複数連なって見えることがあります。これは発見者の名前をとって「ベイリーの数珠」(Baily's beads)といいます。
太陽が隠れることの方に意識が向きがちですが、太陽を隠す月の表面に関する情報も見られるのだということを意識しながら見ると、日食観測ががより実り多いものになるでしょう。
◆実は、日本の気象衛星ひまわりも日食時の写真を撮ったことがあるようなのです。
1988年3月の撮影だそうです。この写真の存在は寡聞にして知りませんでした。もっと早く公開してほしかったなぁ。せめて教育関係者には公開してほしかったなぁ。授業で使いたかったなぁ。ミールからの写真は授業に使ったんですよ。
いいものを見た、という感覚よりも、なんでもっと早く見せてくれなかったんだ、という不満のほうが募ります。
退職して長くなる私の中に、いまだに「教師眼」が残っているのです。いい写真をみると、「あっ、これは授業に使える!」とすぐ思ってしまうのです。正直、本なんか見ていて、授業に使える写真や図が1,2枚あれば、4千円や5千円だしてももったいないと思わないのです。ほかの部分は使えなくてもね。そうやって、どれほどの「無駄遣い」を積み重ねて授業を創出してきたことでしょう。こういう感覚って、授業づくりということをご存じない方にはなかなかお分かりいただけないと思います。30年教師やって、同じ授業なんかしたことないですよ。毎年、変わるんです。全国の真剣な先生方はみんな同じ。常に新しい授業を模索していらっしゃいます。授業というのは「作品」なのです。教師と生徒が共同して作り出すものです。常に、ライブです。
このブログで掲載した写真や図や解説が授業に使えるようでしたら、存分にお使いください。
オニユリが咲いていました。
花を見ていて思い出したのですが、6月にユリのきつすぎる香りを減らす技術が開発された、という話題がニュースをにぎわせていました。
強すぎるユリの香り、酵素で8分の1 花き研が新技術(2009年6月29日 朝日新聞)
花は豪華だが香りが強すぎて敬遠されがちなユリのにおいを抑える技術を、独立行政法人・花き研究所(茨城県つくば市)のグループが開発した。切り花を少量の薬剤を入れた水に生けるだけですみ、ユリの販路拡大につながると期待している。
同研究所の大久保直美主任研究員はユリの中でも大輪の花弁で知られる「カサブランカ」のにおい成分を分析。判明した18種類の化合物のうち薬くさいパラクレゾール、薬草の香りのイソオイゲノールなど、特ににおいの強い「芳香族化合物」が合成される過程で働く酵素を特定した。
この酵素の働きを妨げる薬剤を水に溶かし、つぼみ段階のユリを生けた。開花後は、薬剤処理をしないユリに比べて、におい成分の量は8分の1に減り、人はにおいをほとんど感じなくなったという。
薬剤代は生け花1本あたり1円以下と安価。出荷量の多い高知県や埼玉県の関係者から問い合わせがあるという。
農林水産省によると、ユリはキク、バラに次ぐ年間269億円の売り上げがある。カサブランカなど、日本の野生種を掛け合わせたオリエンタル系のユリが売れ筋だが、においが強く、販路拡大の障害になっていた。
クレゾールとかオイゲノールの構造式を書いてもいいのですがそれはやめにして、ここでワンポイントだけ、化学。
「芳香族化合物」って、いかにも「芳香」を放ちそうな気がしますでしょ。でも、これは「aromatic compound」の邦訳でして、発見の初期には香りを有するものが多いということでついた名前ですが、一般的には香りとは無関係です。
高校化学で六角形の分子C6H6というベンゼンについて勉強したかもしれませんが、あの、ベンゼンを中心とした化合物群と理解してください。
私自身、高校時代に「安息香酸」という芳香族化合物がでてきて、きっと、穏やかでよい香りの物質なんだろうな、と化学の先生のところへ聞きにいったら、かがせてやるよ、と小瓶を渡されました。蓋を取ると白い粉末状の化合物。かいでも香りは全然ありませんでした。
安息香という香の成分として得られたという命名です。これ自体には香りがありません。
記事中でわざわざ「芳香族化合物」と強調して書かれると、芳香族ってみんな香りがするんだと思われてもいけませんので、蛇足を付けたしました。
コンパクトデジカメでの撮影です。
きれいですね。
ハイビスカスを間近に見るのはあまりなかったことなので
中心部を撮ってみました。「スーパーマクロ」という状態です。
こんな風になっていたのですか。
メシベの柱頭が面白い。
植物ごとにみんなすごい工夫を凝らしていますね。
もうちょっと暗く撮れた方がよかったのですが、コンパクトデジカメをうまくごまかして、暗く撮れ、という技は研究していませんもので、こんな具合の写真しかお目にかけられません。悪しからず。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/fuyou.html
ここにフヨウの花の構造が詳しく載っています。
雄しべは根元でつながり合って筒のようになって花柱を囲む
こういう状態を見ているようですね。
なるほどねぇ。
ムクゲなどとそっくりのつぼみですね。
なんだか、おいしそう。
虫や花を見て、おいしそう、なんて思うのは変かなぁ。
花が咲いています。
まん‐りょう【万両】ヤブコウジ科の常緑小低木。高さ約1メートル。葉は長楕円形で厚く、光沢がある。夏、葉腋に白い小花を下向きにつけ、果実は球形、赤熟して冬から春まで保ち、観賞用。別科のセンリョウに似るが大形。<季語:冬>[広辞苑第五版]
ヤブコウジ科というのがあったのか。実(み)はね、冬の季語でもいいですけれど、 花は今の季節なんですから、季語の使い方には注意が要りますね。束縛がきつい。
ところで、センリョウの花はすでに何度もご紹介していますが
せん‐りょう【千両】
①1両の千倍。
②金額のきわめて多いこと。価値の非常に高いこと。「えくぼ―」
③〔植〕センリョウ科の常緑小低木。関東以南の暖地の林下に生じ、高さ約50センチメートル。茎にふくれた節がある。葉は対生し卵状楕円形。夏、黄緑色の細かい花を短い穂状につける。核果は球形、冬に赤く熟す。実の黄色い品種もある。鉢植や切花とし、多く正月用。クササンゴ。仙蓼。<季語:冬>[広辞苑第五版]
これです。
赤い実がなって、似てはいますが、花はまるっきりの別ものです。
ジョロウグモの幼体だろうということでご紹介した、あのクモです。
こうやって、フラッシュで網を光らせると、すごいことになっていますね。
ジョロウグモって円網を張るんじゃなかったっけ?
