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料理に使った野菜の切れ端を、発泡スチロールのトレイに置いて水を少量与えるのですね。すると、芽が出る。
大抵はしばらく緑を楽しんで終わりとか、外に出してやると虫さんが食べちゃったりとか、になるのです。
これはニンジン。もしこれをちゃんと育てて外に出してやると、多分キアゲハが来ますよ。
パセリの種をプランターに蒔居て育ててもキアゲハがやってきます。本気でキアゲハを育てたかったら、十分に大量のパセリを育ててください。途中で足りなくなったからと、スーパーで売っているパセリなどを与えると、おそらく鮮度保持剤か何かがしみ込んでいるのだと思いますが、紀アゲハの幼虫が死んでしまうことがありますから。
トウキョウヒメハンミョウです。
去年もご紹介していますから差し当たってはご報告まで。
6月25日、庭に出たら、足元にわっと出ていました。ある日突然一斉に出てくるんですねぇ。前日までは気づかなかったのに。
この写真はホトトギスの葉の上です。このあたりにブンブンいます。
20年くらい前にはカラフルな「ハンミョウ」がいたのですが、今は見かけなくなりました。
代わって、このトウキョウヒメハンミョウがいっぱいいます。
ハンミョウは別名「ミチオシエ」ともいいます。
はん‐みょう【斑猫・斑 】コウチュウ目ハンミョウ科の甲虫の総称。また、その一種。体長約2センチメートルで美しい。山道に多く、近づくと、道路に沿って人の行く先へ飛ぶ。幼虫は土中に穴を掘ってすみ、成虫・幼虫とも食虫性。毒のあるマメハンミョウ・ツチハンミョウとは別科。ナミハンミョウ。ミチシルベ。ミチオシエ。<季語:夏>[広辞苑第五版]
歩くと足もとからわっと飛びあがって脚を中心にして広がって飛びます。人間は勝手に、自分の行く先に飛んでいった、と解釈して「道を教えている」と呼んだわけです。
でも、横や後にも飛んでるんですけどね。
もし、「獰猛な顔」が撮れたらまた載せたいと思います。
この痛み具合、傷、何とも言えませんね。絶対商品にはなりません。
ところがこのビワは、酸味と甘みが絶妙の配合。
要するに「濃い」味です。
小さな果物ナイフを手に、傷んだところをえぐりながらかぶりつくのですが、ジューシーで手がぐっしょりになります。
果肉も分厚く、ビワ独特の、種ばかり大きくて果肉が薄かったりする物足りなさは皆無。
実はこれ、実生のビワ。
頂きもののビワの種を蒔いたのです。
実生だと、親植物とは遺伝子構成が変わりますから、遺伝要素としての「味」も変わることが多いのです。
でも、このビワのおいしさは格別。ラッキー!ですね。
ナツミカンといい、ビワといい、野生的な濃い味の果実をつけてくれて、本当にうれしいことです。これからもよろしく!
知らない方は、この黒い模様が目だと思われるでしょう。
目玉模様は胸部の3番目の体節のところにあるんですね。
その前方に胸部体節が二つあって、その先に本当の頭部があるわけです。
頭部の側面には、側単眼という本物の目が並んでいます。
見たこともないし、これからも見ることもあり得ない「ヘビ」への擬態なのでしょう。
どうやったら、こういう風に擬態相手の姿に近づけるのか、まるっきりわかりません。
こうなることが、生き残りの率を高めた、ということなのでしょうけれど、眼のふちどりや、横線、頭の盛り上がり具合・・・こんなに見事でなくても、もう少しずぼらな擬態でも、生存率ってそんなに変らないんじゃないの?って。でも、「億」という単位の時間の中で磨き上げるとこうなるのでしょうね。ヒトの射程ではとらえきれない底深さです。
よろしければこの写真拡大してみてください。
何匹幼虫が写っているでしょう?
アゲハ、クロアゲハ合わせて
5匹写っていることは確かです。
白抜き数字を入れておきました。ご確認ください。(葉の陰にまだいそうな気もするのですが・・・。)
大にぎわいです。バリバリパリパリ、食欲旺盛です。
小さい方。
可愛いでしょ。この懸命さがたまりません。
結婚して間もなく、二人で散歩中にミカンの木にアゲハの幼虫を見つけ、これアゲハになるよ、といって家へ連れて帰り、金網の飼育ケースに入れたのです。そうしたら、この愛らしい脚で、網につかまって歩く姿、これに妻は一目ぼれ。以来、30年を超えて、アゲハと付き合っているわけです。
この脚、これなんです。
この魅力には勝てません。
わたしまけましたわ。(有名な回文です。左から読んでも右から読んでも・・・)
イチゴの可食部は「花床」であって、普通、種と呼ぶところが「痩果」という「実」なのだ、といってはみても、ピンと来ないかもしれません。
写真をご覧ください。
「イチゴの実が熟してきました。」
これは文字通りの意味です。
写真でお分かりですね。花床は白いままで、粒粒が赤くなってきました。これが「実」です。実が熟してきたのです。
やがて、花床も色づき始め
旨い具合に、プランターの四季成りイチゴにこういう状態が並列した状態になりましたので、お目にかけました。
この粒粒の「実」をとって、濡らしたガーゼにのせておくと、発芽して双葉が出ますよ。
カビないように、びちょびちょびにせずに育ててやると、やがて花が咲き実がなります。
お試しください。お楽しみください。ただし、実生のイチゴの味がどうなるかはまったく保証の限りではありませんので、アシカラズ。
池に立てた木の枝の先で羽化したようです。
池のそばで羽化したのを娘がみつけてとってきたものです。
さしあたって、抜けがらはこの3つですが、どうも感じとしてはもっと羽化したような気がします。
去年は、今の時期、ヤンマ系の大型トンボが羽化したり飛来したり、激しかったのですが、今年は、あの大型のトンボは羽化の時期ではないようです。
ここにあげた3つの抜け殻は、シオカラトンボではないかなぁ。去年からの続きだとすればオオシオカラトンボということになるのですが、確定はできません。
オタマジャクシ、ヤゴ、メダカ、ミジンコ、ケシのようなアメンボ・・・小さな池の、高密度生態系です。ただ小さな穴を掘っただけなのに、すごいことになるものですねぇ。
掘った本人も驚き呆れております。
どんな驚きがこれから起こるのか、楽しみですねぇ。
まだオタマジャクシからカエルへ、全部が変わりきっていません。
古い火鉢を水槽にしたものもあるのですが、ここにもオタマジャクシを入れたのです。
で、ここでカエルになった場合、「オーバーハング」を越えないと出て来られない。脚が張りつくから大丈夫のような気もするけれど、妻が心配して、池に移してやっています。池に最初からいた連中は出て行ってしまったようです。
上の写真は、火鉢から池へ移ったものの一匹。
ちょっと頼りないともいえますが、立派なヒキガエルになりました。
何匹生き残るんでしょうね。池のそばに、アオダイショウの子どもを見かけたと妻はいうし、トカゲは以前からいるもんなぁ。猫も歩いてるし。厳しい環境ですが、頑張ってね。
2009.6.22付 朝日俳壇より
生まれ来しいのちとくぐる茅の輪かな:(東広島市)別祖満雄
おとうさんでしょうか?おじいちゃんでしょうか?
赤ちゃんを抱いての茅の輪くぐりですね。
元気に成長なされますよう。
・私、神社さんには疎くって、茅の輪くぐりに作法があるなんて知りませんでした。
素盞鳴尊(すさのおのみこと)にまつわる故事があるなんてことも知りませんでした。
今回検索してみて初めて知ったわけであります。
・私はだいたい「またぐ」という動作が基本的に辛くって。元気だった高校生のときでも、修学旅行で寺社の門の敷居がまたげなくて、右足で上って降りるしかできませんでした。
茅の輪を踏んづけるわけにもいかないでしょう。結局無縁な私です。
2009.6.22付 朝日俳壇より
青田道淘汰と歩む夢の中:(長岡市)内山秀隆
大串章 評:金子兜太には「青鮫」の句など青の秀句が多い。この句は<よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太>を踏まえる。
評のおかげで、句のやりとりが見えました。とても助かります。
評を読む前は、夢の中でで金子氏と歩いたのかぁ、その道って、どんな道?老いの道?
