プチトマト
[恋する大人の短歌教室](2009/06/22付 朝日新聞より)
{応募作}プチトマトのヘタとヘタとを結びては君との距離を測る真夜中:千葉 広川恭子
プチトマトのへたって、たしかにやけに細長い。結んだりできそうですね。普通はなかなか気付かないことです。そういうことを詠んで読者に驚きを与える短歌を、歌人の奥村晃作さんは「気付きの歌」と呼んでいますが、掲出作では「気付き」による小さな驚きの後に、何やら恐ろしい光景を垣間見てしまった衝撃が続きます。「丑の時参り」というのがありますが、あれにつながる色濃い情念の世界と言えるかもしれません。プチトマトの爽やかさとの対比も面白く、怖いけれど捨てがたい一首です。
問題があるとすれば「ヘタ」という文字遣いでしょうか。カタカナが多過ぎて、せっかくのプチトマトの印象が薄れるような気がします。しかしひらがなにすると、助詞に埋もれて読みにくい。傍点付きのひらがなにしたり「蔕」と漢字にしたりすると、大げさですしね。難しいところですが、とりあえずここではひらがなに。「結びては」という硬い言い回しも、より自然なものにしてみました。(石井辰彦)
{添削}プチトマトのへたとへたとを結んでは君との距離を測る真夜中
◆今回、応募作から意味が汲めなくて、お手上げです。
「へた」って何だ?
へた【蔕】果実に残っている萼。なす・柿などに見られる。宿存萼。軸。[広辞苑第五版]
私の言語感覚では、「果実に残っている萼」というのが「へた」なんですが。あれ、「結べ」ます?石井氏は「たしかにやけに細長い」とおっしゃってますが・・・。結べるほどかなぁ。
「軸」というのが広辞苑にありますね。サクランボのような、花を支えていた茎が残っていることもありますが、プチトマトに。あれ、結べるんですか?
飲み物についているサクランボの軸を、口の中で舌を使って結べると、恋が・・・とかなんとか、昔、そんなことを聞いたことはありますけれど・・・。
プチトマト・・・う~む。
で、お手上げ。
◆ところで、「気付きの歌」という話が紹介されていますが、芸術ってみんな、通常じゃないものを見せてくれますよね。当たり前のものを当たり前に提出して芸術とは、なかなかに言い難い。
歌も含めて、芸術って、えっ、そうなのか、まさか、そんな、というような衝撃と発見を与えるものなんじゃないですか?
「気付き」のない芸術なんて芸術の名に値しないような気もするんですが。
奥村氏の主張を直接に読んでのクリティサイズではなく、石井氏の引用からの孫引きですから、当を得ていなかったらお詫びします。
◆さらに、ここから「丑の時参り」へ飛躍するかなぁ?
うしのとき‐まいり【丑の時参り】嫉妬深い女がねたましく思う人をのろい殺すために、丑の時(今の午前2時頃)に神社に参詣すること。頭上に五徳をのせ、蝋燭ロウソクをともして、手に釘と金鎚とを携え、胸に鏡をつるし、のろう人を模したわら人形を神木に打ち付ける。7日目の満願の日には、その人が死ぬと信ぜられた。うしのときもうで。うしのこくまいり。うしまいり。[広辞苑第五版]
プチトマトを並べて持って、恋人との距離を測る、「こっちが私」「こっちが君」「うまく結ばれますように」って。
花びらを一枚ずつ取りながら、愛してる、愛してない、・・・みたいな単純な気分だと私には思えて。
「嫉妬」のようなどろどろの情念が絡んでいるとは思えないんですが・・・。
◆「へた」より「ヘタ」のほうが、しゃきっとしていていいですよ。平仮名にすると、しなしなと柔らかくなってしまって、清潔感が失われる。
カタカナは硬い、ひらがなは柔らかい、というステレオタイプな考え方は捨てたほうがいいと思いますね。
◆と、ぐちゃぐちゃ、いったものの、出だしで、私、転んでしまいましたので、もう、お手上げ。
「かかしの評」はできません。
« コハナバチの仲間 | トップページ | ツマグロオオヨコバイの幼虫 »
「崩彦俳歌倉」カテゴリの記事
- 榠樝(2021.02.01)
- オオスカシバ(2020.10.06)
- 猫毛雨(2020.04.20)
- 諏訪兼位先生を悼む(2020.03.25)
- ルビーロウカイガラムシ(2020.01.17)
コメント