これじゃあ、不規則網じゃないの、と言われそうです。
「日本のクモ」という本によりますと
樹間、草間に目の細かい円網を張る。網は主網と、その前後に糸を引きまわしたバリアーと呼ばれる網とで三重構造になっている。
とありましたので、そうなのか、と横から見てみました。
ホントだ。
3枚あります。
なるほどねぇ。
これを正面からすかして撮ると重なって見えて不規則網みたいに見えるんですね。
幼体が張った比較的小さな網でしたので横からショットが撮れました。
面白いものです。
「動物の生き残り術」という本に
コガネグモ属やジョロウグモ属のクモの網には、こしきの前後の空間に、糸が不規則かついろいろな方向に張られていることがある。これは狩りバチなどの接近を防ぐ障害物として機能すると考えられており、補助網(barrier web)ととばれる。
こういう記述を見つけました。
狩りバチが侵入しては困る、しかし餌の小昆虫はかかってくれないと困る、難しい選択があるんですね。
そうなんだぁ。
手に乗せて撮影。
あっち向いて
とかやっていたら
両前脚を広げて、おどされてしまいました
ごめんごめん
興奮させてしまったついでだから、かんべんな。と
指でつまんで腹を見せてもらいました
毛がふさふさしています。
写真右下、コフキコガネにとっては左後脚の先端の爪。
私の皮膚に引っかかっています。
慣れてますからどうということもないのですが、この「慣れて」ということが、今、子どもの経験に少ないのではないかなぁ?
初めてこの状態になると、痛いですよ。痛いからと言って、怪我するようなものじゃなし、痛さの程度さえ覚えてしまえばなんともありません。
そういう経験を虫相手に積むことって、結構大事じゃないかな。
「程度」というものがわかります。自分の痛みの程度、相手の痛みの程度、が。
いつもの写真と違いますね。
これは、ティッシュペーパーにつかまっているのです。
たくさんのチョウの羽化に立ち会っていると、いろいろなことが起こります。
朝、妻が大あわて。なんだ?とみたら、蛹から出た成虫がうまくつかまっていられなくて落ちてしまったのです。
時間が経つと、翅を展開できないまま乾燥してしまいます。そうなると、もう飛ぶことができなくなります。
私も一緒になって、救出作戦。
ボックスティッシュを一枚、半分に折ったくらいで、そっとチョウの脚先に垂らしてやります。チョウの方も何かにつかまろうと頑張っている最中ですから、さっと紙につかまって、何センチか上ったところで落ち着きました。
そこで、揺らさないようにそっとティッシュをケースの壁面につけ、上端を2か所ほど、セロテープで固定。この作業、一人では結構大変。二人で真剣になってしまいました。
室内での羽化でこういう失敗が起こったら、カーテンにつかまらせるとか、割り箸を差し出してやってつかまらせるとか、足場のしっかりしたものを差し出してやればよいでしょう。指でつまんだりはしない方がいいです。時間との勝負ですから、あわてず、大胆に、注意深く、繊細に。
幸い、その後、翅の展開も順調にいき、御覧のようにきれいな姿で体を乾かすことができました。
いやあ、ほっとしました。
夕方、ケースのふたを開けたら、早速に飛び立っていきました。
うれしかったな。
ホウセンカが咲きました。
ちょっとタイミングが変な気もしますが。
線路脇に意図して種をまいたものは、まだ背が低いし、花もまだです。
これは、勝手に出てきたやつでして、線路脇に比べると日照が少ないのですが、すくすく伸びて、花を咲かせてしまいました。何か都合があるのでしょうか。
よく見ると、結構、妙なところからつぼみが顔を出して花を咲かせるものなんですね。
花を上からつり下げたような形です。
ツリフネソウ科というのだそうです。
花の後ろに細長い管状のものがありますが、距(きょ)といって蜜がたまっているそうです。
詳しいことは下のサイトをご覧ください。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/housenka.html
花の詳しい構造の解説が載っています。
子房ですね。
やがて、あの、はじける実が熟すのでしょう。
アレ面白いですよね。
線路脇を歩いていた、と妻が大型のケースに追い込んで連れてきました。
なんだかしらないけれど、とんでもなく大型です。
体長15cmを超えてますね。
調べてみると、ウシガエル。
ウシガエルの巨大なオタマジャクシは、洗足池で見たことがあるのですが、残念なことに成体を見たことがなかったのです。
矢印の指すところ、目の後ろに円盤状の部分が見えますね。これ、耳、というか鼓膜です。当然振動を感じ取ります。音としてどのくらいのものが聞こえるのかは知りません。
ところで、このウシガエル、どこからきたんでしょうね。
六郷用水跡の水路でオタマジャクシを見たことはない。
すると、多摩川ですかね。かなり遠いんですけどね。カエルにとっては。
飼うわけにはいかないし、発見場所へ戻しておきました。
2009.7.13付 朝日俳壇より
一粒の砂の轟音蟻地獄:(調布市)中村さとる
動物の多様な生き方(2)「動物の生き残り術」から、引用。
アリジゴクはウスバカゲロウの幼虫で、砂上にすり鉢状の巣穴を作り、その底に隠れて餌を待ち伏せする。巣穴の斜面の角度は37度ぐらいで、砂が流れ落ちないでとどまるギリギリの角度になっている。もう少し詳しく説明しよう。たとえば砂を入れた瓶をゆっくり傾けていくと、始めは砂が動かないのに、ある角度で突然砂が一気に流れ出す。その時の角度を安息角(休止角)とよぶ。安息角の値は砂粒の大きさや湿度などの影響を受けて変化するものの、アリジゴクのワナはつねに安息角で保たれている。そのため、餌が一度巣穴の中にはいると、均衡が崩れて砂が崩れる。このことが餌の脱出をむずかしくし、巣穴はワナとして機能する。さらにアリジゴクは餌の方向へ砂を投げかけて脱出を阻止しようとさえする。このときアリジゴクは、ワナの中で餌がもがく振動を検出して、餌の方向を知るらしい。
ギリギリのところに、蟻が踏み込むと、落石というか土砂崩れというかが起きるんですね。アリジゴクにとっては轟音が響いているのかもしれませんね。ものすごい瞬間を切り取って拡大して見せて下さいました。みごとな俳句です。
余談:アリジゴクは幼虫時代の3年間ウンチをしないそうです。ウスバカゲロウに羽化するときにまとめて排出するのだそうです。不思議な生態ですね。
2009.7.13付 朝日俳壇より
大いなる蝶も彷徨ふ青田かな:(さいたま市)佐藤勇治郎
長谷川櫂 評:大きな蝶でさえ、さすらう。それほど、見わたすかぎりの青田。
広々と見わたすかぎりの青田。大型の蝶が方向も定めずさすらうがごとくに、ふわりふわりと、舞い、とまり、舞う。
陽ざしのまぶしさと、青い香り。蝶の花でもなかろうに。
2009.7.13付 朝日俳壇より
ちりとりや真白きままの夏椿:(京都市)川端通代
あの花、朝咲いたと思うと、昼には落ちてますね。
まったく、あっけない。はかない花です。
花弁のふちが、細かいフリルになっていたりして、細部にこだわった美しい花なんですけど、あまりにもはかなくて。
ちょっと悲しい。
2009.7.13付 朝日俳壇より
猫も蚊に喰はれて疼く古屋かな:(長岡市)内山秀隆
金子兜太 評:「疼く」に妙な肉感あり。
金子先生の評がなぁ。だんだん凄みを増してくる。
鼠など捕らざる猫は胡瓜食ふ:(今治市)藤原守幸
ほんとかぁ?猫が胡瓜を?