などと考えたのですが。
まぁ、そんなものでもありますね。
読者が独力ではたどり着けないところへ、評が導いてくれることは、ありがたいことです。
2009.6.22付 朝日俳壇より
灯取虫もの書く人を好みけり:(京都市)飯村弘
「灯取虫」というのは夏の季語だそうです。
ひとり‐むし【火取虫】火に集まる虫。灯蛾。<季語:夏>[広辞苑第五版]
ただなぁ、6月の新聞紙上に載った句ということは、6月の初め、よりは前の句ですよね。夏でいいけれど、窓を開けて物を書いていたら虫が飛びこんで来た、というにはちょっとまだ「暑さ」が不足しているような気がして。
いや、ごめんなさい。そういうこともあったのでしょう。
季語を無視すれば「灯取虫もの読む人を好みけり」として、読書の秋に部屋へ飛び込んでくる虫でもいいと、私は反抗心を燃やしてしまうんですね。で、季語にとらわれるな、と大学の頃にも俳句ゼミの先生と論争してきたのでした。
季語は便利です。短詩にとって非常に便利な道具です。でも、道具にとらわれてはいけないのではないか、俳句の本質は声にして読むときの、このリズムにある、と思うものです。
◆「アメリカシロヒトリ」というガがいます。「アメリカ白灯取」ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AC
ウィキペディアから引用します。
ヒトリガ(火取蛾、燈取蛾、灯取蛾、火盗蛾、灯盗蛾) Arctia caja はチョウ目ヒトリガ科に属すガの一種である。
このヒトリガに限らず、昆虫は光源を見込む角度を一定にして飛ぶという習性があります。
おそらく、夜、月を見込む角度を一定に保っていれば、水平に飛べるということなのではないでしょうか。いくら飛んだって、月は天体、見込む角度は変化しませんので水平に飛べます。ところが、火を見てしまって、それを見込む角度が一定になるように飛ぶと、螺旋を描いて火に飛び込んでしまうのです。
「飛んで火に入る夏の虫」ということになってしまうわけです。
私のこのブログで、虫がたどる軌跡のシミュレーションをしたことがあります
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_9af9.html
「等角ラセン」という記事です。よろしければお読みください。
また、速水御舟の「炎舞」という、炎に舞いこむ蛾の日本画があります。山種美術館にあります。
http://www.yamatane-museum.or.jp/
ここから、「コレクション」に入り、「作品紹介」へ入ってください。
所蔵の絵が見られます。その中に「炎舞」もあります。
山種美術館は今年の秋、新しくなってオープンします。秋には展覧会もありますので、どうぞ。
2009.6.22付 朝日俳壇より
大人声残し少年植田去る:(山形県)柏倉ただを
金子兜太 評:水光る植田のひろがりを諸に。
また困惑。金子先生の評がわからない。
もろ‐に【諸に】[副]
①もろともに。一様に。平らに。和英語林集成2版「モロニアゲル」「モロニモツ」「モロニオク」
②一挙に。まともに。すっかり。「―ぶつかる」「―浴びる」
[広辞苑第五版]
「水光る植田のひろがりを」一挙につかみ取った快い句。
とこんな感じの評、なのですか?どうもしっくりこなくって。コマッタ。
私の印象は、田植えに駆り出された男の子。ぶつくさ言いながらも、パワーにまかせてどんどん田植を進めていった。植え終えて、「じいちゃん(とうちゃん)、終わったぞぉ」と吠えて上がっていった。子どもと思っていたのに、あのパワー、あの太くなった声
あいつ、もう、男なんだ
という感慨を読みとったのですが・・・
2009.6.22付 朝日俳壇より
追ひかけて我とどかざる五月の尾:(柏市)平沢治南
金子兜太 評:季節は容赦なく移ってゆく。ことに魅力的な五月は、その尾もつかめないくらいだ。
大胆にも、金子大先生の「評」を添削しちゃおう、っと。
季節は容赦なく移ってゆく。時の尾はつかめない。
いかがでしょう。五月が魅力的かどうかは人によります。
2月は「に」げる、ともいいます。
師走は猛スピードで過ぎていく。
ファウストの「時よ止まれ、汝は美しい」(記憶です、正確ではないかもしれません)という言葉は「いのち」と引き換えの重みで発されます。
五月。個人的には自分の生まれ月ですし、大好きです。
でも、人はついに時の尾はつかみえない。
そして老いるのです。
2009.6.22付 朝日俳壇より
河鹿聞くための瀬音でありにけり:(姫路市)黒田千賀子
カジカというと思い出がありまして。東京の小河内ダムが完成する前、建築中のダムより上流側の多摩川の渓流で、カジカのオタマジャクシをとったことがあります。家へ連れ帰って飼育したのですが、みんなカエルになったのはいいとして、みんな脱走してしまいました。声が聞けなくて残念でした。
不思議なことに、音が静寂をもたらすということがあります。
渓流の瀬音が静かさを演出して河鹿の声を際だたせるのですね。
夏の夕べ、カナカナカナ・・・という声が、夕暮れの静寂を演出します。
眼を開いていると、視覚に頼ってしまいます。
折に触れて目をつむる習慣を身につけませんか。視覚を放棄して聴覚で世界を「感じとる」。
思いがけない風景が脳裏に浮かんできますよ。
◆先日、ピアニスト辻井伸行さんがバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したという話を受けて、朝日新聞の投書欄「声」に高校生の投書が載りました。その中に
「全盲でも前向きな努力で不可能を可能にした辻井さんの姿を記事で知った。」
こんな一節があったのです。
でもねぇ、人間はできることをやるだけなんですよ。不可能なことはできないんです。
目の不自由なピアニストやギタリストなどたくさんいらっしゃいます。楽譜を「目で」読めないという不便はあっても、脳裏に描いた譜面を演奏するその能力に欠けるところはないわけです。ひょっとすると、目に頼らない分だけ、人間性の奥深くを「観て」いらっしゃるかも知れませんね。
目が不自由だからこそ、豊に深い演奏ができる、ということもあると思います。
「のに」ではなく「だからこそ」なんですね。
自分に何が可能なのか、その奥行き、限界を探って、可能なことの幅を可能な限り拡げる、それがすべての人が為すべき努力です。
6月10日付の天声人語で
・・・
快挙は〈全盲の日本人が優勝〉と伝えられた。ニュース価値はそこにあっても、競演の結果に「全盲の」は要らない。それは奏者の重い個性だけれど、審査上は有利でも不利でもない。勝者が「たまたま」見えない人だったのだ。
録音を何度も聴いて曲を覚えるという。耳で吸収した音は熟成され、天から降ると称される響きで指先に躍り出る。「目が見えた場合」と比べるすべはないが、音色だけ見えているかのような集中は、不利を有利に転じる鍛錬をしのばせる。
師は「驚き以上の感動を伝えるため、彼は勉強を重ねてきた」と言う。全盲ゆえの賛辞は、実力を曇らす「二つ目のハンディ」だったかもしれない。体ではなく、音の個性が正当に評価された喜びは大きい。
・・・
こういう書き方がなされたのを読んで、日本でもマスコミでこういう文章を読めるようになったか、と感慨深い思いをしました。
「障害を超えて」に感動するのはいい加減やめましょうよ。それは、障害者は何もできないのだ、という思い込みから発する、という恥ずかしい現実認識をさらすだけです。
わたくし・かかしは「障害を超えて」ブログを書いています。
ウソ。可能なことをやっているだけ。人は自分にできることをやる、のです。
2009.6.22付 朝日俳壇より
山は山草は草なり雷ひびく:(長野県)縣展子
金子兜太 評:すべてが自然(じねん)自立の生きもの。人は人、と言いかけて躊躇う気持ち。
的を射た評。
虫好き人間の多くが、厭人的になる、ニヒリスティックになる、無権力的になるのはどうしてかなぁ。
無人島を買って、昆虫たちの食草になる植物を植えて、人との交際を絶って、虫に刺されながらかゆいかゆいと余生を送りたくなります。
ふと。
クラシックの音楽を聞きながら、カラスの声が重なったりするとうるさく感じません?
尺八や琴の音、太鼓の音などに浸っているときに、カラスが鳴けば、その声は演奏の一部になり、雷が鳴れば、演奏のベースになる。
楽音だけではない、雑音を含んだ音の空間って、好きだなぁ。
2009.6.22付 朝日俳壇より
唇に残りし枇杷の甘さかな:(静岡県)松村史基
稲畑汀子 評:果物の甘さは種類によって独特なものがある。枇杷が熟れて食べ頃になると甘くて美味しい。唇に残った甘さのあと味を楽しむ作者。
私の悪い癖。選者にかみつきたくなる。
稲畑氏の「評」、これ、なにか意味のあること言っていますか?
