河鹿
2009.6.22付 朝日俳壇より
河鹿聞くための瀬音でありにけり:(姫路市)黒田千賀子
カジカというと思い出がありまして。東京の小河内ダムが完成する前、建築中のダムより上流側の多摩川の渓流で、カジカのオタマジャクシをとったことがあります。家へ連れ帰って飼育したのですが、みんなカエルになったのはいいとして、みんな脱走してしまいました。声が聞けなくて残念でした。
不思議なことに、音が静寂をもたらすということがあります。
渓流の瀬音が静かさを演出して河鹿の声を際だたせるのですね。
夏の夕べ、カナカナカナ・・・という声が、夕暮れの静寂を演出します。
眼を開いていると、視覚に頼ってしまいます。
折に触れて目をつむる習慣を身につけませんか。視覚を放棄して聴覚で世界を「感じとる」。
思いがけない風景が脳裏に浮かんできますよ。
◆先日、ピアニスト辻井伸行さんがバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したという話を受けて、朝日新聞の投書欄「声」に高校生の投書が載りました。その中に
「全盲でも前向きな努力で不可能を可能にした辻井さんの姿を記事で知った。」
こんな一節があったのです。
でもねぇ、人間はできることをやるだけなんですよ。不可能なことはできないんです。
目の不自由なピアニストやギタリストなどたくさんいらっしゃいます。楽譜を「目で」読めないという不便はあっても、脳裏に描いた譜面を演奏するその能力に欠けるところはないわけです。ひょっとすると、目に頼らない分だけ、人間性の奥深くを「観て」いらっしゃるかも知れませんね。
目が不自由だからこそ、豊に深い演奏ができる、ということもあると思います。
「のに」ではなく「だからこそ」なんですね。
自分に何が可能なのか、その奥行き、限界を探って、可能なことの幅を可能な限り拡げる、それがすべての人が為すべき努力です。
6月10日付の天声人語で
・・・
快挙は〈全盲の日本人が優勝〉と伝えられた。ニュース価値はそこにあっても、競演の結果に「全盲の」は要らない。それは奏者の重い個性だけれど、審査上は有利でも不利でもない。勝者が「たまたま」見えない人だったのだ。
録音を何度も聴いて曲を覚えるという。耳で吸収した音は熟成され、天から降ると称される響きで指先に躍り出る。「目が見えた場合」と比べるすべはないが、音色だけ見えているかのような集中は、不利を有利に転じる鍛錬をしのばせる。
師は「驚き以上の感動を伝えるため、彼は勉強を重ねてきた」と言う。全盲ゆえの賛辞は、実力を曇らす「二つ目のハンディ」だったかもしれない。体ではなく、音の個性が正当に評価された喜びは大きい。
・・・
こういう書き方がなされたのを読んで、日本でもマスコミでこういう文章を読めるようになったか、と感慨深い思いをしました。
「障害を超えて」に感動するのはいい加減やめましょうよ。それは、障害者は何もできないのだ、という思い込みから発する、という恥ずかしい現実認識をさらすだけです。
わたくし・かかしは「障害を超えて」ブログを書いています。
ウソ。可能なことをやっているだけ。人は自分にできることをやる、のです。
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