我が家の猫は、単子葉の細い葉っぱを食べて吐いてすっきりしてますが、キュウリはなぁ。
珍しい、と思いますが。犬はサラダなんか食ってますけどね。
猫って、このごろ、きゅうりなんか食べるようになったんですか?
しらなかったぁ。
2009.7.13付 朝日俳壇より
太陽の直下にありて七変化:(芦屋市)田中節夫
大串章 評:臆することなく(?)変化し続ける紫陽花。見事なものだ。
通常の意味でいえば、七変化は紫陽花であって、夏の季語でしょうね。
あじさい【紫陽花】アヂサイ:ユキノシタ科の観賞用落葉低木。ガクアジサイの改良種とされる。幹は叢生、高さ約1.5メートル。葉は広卵形で対生。初夏、球状の集散花序に4枚の萼片だけが発達した装飾花を多数つける。色は青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいう。花は解熱薬、葉は瘧オコリの治療薬用。広くはサワアジサイ・ガクアジサイなどの総称で、ヨーロッパでの改良品種をセイヨウアジサイ・ハイドランジアなどと呼ぶ。あずさい。四片ヨヒラ。 夏 。万葉集20「―の八重咲く如く」[広辞苑第五版]
ところがですね、広辞苑で「七変化」を引くと
しち‐へんげ【七変化】
①七曲よりなる変化物ヘンゲモノ。変化物として典型的。
②〔植〕ランタナの別称。[広辞苑第五版]
「太陽の直下」で輝く花となると、ランタナの方がふさわしいような気もするんです。
ウィキペディアから
ランタナ(Lantana、学名:Lantana camara)はクマツヅラ科の常緑小低木。中南米原産。観賞用に栽培される。和名はシチヘンゲ(七変化)。赤、橙、黄、白など鮮やかな色の花をつけ、また花の色が次第に変化することに由来する。
こういうことが起こりうるので、句としては、なんとかどちらかに限定したほうがよくないですか?
2009.7.13付 朝日俳壇より
ばら百花刺は騎士団司る:(尼崎市)橋本絹子
稲畑汀子 評:ばらの花はたとえれば女王であろうか。花を守る刺を騎士団とみた。ばらの百花を描く作者の感性。
この歌の構造が見えなくて。評のように、刺が騎士団であるとすれば、「司る」の主語は誰なんだ?と。
つかさ‐ど・る【掌る・司る】他五(官ツカサを取る意)
①官職として担当する。役目として担当する。神代紀下「汝が祭祀マツリを―・らむは」
②支配する。統率する。法華義疏長保点「正マサに三根の声聞に主ツカサドル、是れなり」。〈日葡〉。「神が人の運命を―・る」[広辞苑第五版]
②の意味しか知らなかったんですね。
①の意があるのか。そうすると
「刺は騎士団の役を担当する」となるのですか。きっとそうなんだな。
ところで「とげ」というと、「棘」のほうを強く思い浮かべるものですから、「刺」という語がしばらく読めなかったんですよ。
一応の納得に到達するのに随分時間のかかった句でした。
2009.7.13付 朝日俳壇より
かつこうが遠ざかるほど眠くなる:(川崎市)服部一彦
大串章 評:郭公が遠ざかったのではなく、本人がだんだん眠りに入っていったのだ。表現の妙。
私の入眠は、赤ん坊のごとくでありまして、あるところまではわかるけれど、ストンと眠りに落ちてしまう。「だんだん眠りに入っていって」かっこうが意識の中で遠ざかっていくという眠りにはまずなりません。
郭公を聞いていたら、遠ざかって行った、声がだんだん遠くなる、声に聞き入ろうとする意識の緊張感がほどけてしまう、という感じに、私は捉えました。
郭公や己が名前を節つけて:(西宮市)山谷陽久
絶対音感のある人が聞いたら、本当に譜面に書けると思います。
雑音でない限り、音の名前がわかってしまうということは、ひょっとすると窮屈とか、鬱陶しいことかもしれないな、とも思えるのです。
2009.7.13付 朝日歌壇より
息子のみなれども黄色赤橙Tシャツ竿に華やいで夏:(福岡市)東深雪
昔、母、私に語って曰く「男の子ばっかりって本当につまんないわねぇ。くすんだ色ばっかり、華やかさはないし。たまには甘いものでも買ってきて一緒に食べようとか、なんとか、こう。ほんとに華やかじゃないんだから」
そういう愚痴を聞く私でした。兄には言えなかったようですよ。
息子さんも明るい色のTシャツを着るのでしょうし、配偶者や孫までくれば、物干し竿は花盛り。
2009.7.13付 朝日歌壇より
アフリカのマラウイといふ国目指し協力隊の息子家出づ:(柳井市)沖原光彦
佐々木幸綱 評:マラウイ共和国は、アフリカ南東部にある北海道と九州をあわせたくらいの面積の国。
マラウイがどんな国かは調べれば分かります。評の形で説明することに強い必然性を感じません。
それよりも、遠い治安状況もわからぬ国へ、理想に燃えて協力隊の一員として向かおうとする息子に、逞しさと、まばゆさを覚えながらも、不安も消し去れない、そういうポイントを評として伺いたかった。
昔は、旅に出る、ということは命がけのことでした。ですから安全を祈って陰膳を据えたりしたのでしょう。今の日本での「旅」にそういうイメージはもうありませんが、協力隊となると、やはり送る側にも旅立つ側にも覚悟が要る。つらいものでしたでしょうね。
息子さんお父さん、ご立派です。
2009.7.13付 朝日歌壇より