句の内容の繰り返しでしかない。こういうのは、トートロジーではないですか?
トートロジーは意味を生まない、何も言わないことに等しい、のではないですか?
テレビのニュースなどで、「専門家」と称する人が、コメントすることがありますが、かなり多くの場合に、音としての言葉は発していても、意味の欠如した音の羅列でしかないことがあります。ん?今この人、何か言ったか? いや~何も言わなかったみたいよ。という会話が私ども夫婦の間ではよく交わされます。
句に重ね合わせることで新たな深い意味を読者に与えてくれるような評をお書き頂きますよう。
(きつい言い方でもうしわけありません。平身低頭。)
お口直しに。
我が家のビワです。
上品にはならないキズものですが、味が濃い。
商品にはない、酸味と甘みの共に濃い味がブレンドされた味です。
今年はずいぶん長く楽しめました。
2009.6.22付 朝日歌壇より
一日中家に夫の気配する時めぐりきて南天咲きぬ:(ふじみ野市)足立由子
高野公彦 評:微妙な心理が歌ににじみ出している。
御主人が定年を迎えられたのでしょうか。別に何かをしてくれという方でなくても、今まで出勤後の一人の単純な時間が、今は、存在感が漂ってくる複雑化した時空間になってしまった。
「重み」を感じていらっしゃるのですね。
私の場合、逆なんですよ。56歳で完全リタイアしました。以来、私は「家の中の人=家内」であり、「家の奥の人=奥様」であり、「深窓の麗人」になっちゃったんです。
家内とは俺のことかと退職亭主(おっと)言い:かかし
妻はフルタイムではありませんが仕事のある人ですから、上掲歌と逆の立場ですね。
「微妙な心理」がよく分かります。(ホント?かなぁ)
2009.6.22付 朝日歌壇より
雨匂ふ五十六年駆け抜けて「グイン・サーガ」は未完のままに:(ホームレス)公田耕一
佐佐木幸綱 評:栗本薫追悼の歌。「グイン・サーガ」は栗本の大長編小説。
一週に二首の投稿心懸け 雨恋うて咲くあぢさゐ三球(みたま):(ホームレス)公田耕一
高野公彦 評:上句で気持ちを述べ、下句で眼前の景に転じた。味わいのある歌(一、二、三の言葉遊び)。
どうも公田さんの歌を読んでいますと、私と年齢的に近いな、という気がします。私は典型的な理科人間で国文学などの知識がほとんどなく、公田さんは専門家といってよいほどその方面の知識が豊富でいらっしゃる。私、散文人、公田さん詩人。まるっきり違うんですけどね、何というか、時代感覚のようなものが近い感じがします。
栗本薫・中島梓さんをデビューのときから知っていて、多くの作品になじんできた。その感覚が最初の歌に表れています。
中学生の頃に「SFマガジン」を読み始めて、本屋のおばさんの「何だこのスケベ坊主」という視線に耐えながら(おばさんは「F」と「M」を取り違えていたのです)頑張って買ったんだよなぁ。で、SFに浸り込んだ、あの感覚が公田さんにもあるんじゃないかなぁ。
二首目、高野氏の評の最後のカッコ内の指摘を読むまで気付きませんでした。鈍感でした。反省。
それなら、もっと遊びましょうか。
人生「四球(フォアボール)」はあるのかな?
五時になったら帰りたい(どこへ?)
六地蔵さん、こんばんは。
「七つの子」へとカラスと一緒に帰れたらいいのに。
・・・
2009.6.22付 朝日歌壇より
雨の匂い中にひとすじ甘い甘いくちなしの匂い交じり切ない:(川崎市)川村真樹
散文の人=かかしは、この歌と全く同じ情景にあって、散文的なことを考えているのです。
この甘い匂い、オオスカシバのお母さんも嗅いでいるんだろうな。
あっ、子どもの食草がある!卵を産んでいきましょう、って思っているんだろうなぁ。
全部受け入れるわけにもいかないけれど、今年もまたオオスカシバの季節なんだなぁ。とね。
玄関のドアを開けると、今の季節、甘い香りに包まれるんですよ、我が家でも。
トイレに芳香剤を置いてはいけない、などということも花の香りを嗅ぎながら思う「散文人」です。
2009.6.22付 朝日歌壇より
モリカズの描く白猫・白仔猫・牝猫のその単純や良し:(平塚市)河野伊佐央
佐佐木幸綱 評:「モリカズ」は洋画家。熊谷守一。
絵は単純です。ですが、とんでもない強烈な観察眼・洞察眼に支えられていることをお忘れなく。
[日々の非常口]アーサー・ビナード:アリのまま (2005/6/9 朝日新聞)から引用
・・・古今東西の画家の中で、アリを描くことにおいて熊谷守一の右に出る者はいないだろう。彼いわく「地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年もみていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」。その文章を読んでから、ぼくは機会あるごとにアリの最初の一歩を確かめようと目をこらしてきた。が、確信が持てず、とうとうテキサス州立大学に問い合わせることにした。というのは、幼なじみがそこで昆虫の研究をしているからだ。
「蟻って、ひょっとしたら左の二番目の足から歩き出す?」と聞くと、「鋭い!」と返ってきた。幼なじみいわく「足の数に関係なく、いかにして安定を保ちながら移動するかが、生物の共通課題だ。昆虫の場合はその安定が、三脚の原理に基づいている。三本の足を動かし、あとの三本は止め、それを交互に繰り返して歩行する。左側の真ん中の足と、右側の前足と後ろ足で踏み出すときは、右の真ん中と左の前と後ろは、じっと三脚をなす。足の動きに関して、三本が同時だというふうに考えられているが、安定を重んじて片方の二本が、反対側の一本より微妙に遅れることもありうる。また、アリたちに利き足がないとは限らず、個体の問題なのか、種類によるのか・・・・・・」。
熊谷守一が地面に頬杖をついたとき、最初に左の肘をついたか、右の肘だったのか。
「豆に蟻」熊谷守一(2008/3/5)朝日新聞より引用
なぜアリを描くのか
なぜアリなのか。
理由の一端は明白だ。熊谷守一は96歳のとき、「(自宅の)正門から外へは、この三十年間出たことはないんです」と話している。東京都豊島区千早の自宅からほとんど外出しなかったのだから、題材が身近なものになるのも、無理はない。
では、外の世界に全く関心がなかったのだろうか。
まるで逆だろう。「石ころひとつ、紙くずひとつでも見ていると、まったくあきることがありません」と語り、アリも地面にほおづえをついて見たという。
身近な昆虫、花から軒先に見える月まで、何でもお面白いものとして見る才能を備えていた。
それは、濃淡のない単色で平板に塗り、太い輪郭線で縁どる童画のような「守一様式」とも関係しているのではないか。どんな対象も、同じタッチで陰影なく、同じ輪郭線で描く。等価な色彩に、等価な輪郭。小動物から宇宙までを、等しく面白がり、慈しんで描く。だから立ちのぼる、温かさと詩情。
熊谷はこう語っている。「絵と言うものの私の考えはものの見方です」(大西若人)①油絵の多くが4号の大きさ。熊谷の絵の具箱に入るサイズで、手に持って描きやすい面もあったようだ。
②ひっかき傷のように片仮名で記されたサイン。1950年代から本格的に使われたという。1文字ずつには意味がない仮名を選んだという見方もある。
③観察をもとに、熊谷は「蟻は左の二番目の足から歩きだすんです」と語っている。
門の外の世界に辿りつく前に、時間切れなんですね。
(最近の私の「お昼のお散歩」。妻に言わせると、熊谷さんの境地に近づいたか、と。一旦、玄関を出ると、帰って来られなくなるのではないか、と。虫や花に迎えられて、一歩踏み出すのに何分かかるか分からないのです。妻自身も、夏が怖い、帰って来られなくなるかも、といっておりますが。)
表現は単純に。内容は宇宙の深淵を覗きこみつつ。
「熊谷守一」でグーグルのイメージ検索をかけてみてください。「白猫」などヒットしますよ。
2009.6.22付 朝日歌壇より
スカートで涙をぬぐう「不採用」心と膝をぎゅっとかかえる:(名古屋市)杉野麻子
悔しいんですね。大人の既成社会の理・不尽さが。
その悔しさを、ぜひ、老いるまで保ち続けてほしいんです。
みんなが「変だ!おかしい!」というようになれば、世の中少しは変わるでしょう。
清濁併せ呑む、なんて「大きな器量」にならないでください。
角が取れるなんて、やめましょ。角ばっていましょうよ。
世の中少しはよくしたいから。
日本に大人の「ロック」ってないでしょ。忌野さんは、貴重な人でした。
ねぇ「まつろわぬもの」って、かっこよくありませんか?
