孤独死
2009.6.8付 朝日歌壇より
孤独死と言わないで下さいひっそりと逝くを望んでいる我なれば:(名古屋市)倉田しず子
これ、重たいですね。この歌に関して何かを言うことはできません。
ですから、以下は、私自身のこと、です。
以前から、「孤独死」の報道には、なにかちがうんだよなぁ、という感覚を覚えておりました。
人が死ぬとき、必ず誰かに看取られなければならないのだろうか?
他者を自分の死に巻き込むということが、なんだか、うっとうしいような、「重たい」ような感じがする私です。できることなら、誰にも知られず、誰にも看取られず、一人でひっそりと、いつの間にか消滅してしまいたい、という願望が私の中にいつも潜んでいます。
できれば、骨も残さず消え去りたい。私が生きた証のすべてを消滅させたい。
そういう願望があるんです。
その願望からすると、孤独死って、ある種「よい逝きかた」だな、と思ってしまうのです。ただ、多少、後の人に手間をかけさせてしまうのが気が引けますけれど。
何で、人は墓なんて欲しがるんですか?どうせ、墓に来るのは配偶者や子まで。ぎりぎり孫まで。それ以降は来ませんよ。墓があるからって、自分が生きた証なんですか?証を残して、それが一体何なのさ。歴史なんて、名も無く生まれて、仮の記号としての名で生きて(ヒトの場合)、名もなく死んで行く、そういう個々の命の集積の中に生まれるんでしょ。
現在、ここに、人間社会がある、ということそのものが、過去に生き死んだ人の「証」なんじゃないですか?
38億年、そうやって生命の歴史って、続いてきたんでしょ。墓なんて笑止千万。
毎日、虫や花と付き合っていますとね、長く生きるも短く生きるも、全く同じ価値なんだということが身にしみてくるんですよ。
孤独死にあこがれる自分を自覚する、わたし、です。
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