さみだれて蘇えりたる蝸牛目玉も角も伸びのび出して:(一宮市)浅井武
乾燥状態に置かれたカタツムリは、乾燥に耐えるために、殻の入口のところに「膜」を張りますね。
この膜を「エピフラム」というようです。"epiphragm" だと思います。
phragm というのが膜でしょうか。diaphragm というと、スピーカーやマイクロフォンの振動膜、横隔膜のことですね。 epi というのは「外」のような意味だったと思います。
ですから、体外に膜を張る、その膜ということでしょう。
「蘇える」といっているのは、エピフラムをはって乾燥に耐えていたのが、湿り気を感じて出てきた、ということですね。
死んでいたわけではありません。
哺乳類であるヒトには想像できませんが、カタツムリの場合だと、殻を密閉し、代謝を極度に抑えてしまうので、乾燥や飢餓状態がかなり長期になっても耐えることができるのです。
すごい生き方ですね。
外界に湿りを感じると、膜が変化するのでしょう、顔を出して活動を再開します。
えさをたくさんあげてください。元気に歩き回りますよ。
雌雄同体ですから、2匹いれば繁殖が可能で、卵を生むかもしれません。生まれたてのカタツムリがまた、かわいい。お楽しみください。
2009.7.13付 朝日歌壇より
馬鈴薯の朝の畑に十三匹しばしの命天道虫だまし:(村山市)飯田正義
この歌を読んで、「天道虫だまし」って何だろう?というのが最初の印象でした。
ジャガイモにつくという食性からいったら、ニジュウヤホシテントウではないのかなぁ。
テントウダマシというテントウムシとは違う種類の虫もいますので、どっちかなぁ、と迷いました。
調べてみたら、ニジュウヤホシテントウのことをテントウムシダマシとも言うらしいですね。
確定でしょう。生物的には、ニジュウヤホシテントウ、のことです。
このブログでご紹介したことがありますから実物をご覧になりたかったらどうぞ。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-4a2b.html
下のように、ニジュウヤホシテントウはテントウムシ科です。
甲虫目>テントウムシ科>マダラテントウ亜科>ニジュウヤホシテントウ
甲虫目>テントウダマシ科>オオテントウダマシ亜科>ヨツボシテントウダマシ
テントウムシ科とは別に、テントウダマシ科という科があって、ヨツボシテントウダマシというのがポピュラーです。
紛らわしいのでご注意ください。
(ごめんなさい、虫好きなものですから、気になってしまいました。)
2009.7.13付 朝日歌壇より
燕(つばくろ)の巣に忍び寄る大蛇を打ちのめす妻は違う妻なり:(萩市)斉藤定
奥様が必死になっているんですね。
ふだん見せたことのない表情、気迫で蛇を追い払っていらっしゃる。雛をかばうことに必死。蛇は嫌いで、普通なら逃げてしまうところを、雛のために怖さを振り切って闘っている。
ひょっとして、蛇はもう死んでいるかもしれませんが、それもわからないくらいに一所懸命になって打ちのめしている。
この人、こんなことができるんだ、と奥様の内面に触れて驚きに打たれていらっしゃるのでしょう。
2009.7.13付 朝日歌壇より
日の丸と替えて食べたるウズベクの美味しき葡萄の味を忘れず:(帯広市)吉森美信
「日の丸」って何だろう?
具体的な小旗とか、日の丸がプリントされたグッズとか、何かを持っていて、それをくれ、葡萄をあげるから、と交換したのでしょうか?
多分そうなんでしょうね、そう思います。
そのあたりがストレートな表現ではなくて、もどかしい感じがしました。
2009.7.13付 朝日歌壇より
故国では「もう日本人ではない」と言われドイツでは「まだ日本人」と:(ドイツ)西田リーバウ望東子
何度も同じことを繰り返しているように思うのですが、そういう、中途半端さ、あいまいさ、というものが非常に大事なんです。
境目で生きる。境目を自在に超えて生きる。それはマイナスの価値ではなく、またとないプラスの価値なんです。
私は障害者と健常者の境目で生きていますので、いろいろなことが見えるようになったと思っています。
二つの国を、文化をまたいで自在にその境目を越えられる「からこそ」世界がクリアに見えるのではありませんか?
◆ところで、読売新聞にも載っていましたが、下は朝日新聞の小さな記事。
[あすは何の日](2009/7/13) 7月14日:わが国の呼び方はニッポンかニホンか――。1970年、この日の閣議は盛り上がった。「憲法はニッポン国憲法と呼ぶんだったかなあ」と中曽根康広防衛庁長官が言い出したところ、「いやニホン国憲法では」と反論する閣僚。賛否両論が飛び交った。幕を引いたのは佐藤栄作首相。「自分は意識的にニッポンを使っている。それが公式の定着した表現ではないか」とニッポン派に軍配を上げた。
このやりとりが「ニッポンで閣議決定」と独り歩きしたようだと内閣府。先日、呼び方はどちらでもOKと、今度こそ閣議決定した。
私の個人的な好みはニホン。やわらかくてやさしくていい感じ。ニッポンとしか読めない場合もありますけれどね。
さてでは、最初に掲げた歌に2回出てくる「日本人」はどちらでお読みになりますか?