権威にも権力にもまつろわぬ者でありたいと、私は生きてきたんですけれど。
上の歌を読んで、私の世代では、南沙織さんの歌が思い出されます。
「傷つく世代」でしたか
・・・
だめね だめね
私だめね かわいそうに
ひざをかかえたままで 今日も待つのよ
・・・
シンシア。満たされぬ若者の不機嫌、遠いまなざしを歌える人でした。
2009.6.22付 朝日歌壇より
睡蓮の日々咲く甕をまほろばと蛙は棲み継ぐ三十余年:(岐阜県)棚橋久子
私の語彙には、「まほろば」という「おん」はあるのですが、「いみ」が欠如しています。
調べてみると
まほろ‐ば「まほら」に同じ。古事記中「大和は国の―」
ま‐ほ‐ら(マホ(真秀)に、漠然と場所を示す意の接尾語ラの付いたもの) すぐれたよい所・国。まほらま。まほらば。まほろば。万葉集5「きこしをす国の―ぞ」
[広辞苑第五版]
「大和は国のまほろば」という言い回しは知っているのです。でも、意味は知らない。
カエルさんは、その甕を「住みやすく素晴らしい場所」と決めて、住みついたのですね。
三十年以上も、ということは、そこに産卵し、孵化してオタマジャクシ時代を過ごし、カエルになって散ってゆき、折に触れて、なんとなくその甕の周辺に現れるのですね。
安定した環境なのでしょう。急変していく環境にはカエルは住みついていられません。
できれば、これからもずっと、カエルの「まほろば」であり続けられたらいいですね。
2009.6.22付 朝日歌壇より
荒畑の草刈りおれば草なかより百舌は寄り来て虫奪い合う:(塩尻市)百瀬亨
草刈りの後には隠れていた虫が獲れるということをモズは知っているわけですね。
海の漁で、カモメが船の周りに群れるとか、も聞きますね。
一代限りの学習で身につけるのでしょうか。それとも群れとしての学習で、群が知識を持つのでしょうか。
なんにせよ、学ぶということはヒトの独占ではないわけです。生きるために、昆虫だって、ナメクジだって、学習するんですよ~。
2009.6.22付 朝日歌壇より
牛糶(せ)りの終へたる後のしづまれる暗き牛舎に山背吹きくる:(岩手県)佐藤忠
馬場あき子 評:飼育した牛が糶り落とされていなくなった牛舎に暗い山背の風が吹く。昔は凶作を予告するといわれた。暗澹とした気分が漂う。
◆「糶」という字を知りませんでした。「競り」しか知りませんでした。難しい字ですね。
◆長年していることではあっても、育てた牛を売ったあとの牛舎って、すかすかになってしまって、妙に広々してしまって、風がまともに吹き抜けて行くようになってしまった、と感じるのではないでしょうか。その空虚さを詠っていらっしゃる。
山背が吹いたから今年は凶作か、という暗い気持ち、というわけではないのではないでしょうか。
また、次の牛を育て始めれば、それはまたそれなりに楽しい仕事になるのでしょう。牛は生きて育ちます。その作業が楽しくないわけはない。でもまた、その先に、空虚がひかえている。
それを繰り返していく。
それが、生きるということである、と。
命を育て、命を売り、我が命を養う。それが生きるということである。
2009.6.22付 朝日歌壇より
桃の実に生まれてももになれない実摘果は黙々としてなされている:(福島市)美原凍子
馬場あき子 評:よい実りを期待して行われる摘果の作業をみつめつつ実れずに摘み捨てられているものの哀れさに目を留めた。
馬場氏の評では、農家の摘果作業を傍から見る「目」のような書き方になっていますが、美原さんの場合は、自分が、摘果を行っている側でしょう。商品としての桃を育てるためには摘果は欠かすことができない。でも、その陰には、大人になれなかったももの幼い実があるわけです。その判断を行い、実行する、そういう「神」のわざの如き仕事を自分がしている、命の選別をしている、ということの、とまどい、かなしみを詠われたのだと私は思います。
2009.6.22付 朝日歌壇より
悲しくて泣く訳じゃない透明なフォルテッシモが目に滲みただけ:(八王子市)川嵜和香葉
先日、テレビの音楽番組を見ていましたところ、絶対音感を持った方が、「この おと が好き」という感覚があるといっていました。
相対音感の私は、このハーモニーが好き、ということはありますが、ある一つの名前で呼ばれる「この おと」が好き、ということはありません。
そのような音感を持った方は、ある楽器のある強さで、好きな音ただ一つが送り出されただけで、胸をうたれるということもあるのでしょう。
ただ一音で空間を構築して聞く人を魅了し去る、ということは、演奏家としても、きっと、無上の喜びになるのでしょうね。
私の場合では、大学時代、ジャズを聞いていて、アルトサックスのある音が、背筋を走りあがっていって、ゾクゾクっとした経験があって、以来、ジャズ・ファンです。
小さなジャズ喫茶で時折行われる生演奏がたまりませんでした。
2009.6.22付 朝日歌壇より
隣国の核実験を報じいるテレビ画面に柳絮ふわふわ:(いわき市)清矢暁子
どのような番組の、どのような場面だったのかはよく分かりません。核実験という許されざる行為と、優しく漂う「柳絮」の対比が悲しさを強く浮き上がらせます。
つい先日、6月20日付の朝日新聞に、第五福竜丸の話が載っていました。
アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ったのが、1954(昭和29)年3月1日でした。
私は、もうすぐ6歳という頃でした。世間が騒然としていくなかで、間借りしていた家の1階の座敷で、東京の大学の先生などが来て、地域の人が包まって、短いニュース映像を見たり、放射性物質に向けられたガイガーカウンターがガーガー鳴るデモンストレーションを見聞きしました。あの、ガーガーいう音、子ども心に怖かったです。
6/20の記事で、当時、第五福竜丸でマグロの冷凍係だった乗組員 大石又七さんのお話が載っていました。
・・・
白い粉雪のようなものが雨と一緒に体に吹きつけてきたのはその2時間後。ランニング姿の僕たちの肌にチクチク刺さる感じでした。結局、それは放射能のかたまりだったんですが、なめてしまいました。においも味もなかった。
・・・
「柳絮ふわふわ」を読んで、死の灰をイメージしてしまいました。
死の灰は、水爆実験で粉々になったサンゴ礁だったのです。強い放射能を帯びた白い粉となって、広く降り注いだのです。
被爆者で、作家の林京子さんは「核と人間は共存できない。核廃絶は、人間の存在のための行動です」とおっしゃっています。(6月23日付 朝日新聞「被爆国からのメッセージ」より。)
私は、ヒトという生物種の絶滅はそう遠くない、ヒトこそが絶滅危惧種だ、と悲観するものですが、せめて、絶滅する際に、地球を放射能汚染だらけにして絶滅することだけは避けたいと願います。
そうすれば、残った生物種から、生物としての子孫たちがまた生態系を構築していくでしょう。
きれいに絶滅すること、それが地球に残る生命たちに、やさしいことだ、と思索するものです。
2009.6.22付 朝日歌壇より
ベランダの掃除をせんとつまみあぐごみではあるが守宮(やもり)の干物:(草加市)渡辺冽
よくあるんですよ、この悲しい事故。ドアの間に挟まれていたとか、雨戸に押しつぶされていたとか、ね。
我が家の家族はみんなヤモリ・ファンですから、通称「ヤモチャン」、ミイラ化した死骸を見つけると悲しい。「ごみ」ではなく、生きた証の遺体として、土に還ってもらうべく、落葉の下などに返してやります。
死んだら土に還る、これがいきものの道でしょう。「生きもの」は「死にもの」。ちゃんと死にたい、ちゃんと還りたい。
2009.6.22付 朝日歌壇より
赤白ピンク錠剤配りてチェックする看護師の飼う私は魚:(横浜市)木村久子
永田和宏 評:色とりどりの錠剤で飼われているようと、これは余裕か。
佐佐木幸綱 評:看護師の指示通りに毎日、何種類かの薬の錠剤を飲む入院患者。水槽に飼われる魚という連想がユニーク。
目高?金魚?鯉?
「口をパクパク、噛まずに飲み込んで。まったく魚だわ」でしょうか。
自嘲気味。自嘲するだけ元気がある、といえば「余裕」ですか。
「水槽に」飼われる魚、というのは、病室を水槽に見立てて、ということでしょうか。
元気になられますよう。
6月20日のこと。
電車に乗って本屋巡りでもしようと、外出して交通量の多い表通りの歩道を歩いていたら、路面に見覚えのある姿。
ビロウドハマキが死んでいました。
前の記事が6月5日。2週間以上たっています。あの時のガの寿命が尽きたと考えて、ちょうど時期的にはあうのではないでしょうか。
あの個体だと思います。たぶん、ぜったい。
放っておけば、風に飛ばされて車にひかれるか、歩行者に踏まれてしまうでしょう。それはかわいそうだ。
背中のバッグからティッシュ・ペーパーを出して、そっと包んで、また家へ戻ってしまいました。
玄関の中に置いて、再度外出。
帰宅して撮った写真がこれです。
普通私のブログでは死んだ姿は載せていません。共に生きる者たちの、生きる姿をお見せしたいからです。
でも、これは仕方ないですね。縁でしょう。死んでからもう一回出会ってしまったということの縁を大切にしたいと、この際、役に立ってもらうことにしました。
しなやかさが失われていますから、前翅の付け根のところで翅を折って、開いた形にしました。もし、翅を開いて飛ぶ姿を見ることができたら、こういう風であったはずです。
後翅の表側の模様も見てあげてください。
黄色と黒の大柄な模様です。これを羽ばたいたら派手な姿ですよ。
ここまで。
いや、深い縁を結びました。きっと、子孫に再開できるものと信じています。
もういないだろうな、と昨日ビロウドハマキを見かけたところへ行ってみたら、オスはいませんでしたが、メスはいました。
夜中に雨が降ったのですが、葉の陰で雨宿りしていたのでしょう。
見ていたら、歩きはじめて、やがて飛びました。
飛行はあまり上手ではありませんでした。体が濡れていたのか、体温が上昇しきらないまま飛んだのか、定かではありませんが、2mくらい低く飛んで道路に止まりました。
濡れた路面が光ってしまっていい写真とは言いかねます。
現場の証拠。
ここからは飛ばずに、歩いて行きました。電車の線路の柵の中へ。
草につかまってのぼっていきます。
体が重いのでしょう、細い草の茎はたわみます。
腹側から撮影させてくれました。
腹部や翅の内側はこうなっていました。
内側も派手ですね。
外敵に見せる場所でもないでしょうに、色の調子は表側と同じで、粗い模様でした。
草の茎を伝って、だんだん遠くへ行ってしまいましたので、追跡はあきらめて、サヨウナラ。
2日間にわたって観察させてくれて本当にうれしかったです。
どこに産卵するのか、よく分からないのですが、まぁ、いいでしょう。
こうやって現われてくれたということは、また、どこか近くで産卵して、子孫に会えるのではないでしょうか。楽しみです。
元気でね。
まだ交尾中。
これなら、そっとしておけば夕方まで続くかもしれない、とまた引っ込みました。
夕方5時近く。
妻が帰宅したので、待ってましたと二人で見に行きました。
これがガなの?と妻もビックリ。ドクガじゃないからダイジョウブ、と近づいて観察。
さすがにもう5時間もたっていましたから、交尾終了の時間だったのでしょう。ゆっくりと離れました。これが雌雄2匹の姿です。
この翅が重なっていたのですね。美しい。
すごいもの見ちゃったねぇ、と二人ともハイになってしまいました。
こんな華麗なガを見られて幸せ者です、まったく。
撮った写真を縮小しないで眺めていたら
遠目には赤(黄)と黒、のような色彩ですが
青く輝く鱗粉があります。
黒い色を引き立てているのですね。
感動しました。
オシロイバナの葉の上に、何やらド派手なものを見つけました。
見たところ、派手派手しい警戒色のガです。
初め、一匹だと思いました。楕円形のガかな?と思いました。
写真を撮ろうと近づいていったら、なんと、交尾中の雌雄です。
右向きの大きい方がメスでしょう。メスの翅の下に入ってしまっている小型の方がオスでしょう。
これがオスの頭部付近。
こちらがメスの頭部付近。
もう少しメスの顔が見えやすいように撮ってみました。
堂々たるものですね。
ここまでの写真は6月4日の昼過ぎに撮影。
とにかく美しい。派手。
この派手さは、「警戒色」というやつですね。
これだけ目立つということは、ひょっとしてドクガだったりしないんだろうなと、いったん家に入って検索してみましたところ
ビロウドハマキというガでドクガではありません。
一安心。私自身はまあ何とでも対処するとして、他人やまして幼児に何かあったら申し訳ない。ドクガにだけは気をつけています。
また外に出て観察継続。
それにしても、初めて見た美しいガに少々興奮気味。
交尾の邪魔にならないように、かなりの長時間眺めていました。
この時間帯はここまで。
[恋する大人の短歌教室](2009/06/22付 朝日新聞より)
{応募作}プチトマトのヘタとヘタとを結びては君との距離を測る真夜中:千葉 広川恭子
プチトマトのへたって、たしかにやけに細長い。結んだりできそうですね。普通はなかなか気付かないことです。そういうことを詠んで読者に驚きを与える短歌を、歌人の奥村晃作さんは「気付きの歌」と呼んでいますが、掲出作では「気付き」による小さな驚きの後に、何やら恐ろしい光景を垣間見てしまった衝撃が続きます。「丑の時参り」というのがありますが、あれにつながる色濃い情念の世界と言えるかもしれません。プチトマトの爽やかさとの対比も面白く、怖いけれど捨てがたい一首です。
問題があるとすれば「ヘタ」という文字遣いでしょうか。カタカナが多過ぎて、せっかくのプチトマトの印象が薄れるような気がします。しかしひらがなにすると、助詞に埋もれて読みにくい。傍点付きのひらがなにしたり「蔕」と漢字にしたりすると、大げさですしね。難しいところですが、とりあえずここではひらがなに。「結びては」という硬い言い回しも、より自然なものにしてみました。(石井辰彦)
{添削}プチトマトのへたとへたとを結んでは君との距離を測る真夜中
◆今回、応募作から意味が汲めなくて、お手上げです。
「へた」って何だ?
へた【蔕】果実に残っている萼。なす・柿などに見られる。宿存萼。軸。[広辞苑第五版]
私の言語感覚では、「果実に残っている萼」というのが「へた」なんですが。あれ、「結べ」ます?石井氏は「たしかにやけに細長い」とおっしゃってますが・・・。結べるほどかなぁ。
「軸」というのが広辞苑にありますね。サクランボのような、花を支えていた茎が残っていることもありますが、プチトマトに。あれ、結べるんですか?
飲み物についているサクランボの軸を、口の中で舌を使って結べると、恋が・・・とかなんとか、昔、そんなことを聞いたことはありますけれど・・・。
プチトマト・・・う~む。
で、お手上げ。
◆ところで、「気付きの歌」という話が紹介されていますが、芸術ってみんな、通常じゃないものを見せてくれますよね。当たり前のものを当たり前に提出して芸術とは、なかなかに言い難い。
歌も含めて、芸術って、えっ、そうなのか、まさか、そんな、というような衝撃と発見を与えるものなんじゃないですか?
「気付き」のない芸術なんて芸術の名に値しないような気もするんですが。
奥村氏の主張を直接に読んでのクリティサイズではなく、石井氏の引用からの孫引きですから、当を得ていなかったらお詫びします。
◆さらに、ここから「丑の時参り」へ飛躍するかなぁ?