2009.7.13付 朝日歌壇より
一粒の麦地に落ちて清志郎ロックンロールは棘ある実り:(岡山市)佐藤茂広
馬場あき子 評:忌野清志郎への挽歌。その時々の状況に対応し、時には挑発的なロックを作詞作曲してきた一粒の麦といえる人、結句の「棘ある実り」に作者の思いが籠もる。
忌野さんは「まつろわぬ人」だったと思います。それがロックというものでしょう。今の歌は妙に道徳的で、応援歌的で、励ますことに一生懸命で、優しい。トゲが無い。日本に大人のロックが成長しますように。むしろ、歌として穏やかそうな、一青窈さんの歌なんかのほうが、存在と非存在、現実と非現実の「あいま」にきびしくえぐりこんでくるように感じています。
◆ところで、この歌、当然ながら聖書の言葉
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を残すべし」
を踏んでいます。
ここで、とんでもなくお恥ずかしい打ち明け話をしなければなりません。
私は、完全に誤解していました。宗教的な回心などと縁遠いところにいます。
「一粒の麦が石の上か何かに落ちて死んでしまったら、芽も出ないし、実りはない。しかし、湿った肥沃な土に落ちて生き続けることができれば、命をつないで数多くの実りを結ぶことができる。」このように理解していました。身も蓋もない、という典型でしょうね。
生物的には正しいんですが、宗教的には、価値観の反転、といった回心を読めなかったんですね。おそらく、聖書の意味合いとしては、キリストの死と復活もこの文脈の中にあるのでしょうね。
この思い違いに気付いたのは今年の6月でした。
[私の収穫]大地に落ちる:人類学者・中沢新一(2009/6/3)
少年の頃、私がもっとも衝撃を受けたのは、つぎのようなイエスの言葉だった。「一粒の麦が大地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」・・・[私の収穫]人類学に出会う:人類学者・中沢新一(2009/6/4)
一粒の麦が豊かな実りをもたらすためには、死んで大地に落ちなければならない(イエス)。・・・
この記述を読んで、えっそうなの?ホント?とショックを受け、調べなおしたのでありました。
実がみのり、穂を離れて散布され、発芽して次代をつくる。
このことを、麦の実が死んで大地に落ちる、あるいは、大地に落ちることが一旦の死であり、発芽は復活である、と読むべきなんでしょうね。
[かーかん、はあい]という俵万智さんの連載コラムがあります。息子さんの成長と本の関わりを語る、ほほえましくも、鋭いエッセーになっています。
6月24日付けでは「心に染みる 時と命のめぐり」というタイトルで
「田んぼのいのち」(立松和平文、横松桃子絵、くもん出版)
という本と息子さんの関わりが取り上げられました。
「五十年間米をつくっている賢治さんも、五十回しかつくってなくて、いつも一年生の気分です」。
「たった一粒を土にまくと、秋にはおよそ百八十粒にもなるのです」
「米は人の命も養うし、米そのものが命なのです」
ここで息子さんが
「米そのものが命って、どういう意味?」
俵さんが答えて
「だから、お米も生きていて、一粒のお母さんから百八十粒の子どもが生まれて、命がつながっていくってことだよ」
私としては、聖書の言葉より、俵さんと息子さんの読書体験のほうが心に染みます。
心になじみます。
命はず~っとつながっているんだよ。
生命というものがこの地球に誕生してから私まで、38億年もの間、一回も途切れたことはないんだよ。途切れていたら、私は生まれてこなかったんだよ。
と、真剣に思うのです。
2009.7.13付 朝日歌壇より
花の名をひとつ覚えて人の名をひとり忘れてゆうやけの中:(東大阪市)平岡章子
ひとつ覚えて、ひとつ忘れる。
それはしあわせ、のある形。
忘れることのみ多かりき。
これは老いていく哀しみ。
人の名前って、どうしてこうも思い出せないんだろう?
2009.7.13付 朝日歌壇より
封筒は無地便箋はルーズリーフ全力で気の無いふりの手紙を:(八王子市)川嵜和香葉
う~む、そういう手がありうるのかぁ。無粋な男であった。
封筒や便箋にかわいいキャラクターとか、絵が描かれていたり、ほんのわずかの香水を漂わせたり、「あなたのことが気になる」という戦略しか知らなかった。
全力で気の無いふりの手紙を書くという、これは奥の手ですね。
成就しますように。恋も受験も。
2009.7.13付 朝日歌壇より
節電の小暗き廊下に並びたる<培養室>と<サンプル処理室>:(調布市)水上香葉
ふむ、推理小説みたい。
前回「『水上くんクロタミトンは?』と聞いてくる<ムヒ>と言わないバイオ課長は」という歌が載りました。
これと合わせると、作者は「いきもの」関連の部署におられる。
何を培養しているのでしょうね。
物語のような歌の続きが読みたい。
2009.7.13付 朝日歌壇より
そのまんまむこうを向いたままでいいその不機嫌な横顔がいい:(横浜市)井村浩司
永田和宏 評:奥さんだろうか。不機嫌を直してくれない妻をつくづくと見、そして新たな発見が。余裕か。
妻ですかぁ?わたしゃヤだよ。妻の不機嫌な横顔なんて。逃げ出したい。
大昔、石原裕次郎さんの歌に「君の横顔すてきだぜ♪」というのがありましたが、恋人くらいがいいですよ。恋の駆け引きとしての「不機嫌」ならまあいいけれど、連れ合いの不機嫌はカンベンだよなぁ。
おお、コワ。
2009.7.13付 朝日歌壇より
祝う子のいない子供の日が過ぎて祝ってくれる子のなき母の日:(佐世保市)近藤福代
永田和宏 評:子供の日、母の日、どちらの日にも子の無いことがいっそう辛く哀しく思われよう。
「子が無い」ということを反復しているのですね。初め、よくわからなかった。こどもの日には祝うべき子がいない、母の日には祝うべき母がいない、という歌だと思い込んでしまって。
しばらく、立ち止まって考えてしまいました。
人がつくった祭日・記念日などに心惑わされる必要はありません。
あるがままに「私」を生きてください。
それがすべてです。