うしのとき‐まいり【丑の時参り】嫉妬深い女がねたましく思う人をのろい殺すために、丑の時(今の午前2時頃)に神社に参詣すること。頭上に五徳をのせ、蝋燭ロウソクをともして、手に釘と金鎚とを携え、胸に鏡をつるし、のろう人を模したわら人形を神木に打ち付ける。7日目の満願の日には、その人が死ぬと信ぜられた。うしのときもうで。うしのこくまいり。うしまいり。[広辞苑第五版]
プチトマトを並べて持って、恋人との距離を測る、「こっちが私」「こっちが君」「うまく結ばれますように」って。
花びらを一枚ずつ取りながら、愛してる、愛してない、・・・みたいな単純な気分だと私には思えて。
「嫉妬」のようなどろどろの情念が絡んでいるとは思えないんですが・・・。
◆「へた」より「ヘタ」のほうが、しゃきっとしていていいですよ。平仮名にすると、しなしなと柔らかくなってしまって、清潔感が失われる。
カタカナは硬い、ひらがなは柔らかい、というステレオタイプな考え方は捨てたほうがいいと思いますね。
◆と、ぐちゃぐちゃ、いったものの、出だしで、私、転んでしまいましたので、もう、お手上げ。
「かかしの評」はできません。
オシベがいっぱいありますからね。オシベのジャングルに分け入ったという感じ。
花粉をあさっています。きっと受粉してくれます。
ひどく愛嬌のある姿でして。
うれしくなるほど、かわいい。
ころんとしていて、脚は花粉まみれ。ミツバチのような花粉団子は作っていませんが、毛にいっぱいついています。
このハチ、何というハチなのか。
調べてみると、コハナバチの仲間だろうという見当です。
あえて「似ている」ということでいうと、アカガネコハナバチなんですが、確信は持てません。
すごいでしょ、もう夢中です。
お腹をくるっと曲げて、両側に花粉だらけの後脚があります。
じっくり楽しませてもらいました。なんだか、にこにこしたくなるハチでした。
ビヨウヤナギにとっても受粉者として大歓迎だったことと思います。
アリグモももう何回か登場しているのですが、あまりにも素晴らしい姿を見ると、つい載せたくなってしまいます。
見てください、これ。
どう見たってアリでしょ。
3対の脚に、触覚、というように見えますよね。腹と胸のつながり部分のくびれなんかも見事にアリでしょ。
これがクモなんですから。
頭胸部をくびれさせて、胸部と頭部に見せかけていますね。
ハエトリグモの仲間独特の上向きの目が分かりますね。
4対の脚のうち、一番前の1対を触覚に見せていたのですね。
何度見ても、飽きません。
ビックリさせて、落っこちると、糸を引きます。エッ、クモだったのぉ、と思いますよゼッタイ。
アリだと思って見逃さず、ぜひ、見つけてください。
撮影日時は前後するのですが、全体像をご理解いただくため、ご容赦を。
これがアメリカフウロの花です。(これはも前に出しましたね。)
花が終わると
下の方の丸いのが実です。
立っているのは「投種装置」です。(造語です。こんな言葉が正式にあるわけではありません。)
熟してきました。
これが熟し切ると
中央上のものは、すでに種を投げてしまった後。
左のものをよく見てください。
「塔」の先端に、湾曲した腕がくっついていて、その先端は割れた実がお椀状にくっついています。
この実の中にあった種が、「投石機」のような動きで遠くへ投げられたのですね。
フウロソウというとあまりなじみがないかもしれませんが、ゲンノショウコがフウロソウ科で、花も実も、種の投げ方も同じですので、そちらでご存知の方も多いかもしれません。
密蔵院というお寺にある泰山木です。
高いところに咲く花なので、接近できないし、いいアングルがありません。この木の向いのマンションの外階段にでも登ればもう少し上からのショットが撮れるんですが、あんまり「怪しい」行動は慎まなければね。
「絵でわかる 植物の世界」という本によりますと、
タイサンボクを含むモクレン科の植物は
「化石がすでに白亜紀下部の地層から出ること、円錐形の花床に多数の雄ずい、雌ずいが離生しており、環をつくらず、らせんに配列する特徴などから、被子植物の中でも、最も祖先的な植物ではないかと注目されてきました。」
とありました。
「タイサンボクは北アメリカ原産。がく片は3枚で色や形は花弁と似ており、花弁はふつう6枚。雄ずいの花糸は短く、雌ずいの柱頭は先が巻いています。」
とありました。
そんなつもりで、もう一度ご覧ください。
これ、モッコクの「つぼみ」ですよね。
この状態でもう「花が咲いている」ということはないですよね。
ずっと、この状態が続いているので、自信がなくなってきます。
上の写真が6月2日。
下の写真は6月20日。
少しは白っぽくなってきたようですが。
のんびり屋の花ですね。
いつになったら「開く」のか。待つしかないですね。
もっ‐こく【木斛】ツバキ科の常緑高木。暖地の海岸に自生、また、庭園にも栽培。高さ約6メートル。葉は厚く、光沢がある。夏、枝上に白色5弁の小花を開き、果実は球状、熟すと紅い種子を露出。材は櫛・床柱用、樹皮は褐色染料の原料。アカミノキ。漢名、厚皮香。「木斛の花」は<季語:夏> [広辞苑第五版]。
今度はクロアゲハの終齢幼虫です。
アゲハの幼虫とよく似ていますが、微妙に違います。
光り輝いているようです。横の線もくっきり。
どうして、ここまで。というのが「擬態」のすごさ。
これが生存上有利だったのでしょうね。信じがたいけど。
齢の異なる幼虫が2匹。同じ葉の上に。
後の大きい方はこれ、「ヘビ模様」みたいでもあります。
この大きい方を横から撮るとこんな感じ。
この齢の幼虫の側単眼を撮影したのは初めてです。
相手を怖がらせたり興奮させてはいけないので、なかなかいいアングルには出会えないものです。
早い時期に飼育し始めたので、寄生バチはついていないと思いますので、これから、いっぱい羽化が見られると思います。たのしみ。
大きな黒い眼がチャーミング。 かな?
黒い眼は「模様」です。手の込んだことに、黒い眼の中に白っぽい横筋があって、まるで丸い目が光っているように見えます。
昆虫の体が頭・胸・腹からなることはご存知だと思いますが、そうすると、胸部の背面の模様ということになります。
頭部は体の先で、ぎゅっと下に曲げています。
写真の中に白い矢印で指示したのが「側単眼」。
片側に6個あるんですが、お分かりですか。
ほとんど明暗しか分からないといいます。もともと、柑橘類の葉の上で誕生し、その葉を食べて育つので、葉の縁、枝の端、そういうところが検出できれば十分であるらしいのです。枝の先端に来てしまって、頭を大きく振ることがありますが、あれは、遠くを見て葉を捜しているのではなく、直近で明暗変化を起こすような葉があるかないかを調べているのです。
葉をむしゃむしゃ、バリバリ食べているところ。
終齢幼虫の食よくはすごいです。音も大きいです。
夜なんか、バリバリ音が響きますもの。
多少、硬かったりしおれかかっていてもお構いなし。ひたすら食べます。
ところで、また、目の話ですが。
終齢幼虫が「べちょウンチ」をしたら蛹化のサインです。それまでコロンとした大きなウンチをしていたのに、ちょっと水分の多いべちょっとしたウンチをするのです。変だな、とおもっているとwanderingという時期に入り、蛹になる場所を探して歩き回り始めます。
自然では、幼虫時代を過ごした場所から離れて蛹になることが、安全率を高めるのでしょうか。
幼虫を飼育するとき、葉さえ十分に与えれば、幼虫時代にどこかへさまよいだすことはないので、オープンな飼育をしていてもいいのですが、べちょウンチをしたら、飼育ケースに閉じ込めてください。そうしないと、室内のどこかへ歩いて行ってしまって、見失ったりします。ケース内で十分な距離歩くと、ケースの中で蛹になってくれます。
大きいお姉ちゃん(orお兄ちゃん)ばかり出ましたから、幼い方も一枚。
まだ緑色になっていない幼虫。
僕は鳥のフンだぞ、と主張しているような、触るとトゲトゲ痛いぞ、と警告のような。
可愛いでしょ。実はこのトゲ、痛くありません。ご心配なく。
撮れるかどうか全く分かりませんでしたが、マクロレンズのまま、フラッシュをたいて、とにかくシャッターを押しまくりました。
結果的には、なんとも幻想的な写真が撮れました。お目にかけます。
雌雄であることは間違いない。
多分、オスが交尾を求めているのだと思うのですが・・・。
翅を激しく羽ばたいていますから、ブレてしまうのですが、顔は意外とはっきり写っています。
口吻を伸ばしているところまで写っています。
蜜を吸うようなシーンではないはずですが、どうしちゃったのかな?