2009.7.13付 朝日歌壇より
乳色のラッキョウ瓶に漬けゆけばキッチン故郷の土間の香となる:(広島県府中市)内海恒子
我が家では比較的最近、自家製のラッキョウ漬を作っています。故郷の土間、というのはないんですが。
梅酒をつくるのをやめてしまいました。酒は全然飲む気ないし。
で、梅酒の瓶が空いたままになりました。
なんか作ろう、とラッキョウ漬に挑戦。
酢と砂糖で漬けますが、通常のレシピより砂糖が非常に少ない。で、強烈なラッキョウ漬ができます。おいしい。これになじむと市販のラッキョウ漬なんか「ぼんやり」していて食べられません。
故郷に根っ子のないかたでも簡単に作れますので、是非挑戦してください。
健康神話が好きな方には、ラッキョウ漬を食べると風邪をひかないと、宣伝しておきましょう。(もちろんウソです。信用しないように。)
東京のスーパーでは、7月第1週まで、ラッキョウが出ていましたが、2週からは消えました。つぎのチャンスは来年になりましょう。ぜひどうぞ。
2009.7.13付 朝日歌壇より
ま昼間は小綬鶏わたる交差路に信号つきぬ人みまかりて:(ひたちなか市)篠原克彦
高野公彦 評:犠牲者が出て信号が設置される皮肉な現実。
そう、評にあるように「人の」皮肉な現実。
と同時に、基本的に昼間はだ~れも渡らないところで、ひとり昼行燈のように点滅を繰り返す「信号の皮肉」。
二重に読み込むべきでしょうね。
おそらく、誰も守らない信号機。それも皮肉なことです。
2009.7.13付 朝日歌壇より
歯科医院ピアノの曲が流れいて治療のすめば去りがたく聴く:(栃木市)飯塚哲夫
高野公彦 評:それほど静かで美しい曲だったのだろう。
歯の治療というのは緊張する患者さんが多くて、それで心安らぐ音楽を流しているのでしょう。
ただねぇ、聴き続けたいほどの音量で流されているのですか?そうだとしたらそれは少し問題だ。うっかりすると音楽が流れていることに気づかないでいられるほどに音量を絞ってほしい、難聴気味になってしまった私としてはそう思います。
普通の聴力の方は、雑音の中でも会話ができます。喫茶店でも、スーパーでも、夜のお酒を飲む店でも。かえって、雑音があったほうが会話のプライバシーが守られるほどです。
でも、ダメ。片方の耳の聴力が落ちたら、その、雑音の中から言葉を聞き取る能力がほぼ壊滅しました。
テレビ見ていても、バックグラウンドに音楽が流れていたり、みんなで騒いでいたり、もう、主たる言葉が聞き取れません。それと、母音をはっきり発音せずに、ささやきのような、子音主体の言葉は全く聞き取れません。
というわけで、歯科医院ならまあ、小音量のBGMを認めますが、ほどほどにね。
この難聴状態になった時に行った耳鼻科のお医者さん。無神経にも、かなりの音量でBGM流していて、耳がつらい人が集まっているのに、この無神経さは許せない、と二度と行っていません。
2009.7.13付 朝日歌壇より
病院食はうす味うす味ノンオイル肉と野菜は一対五なり:(神戸市)田中きくこ
高野公彦 評:病院食のつらさがよく分かる。作者は長くリハビリ生活を送っている人。
きっと、私が病院食を食べる羽目になったら、今の食事より味は濃い、脂っこい、と感じるのではないかな。
30代の終わりから40代の初め。血圧が高めだったので、減塩食にしてしまって、基本的に私の食事に「味付け」はないんです。今は正常な血圧ですけれど、めんどくさい、薄味のまま。積極的に味、噌醤油、塩などを使わないんです。素材から出る味だけ。
膵臓の炎症というのをやってしまって。豚・牛の肉はもう何年も食べてません。脂がいけないんです。魚油なら大丈夫。ですから、鳥のささみ、魚くらいしか蛋白源はなし。天ぷらフライもやめちゃった。カレーも好きだったんですが、ルーの脂がこたえるのでや~めた。
なれてくると、素材の味っていいものですよ。つらくもなんともありません。じつにうまい。
野菜と、魚のアラをただひたすら水煮して、鍋風に食べる。最高のスープが楽しめます。
おそらく、病院食より、うす味、脂なしで細々と生きております。
[恋する大人の短歌教室] (2009/07/13 付朝日新聞)
{応募作}ファッションに夫はこだわり持っていて私好みにならず手強い:埼玉 高橋純子
実に楽しそうなご夫婦ですね。物忘れを競っているとご子息にからかわれているそうですが、どうしてどうして。奥さん任せでないご主人と、ご主人をリードしたい奥さん。そのコンビネーションの妙が若さの秘訣なのでしょう。
感じたままを素直につづった歌で、どこといって直すところはありません。ただ、「夫」をどう読むかで一瞬立ち止まってしまいました。音数の関係から「つま」と読むのが短歌的な常識です。しかし一首の流れの自然さからは、字余りになっても「おっと」と読みたいところ。ルビ(ふりがな)を振ってみました。そうなると、「私」を「わたくし」と読むか「わたし」と読むかも気になりますね。やはり「わたし」でしょうか。だとしたら音数も整うので、ルビなしで。「手強(てごわ)い」にも「てづよい」という読みがありますが、ここもこのまま。歌人にも嫌う人が少なくありませんが、作者の読みをより正確に読者に伝えるためにも、ルビはもっと活用されるべきだと考えます。(石井辰彦)
{添削後}ファッションに夫(おっと)はこだわり持っていて私好みにならず手強い
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添削をしなければならない、という束縛が重かったようですね。結局、「おっと」という読みをルビとしてつけただけで、今週は終わってしまいました。
ルビというものをつけること自体に問題はないと考えています。固有名詞や普通には読めないような漢字、こう読んでくれないと意図が通らない、といった場合には存分に使ってください。ただ、作品としての歌の中に埋め込むのですから、ルビ自体も作品の一部であることが完全に意識されていてほしいと思います。
今回の、「夫」「私」「手強い」ですが、「夫」と「私」はどう読んでもよいのではないですか?
歌の内容からすると、「夫」を「つま」と読むことはほとんどないでしょう。内容がやわらかですから。
「私」はどうかな。普通には「わたし」ですが、「わたくし」と読めば、てごわいおっとと対峙するべく、背筋をすっくと伸ばした雰囲気になりますね。
これは読者に任されてよいことでしょう。お好きにお読みください。
どちらにしても、音の数はあまり気にすることはないと思います。どちらの読みを使っても、声に出して読んだときに、リズムが狂うことはありません。試してみてください。
私は、音の数よりも、リズム、調子を大事にしたい。声に出して読む歌がつっかかってはいけないでしょう。調子の上下、リズムの整い、それを大事にしたいと思います。
さて「手強い」ですが、実は恥ずかしながら「てづよい」と読めることをこの年になるまで知りませんでした。物知らずですねぇ。
て‐づよ・い【手強い】(形)てづよ・し(ク)
することが強くてしっかりしているさま。当りが強い。てごわい。天草本平家物語「三人の者どもなほ―・う戦ふを」[広辞苑第五版]て‐ごわ・い【手強い】(形)てごは・し(ク)
相手として容易には勝てそうもない。受けて処理するのにむずかしい。てづよい。「―・い相手に出会う」「―・い問題」[広辞苑第五版]
こうやって、比べてみると、やっぱり「てごわい」と読んでもらったほうがよさそうだと私は思います。ですから、「手ごわい」としたいな。
{かかしさんの提案}
ファッションに夫はこだわり持っていて私好みにならず手ごわい
この花、結構ややこしい花でして。
咲いている間に虫が訪れてくれて他家受粉できればそれが望ましいのですが、駄目だった場合、最後に自家受粉をする、という保険をかけているんです。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_2302.html
去年書いた記事です↑いろいろリンクもしていますので、ここから、飛んでみてください。
↓ここにもとてもよい記述があります。どうぞ。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/tsuyukusa.html
シンプルに花だけならどなたも見ていらっしゃると思いますが、
左の写真のような状態に、これは何だ?と疑問を持ち始めると、奥行きが深くなります。
こういう姿もよく見ますでしょ。
このあたりがやっかいなのです。
ぜひ、前に掲げた、私の去年の記事などお読みください。
へぇ、という気分になっていただけるものと思います。
模様があるはずなんですよ、本来は。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-086f.html
5月にも扱っていますが、その時の写真を見てください、ちゃんと模様があります。
今回のはまるで「泥だらけ」。
関節が面白いですね。
なんだか木の人形、ピノキオの関節、みたい。
ところで、福光村昆虫記に面白い記載がありました。
http://members.jcom.home.ne.jp/fukumitu_mura/syu_k/koucyu3_.html
・・・
成虫はフサスグリやミカンの葉を食べ、幼虫は植物全般の根を食べます。
本土のスグリゾウムシは交尾なしに、単為生殖と呼ばれる生殖方法で、♀だけで増えています。日本では男女群島に♂が生息しているそうです。(保育社原色日本甲虫図鑑Ⅳより)
■男女群島:長崎県から200Km南西にある島
・・・
そうなんですかぁ?スグリゾウムシを見かけたら、自信を持って「これはメスです」と言ってよいのですね?
しかし、それじゃあ、遺伝的な多様性、ってぇやつはどこへいっちゃったんでしょう?
困るなあ。みんなクローンなんですかぁ?
変ですね。
ガレージの扉の柱の上。
居心地がいいのか、ずっと静かにしています。
典型的な姿、というのをご覧ください。
本当にゆったりした状態だったので、最後にワンショット。
お顔拝見。
ネコハエトリのような愛嬌はないですが、それでも、(変な言い方ですが)穏やかな顔つきでしょ。
対称性の良さがなんとも言えません。
◆私個人の好みですが、人間でも、対称性の良いお顔が好きです。
保育園や幼稚園の保母さんや先生には対称性の良いお顔ばかり。
おおよそ、教員というものはやはり対称性の良い顔の人が多いですよ。生徒に接し、生徒に心を見抜かれる職業ですからね、歪んだ顔では生徒が心を許してくれません。
政治家には・・・申し訳ないが、どうもねぇ。そういう職業なんでしょうねぇ。
リュウノヒゲのつぼみをご紹介して、花が咲いたかどうか見に行くのを忘れていたことに気付きました。
さっそく言ってみましたら、ぽつぽつと、咲いていました。
とてもかがみこんで写真の撮れる位置ではないので、一輪摘んできました。
ノートの上で撮影。7mm罫のノートですので、スケールがお分かりと思います。
6弁なのか、3弁+3枚の萼なのかはわかりません。
真ん中の「塔」のようなのがメシベですね。
まわりを6本のオシベが囲んでいる。
最後に花を後ろから見ると
検索してみましたが、そのあたりのことを書いたサイトは見つけられませんでした。
小さな花ですし、葉の奥のほうで咲いていますので、なかなか見られないと思います。東京で今咲いていますので、そのあたりを勘案してお近くのリュウノヒゲを観察してみてください。
ちょっと洒落た横じま模様です。
ハエにはあまり深入りしたくないのですが、珍しかったので撮ってみました。
http://mushinavi.com/navi-insect/data-hae_kuroobihana.htm
このサイトによりますと、
幼虫も成虫も鳥獣の糞に集まるのだそうです。「ハナバエ」といっても花に来るのではなさそうです。
複眼の間隔が開いていますね。
これはメスの特徴のようです。
肉眼的には手を摺っていただけですが、こうやって写真にしてみると、口吻も伸ばしているんですね。
いろいろ掃除しているのでしょう。
ハエとしては結構じっくり被写体になってくれました。
すたすた歩くのです。接写対象に歩かれるとつらい。何かの容器に入ってもらって、行動を制限しないと撮りにくい。
でも、そこまでして撮ろうという気にもならなくて。あまりにお馴染みでもあるし。
また、地面近くにいますので、私の場合、腰をかがめるということがとても辛いので、撮りにくい。
今回、ブロック塀の上で交尾していました。
まず、動かない。高さが腰をかがめなくてもいい。
絶好の条件だったので、パチリ。
美しいものですねぇ。模様なんかに気づいておられましたか?