小椋佳さんの「夢芝居」という歌に「対のあげはの誘い誘われ」という歌詞がありますが、ふと、あれを思い起こさせます。
ただねぇ、どうもよく分からないのですが、これ、メスが交尾拒否しているのではないでしょうか。
モンシロチョウの場合、メスの交尾拒否姿勢は、腹部を上にぎゅっと立ててしまう、という姿勢なのですが、アゲハについてはよく知りません。
アゲハのメスは交尾を1回のみ、ということはなくて、3回くらい交尾すると聞いています。
私の見ていた限りでは、交尾には至らず、1匹だけがキンカンの木の上を飛び回っているところまでを確認しました。
まぁ、幻想に浸ってください。それも悪くはない。
ユキノシタを1本、摘んできました。
下から上へ、順番に咲き上がっていった様子が分かります。
今回は、種がどんなものなのか、知りたかったのです。
花弁が取れると、花の構造がよく分かるようになりますよ。
花が終わった、捨てちゃえ、ではなく、花が終わった後こそ植物にとって大事なとき。優しく見守ってやってください。
実が熟して乾燥したら、真ん中が開きました。
中の種を出してみましょう。
細かい!
下はアルミのものさしです。線の間隔は1mmです。
小さいもののたとえに「芥子粒のような」というのがありますが、これも小さいですよ。肉眼ではこれ以上のことはないのですが・・・
思いっきり近づいてみたら
ナント、種の表面に、細かな凹凸があります。
乾燥による単なる皺でもなさそうですね。
どうも、ユキノシタというとすぐ、ランナー(走出枝)による「栄養生殖」というイメージを持ってしまいがちなんです。ハンパに生物に詳しいものですから・・・
生物の生殖>無性生殖>栄養生殖:ユキノシタ、イチゴなど
こう、ステレオタイプに思考が先走ってしまいがちなのです。(反省)
ユキノシタは「ふたば」をだす、双子葉植物ですし、バラ目なんですから、有性生殖の方が基本的な繁殖方法です。
ランナーによる無性的な栄養生殖では、子の株と親の株とは遺伝的に全く同一です(クローンです)。ですから、親株が感染するようなウイルスやカビがはやったら、子株も感染し、全滅しかねません。気候が変動しても、全滅しかねません。
有性生殖で、遺伝子をかき混ぜると、病気がはやっても、中には抵抗性の強いのがいたり、環境が変わっても、中には頑張る奴がいたり、という「多様な」個体の集団になって、全体としてタフになるんですね。
生物は、コストの高い有性生殖という方法を獲得して、多様性を増し、生物のいなかった地球上の多様な環境に適応して、地球を生物の生態系で包むところまできたわけです。
有性生殖という方法で、多様性を増していくからには、「親」の世代は消えていった方が有利になります。これが「死」というものの起源ではないか、とも言われています。(今さら、人間はクローンを作るなんて始めてみたりして、何をバカなことやってるんだかなぁ)
植物も動物も、有性生殖のための「減数分裂」というほとんど同じシステムを持っていますね。ということは、植物と動物とが進化史上で分離する前に、すでにこの減数分裂システムを獲得し、有性生殖ができるようになっていたのでしょう。その中で、光合成細菌を獲得した連中が、植物として枝分かれしていったのでしょう。
植物と動物、兄弟姉妹なんですよ。
(ミトコンドリアを持ち、酸素を使ってエネルギーを引き出す生き方も同じなんですね)。
2009.6.14付 朝日俳壇より
老人力に俳句力よ兜太の夏:(横浜市)原徹
ひょっとして、前回あたりから私が、金子氏が「とんで」しまった、と騒いでいることと同じことを、俳句に読んでいただいたのでしょうか。
なんだか、変な(失礼な)表現で申し訳ないのですが、金子氏が「人間離れ」してきたと思いませんか。老獪、というのを通り越して、ひょうひょうと仙界に遊んでませんか?仙人のお言葉を賜っても、凡俗にはなにを言われているのか、何だかよく分からなくなってしまったような。
金子氏の評に解説をつけてくださる俳人はおられませんかね。
2009.6.14付 朝日俳壇より
飛んできて仏間に這へる源五郎:(岡山市)大本武千代
まずは。
うらやましい。我が家にも飛び込んできてほしい。飼ってみたいなぁ。
つぎに。
ゲンゴロウは子どものときから知ってましたが、源五郎と書くとはうっかりもの、知りませんでした。どういう由来なんでしょうね。源五郎さんという人が虫になっちゃったとか、何か由来の昔話があるのでしょうか。
琵琶湖の源五郎鮒には、源五郎さんという漁師さんの伝説があるようですが。
2009.6.14付 朝日俳壇より
渡りきるまで子供等が守る蟇:(新座市)渡辺真智子
まさか、カエルになりたてのちびガエルが渡っているわけではないですよね。やっぱり大人のヒキガエルが、のそりのそりと歩いているんでしょうね。
興奮させなければね、手にのせて運んだって大丈夫なんですよ。乗せて、ね。掴んで、ではなく。
そのあたりの扱い方がうまくなると、生き物との付き合いがすっごく楽しくなるんですがね。
言葉は通じませんが、相手に警戒心や闘争心を起こさせない「ふんいき」「ふるまい」というものはあるんです。虫にだってそうです。ということは、やっぱり、ヒキやムシにも心があるんですよね。
よかったね、優しい子等に見守られて。
2009.6.14付 朝日俳壇より
背負ふものもとよりあらず更衣:(神奈川県)中島やさか
長谷川櫂 評:芭蕉は<ひとつ脱いで後におひぬ衣がへ>と詠んだ。それに対する三百年後の答え。私には背負うものさえないと。
そうなのか。背負うものさえない、とは、おみごとです。
私はまだ、背負ったものだらけで、何をおろすのか、ひとつやふたつ脱いだところでなんともなりそうにない大量の「人生の衣」「人生の襤褸」。
背負ったものの重さに耐えかねるほどに背負ったまま、老いの坂道を下りゆくしかありません。
どうせ、あの世まで背負っては行けないんですけどねぇ。
えい、すてちまえ、ができないところが凡人だ。
2009.6.14付 朝日俳壇より
半世紀飽かぬ夫と螢狩:(群馬県)酒井せつ子
金子兜太 評:金婚。蛍火のとぶことよ。
金婚の御夫婦の螢狩り。それは、今眼前を飛ぶホタルを見ているだけではないのでしょう。
共にしてきた50年という時間を背負ったホタルが飛ぶのです。若い頃に二人寄り添って見たホタル。ひょっとして子育て中に、子連れで見たホタルの思い出。今また、二人でホタルを見る感慨。
時間の重さと、時間の中の景色の分厚さを、重ね合わせた「ホタルが飛ぶ」のです。
ところで、「野生のホタル」見た事ありますか?
管理されていないホタル。
掌にとって眺めると、明滅し、息づく光。
蚊帳に放って、ひっくり返りながら見るホタル。
子育ての頃に子らと一緒に田んぼで見たホタルが思い出されます。
2009.6.14付 朝日俳壇より
旅妻の海市に燥(さわ)ぐ電話かな:(岐阜県)加川喜泉
朝っぱらから、電話ではしゃぎ声。海の朝市のにぎわい、安さ、おいしさなどをしゃべりまくる奥様。話す本人は楽しいのですがね、聞かされるほうとしては結構辛いものがある。でも、元気で、楽しそうで、それはそれで、よかったなぁ、との思いも。
妻が上機嫌で元気なのはよいことですって。うん、ゼッタイ。
2009.6.14付 朝日俳壇より
あじさいや我に乾燥注意報:(東京都)矢野美与子
しっとりした季節のしっとりした花。振り返って、わが心の「カサカサ」、わが肌の「カサカサ」。
乾燥注意報だわ。
と。
でもねぇ、日本の風土の湿っぽさにはいい加減嫌気がさしていますよ、わたし。
心にカビが生えそう。
日本の「ロック」なるものの、道徳的な説教臭さ。カビ臭いですよね。腐臭といってもいいほどだ。
歌も乾燥したのがいい。(高橋真梨子さんの「乾燥した声」好きです。)
人間関係も乾燥したのがいい。
人の生き死にも、乾燥したのがいい。
過湿注意報の方が必要な社会だと思いませんか?