脚がまた面白いですね。
横からも一枚。
ダンゴムシって卵をどこかに産み付ける、というタイプではなかったと思います。脚の付け根に卵をつけて歩いて、孵化した幼虫が歩けるようになると出てくる、といった一種の「子育て」をするのだったと思います。
いい本があるのですが。ちょっと高かったよなぁ。
「ダンゴムシみつけたよ」
皆越 ようせい/文・写真
ポプラ社のよみきかせ大型絵本(12)
ミカンの枝が挿してあるドリンク剤の瓶の側面にくっついていました。
こういうことがあるので、瓶は細口がよく、しかも、枝をティッシュか何かでくるんで、瓶に開口部が残らないようにします。自由水面に達することができるようだと、たまに、幼虫が歩き回っているうちに、落っこちて溺れることがあります。それは、悲しい。そんな事故の起こらないようにしてあげましょう。
ところで、拡大してみてください。「ソックス君」という題名にしたわけがわかると思います。
クリントン大統領に時代に、ソックス君という猫がいましたが、哺乳類は脚4本。
アゲハちゃんは腹脚がいっぱいですので、ソックスもいっぱい履かなくっちゃ。
かわいいですね。
7月1日。
これ、齢のカウントがちょっと分からなくなっていますが、ある齢に脱皮したてなんです。
脱皮したての時は、なんとなく皺がよっています。
昆虫は外骨格の動物なので、私たちが皮膚のように思っている部分が、成虫とはしなやかさが違いますけれど、外骨格なのです。ですから、この皮膚は成長と共に伸びるというわけにはいきません。
ですから、脱皮するのですね。
前の皮膚がもう目いっぱいに張り切ってしまうと、脱皮します。中身の重量は変わらないまま、新たな面積の広い皮膚に着替えますから、脱皮したては皺が寄っているのです。
食べて、成長すると、皮膚が張ってきます。
7月3日。
もうぱんぱんに張り切ってしまいました。
鎌首をもたげた蛇みたいな恰好をしてじっとしています。
多分、次の脱皮の準備ですね。
幼虫の脱皮を見るのは難しいです。抜け殻も残しません。食べちゃうのかな。
こうやって、成長していきます。
風呂の残り湯を洗濯のすすぎに使ったあと、ふと見たら、イエユウレイグモが残り湯の中に落っこちてしまっていました。
急いですくい上げて、救出。
プラスチックケースに入ってもらって、記念撮影。
脚がやたらと長いですね。ところどころに水滴が付いているのは、お湯に落っこちた名残。バスタオルでふく代わりに、ティッシュペーパーでも入れてやろうかとも思いましたが、この程度なら自然乾燥でいいでしょう。
お顔拝見。
クモは、4対8個の単眼を持っているのが原則なのですが、よくわかりません、この顔には8個見えない。
何個かずつまとめてしまったのではないでしょうか。
お腹のほうも拝見
あまり、びっくりするほどの発見はないですね。
もう一回、逆さまですが、顔のアップ。
ここでは口のあたりが見えています。大きな顎です。
なんだか、擬人化したくなる顔ですね。
大きな目ですが、2個ということはないからなぁ、ほかのはどこへ行ってしまったんでしょう。
脚の先端が写った写真がありました。
昆虫の足とは少し雰囲気が違いますが、先端はやはり鉤になっていますね。
撮影後、家ユウレイグモだから家の中に放すかなとも思ったんですが、外へ。
まぁ、また入ってきても構わないんですけれどね。
・洗面台の横のすきまに、イエユウレイグモを発見しました。ひょっとすると、上の写真の個体と兄弟姉妹かもしれません。妻は気づいていないようだったので
「このへんにさぁ、イエユウレイグモちゃんが時々顔出すからさぁ、そうしたら、折角だから、きゃあ、幽霊が出たぁ、と驚いてあげて」
と頼んでおきました。笑ってました。きっと驚いてあげてくれるでしょう。
折角でてきても喜ばれては、幽霊がかわいそうかもしれないと思って。
妻がアオスジが羽化しそうよ、といいました
アオスジアゲハの蛹は緑色なのですが、羽化の前には、内部の翅の色が透けて黒くなります。
さらに、直前になると、蛹の皮膚と翅が今まで密着したいたのが離れるんでしょうね、透明感を失って、白っぽい濁りが生じます。
その状態がこの写真です。
8時過ぎ。
羽化しました。
まだ腹が太いですね。
翅も完全には展開しきっていません。
夕方、4時過ぎまで静かにしておきました。
もう完全に飛び立つ態勢です。
なんというか、姿がくっきりしてますでしょ。
飛びたいよ、といっていますので、元気でね、と大空へ。飛んで、飛んで、ぼろぼろになるまで飛んで、次の世代を残してください。
フラッシュの光がはいってしまいましたが、
水滴のようなものが点々と見えますね。
青い色の水滴です。
これがアオスジアゲハの蛹便です。
翅の展開に翅脈に送り込んで、余った分です。
空を飛ぶには体を軽くしたいですから、余分な水は捨てます。
実は蛹の殻から抜け出たときにも、かなり大量の水を蛹の殻に捨てて行っているのです。
この写真、下から3節くらい、水がたまっているんですよ。
これだけ余分な水を持っていると、環境が乾燥しても十分な余力がありますね。
6月27日。
前の記事の蛹からの羽化ではありません。
別の蛹から。
旅立つ前の記念写真です。
口のところにゼンマイ状の口吻がありますね。羽化直後は左右二本の半円筒状なのです。これを一本に合わせる作業、というのも羽化後に行います。これは見たことがあります。
ところで、今日読んでいた本(*)によりますと、
・・・
アゲハチョウの口吻を左右に分けて中をのぞいたところ、内壁のの中央に縦1列に並んだ40対ほどの感覚毛を見つけることができた。そして、味覚の電気生理と行動実験でこの感覚器が吸引行動に重要な役割を担っていることがわかった。・・・。吸引している間、すなわち花の蜜がある間は信号を中枢に送り続けていると考えられる。
・・・
この管の中に、甘い味を感じる器官があるんですね。今日初めて知りました。
*動物の多様な生き方 2 「動物の生き残り術」日本比較生理生化学会編。共立出版。