社会に結露しますよ。「お涙」という露が結ぶなんてまっぴらごめんだ。
びちょびちょ、よりは、ぱりぱり、を!
2009.6.14付 朝日俳壇より
我が命百足殺して見てをりぬ:(いわき市)馬目空
金子兜太 評:「我が命」の言い切りの内実濃し。
このごろ、金子氏の評の書き方が以前と違ってきたという気がします。評を解釈するのがややこしくなってきましたよ、むずかしい。
私が昆虫好きだ、ということは公然の事実ですが、だからといって、虫も殺さぬ男ではないのです。ただ、好きですから、殺さなければならないときには、それがアリのようなものであっても、ある種「ごめんね」を感じてしまうということなのです。
おそらく、ムカデが出てきて、対処法もなく、踏み殺すか何かしたのでしょう。そのことに痛みを覚えておられる。心にざらつきを覚えておられる。その行為を自分に向けて反射させて、自分の命を見ておられる。
できることなら、肉を食うときも、サラダを食うときも、蚊を叩くときも、「我が命を見て」頂けると、とてもありがたいことだと、無遠慮・無作法にも、思うわけです。
2009.6.14付 朝日俳壇より
白といふ基本に戻り更衣:(川西市)上村敏夫
どうも無粋で申し訳ない。
ころもがえ。白い服。心も引き締まって、新しい気分で。
というのがダメなんだなぁ。それ、一種の「ハレ」でしょ。
「ハレ」でハイになるのは嫌いなんですってば。
年がら年中、代わり映えのしない、くすんだ男です。
鬱っぽくこけてるときはあるけれど、ハイにはならないのです。
さあ、ころもがえだ、白で決めてバシッと行こう、という気になれる方を、ある意味でまぶしく、うらやましく見てもいるのですけれどね。
2009.6.14付 朝日俳壇より
無防備に歩きあざみに刺されけり:(熊本市)永野由美子
私の世代だと「あざみの歌」という歌はポピュラーでしょう。「抒情歌」です。ラジオ歌謡だったのかな?
で、実際のアザミを知ったのは高校生のころ。花はイメージを裏切らなかったのですが、痛かったなぁ。
田圃の畔で咲いているのを見つけて、これなのかぁ、と感慨にふけったものでした。「恋に恋する」といった、今ではもう、気恥しい年齢でした。
しかしまぁ、あれ、摘もうとすると痛いですね。畦でしたし、男なのでジーパンでしたから足を傷つけることはなかったですが、野原をスカートで脚をむき出しにして歩いたら擦り傷だらけになりますね。
懐かしい思い出です。
「こころの花ぞのに 咲きしあざみの花」が美しくていいですね。
2009.6.14付 朝日俳壇より
祭髪をとこ言葉を飛ばしけり:(松戸市)大井東一路
私は、あくまでも素のままでいたかった。だから「ハレ」と「ケ」で違いが出ることも拒否したかった。
「まつり」は嫌い。「儀式」も嫌い。
このごろは女性も「いなせ」な格好をして祭りに参加したりします。男も女も、「ハレ」に興奮して、ひどく「強くなった」振る舞いをします。これが、大嫌い。
ご本人達は気持ちよいのでしょうが、「ケ」ではできないことを「ハレ」ではできるということが嫌い。
「ハレ」でできることは「ケ」でだってやります。
「ケ」でできないことは「ハレ」でだってやりません。
そういう生き方を(可能な限り)しました。
学校というところでの「お祭」である、卒業式、などというと、女子が「わかれ」という言葉の響きだけに過剰に反応して、ハイになってしまいます、興奮します。あれが嫌いで、ですから卒業式などには可能な限り出ませんでした。
祭はきらいだな。
2009.6.14付 朝日俳壇より
あめんぼう飛行機雲を跳び越しぬ:(高萩市)小林紀彦
大串章 評:水に映っている飛行機雲を、あめんぼうが軽々と飛びこえる。遠近法による大小の取り合わせが心にくい。
実はですね、6月1日付の俳壇の句を取りあげて、わたくし、こんな記事を書いています。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-4258.html
アメンボウ
2009.6.1付 朝日俳壇より
浮雲でなければならぬアメンボウ:(東京都)保坂満
金子兜太 評:水の浮雲だよ、君は。う~む、とうなったままです。実は分かっておりません、わたくし。句の情景が。そして句に反応した金子氏の評が。
困ったな。空には空を漂う白い浮雲、水面には水面を漂うアメンボウ、という取り合わせの面白さなのでしょうか。
水面に映る空、浮雲。その浮雲をすいすいと渡り歩くアメンボウ、でもいいですか?
何もない真青な空では、水面に何の味わいもない。浮雲がないとね、水面は寂しいし、アメンボも映えない。のかなぁ。
あの時の私の中のイメージは、今回取り上げた句のイメージなんです。水面の雲とアメンボウの対比、と。
今、再度、前の句を読みなおして、金子氏の評を読むと、アメンボウそのものが浮雲なのだ、と言っておられるのですね。
さてさて、難しいことになった。
奥の深いことよ。
よく凡俗のはかるすべなし、ですかな。
2009.6.14付 朝日俳壇より
翡翠(かわせみ)に殺気みなぎり急降下:(武蔵野市)相坂康
水辺の木の枝かなんかでじっと流れを見つめていたカワセミが、一瞬にして水面へ突っ込んでいく。急激な変化。羽をたたんで水面へ突っ込むんでしょうね。
それまでの静かなたたずまいが、一瞬で「狩り」に変わる。
その切り替わりが「殺気」ですね。
瞬間を見事見切り取っています。
大蜘蛛の降下の速さ恐ろしき:(札幌市)岩瀬公宏
長谷川櫂 評:じっとしていたくもが、素早く獲物に向かう。生殺間髪を入れず。
同じシーンなんですよ。網を張って、ただひたすらに何時間でもじっと待ち続けるののです。獲物が網を揺らした瞬間に、とてつもない速さで獲物に接近し、糸で巻き捕らえるのです。
肉食性の動物(哺乳類も鳥類も昆虫もクモも)は、ひたすらに待つことができるのです。
ここ、という瞬間を待つのです。その瞬間が来るや、全力を尽くして獲物に襲いかかるのです。
カマキリになじみが深い私としては、そういう瞬間を何度も見てきました。
とてつもないパワーが瞬時に放出されます。
生きるということは、命をいただくこと。それは全力をもってなされるべきものです。
現代人はなんだか、「ふやけて」しまったような気もします。
「地球にやさしい」などというのは、相当に偽善的であることを見抜いてください。
2009.6.14付 朝日歌壇より
黒潮に深く祈りて船頭は舷を鳴らして鰹追いかく:(四万十市)島村宜暢
鰹をもたらしてくれる黒潮への感謝。そして、それをおいしいといって食べてくれる人への思い。漁業ってそういうものなのですね。
「舷」は何と読んだらいいでしょう?「げん」ですか?「へり」ですか?
両の方法をよく知りませんが、船べりを叩いて音で鰹を追う、というような漁法があるのでしょうか。
きっと、海鳥たちがおこぼれにあずかろうと、群がってくるんでしょうね。
2009.6.14付 朝日歌壇より
自分でも何色なのかわからないカメレオン死んでほんとうの色:(新潟市)太田千鶴子
馬場あき子 評:カメレオンも人も同じか。
人間的に見立て過ぎたかもしれません。
人の評価は死後に定まる、とか。
人間関係の中で、自己を見失ってしまった、とか。
カメレオンには、何もしないときにはこうでしかあり得ない色、というのがあるはずです。
自分の色を見失うのは人間のみ、のかなしさだと私は思います。
2009.6.14付 朝日歌壇より
軍勢の攻め入るごとき田植水一反二畝の田を領じたり:(和歌山県)木寺俊爾
なるほどねぇ。水が、どうっと流れ込んできて、田に水が流れ込む、その様子を「軍勢が攻め入って占領した」と躍動的に表現なさった。
生命感あふれる歌ですね。田植から刈り入れまでの長い時間の、幕開けにふさわしい迫力です。
どじょう、ヤゴ、カエルやバッタ、カマキリや、田螺に蜘蛛や、みな米づくり
豊な稔りをいのっております。
2009.6.14付 朝日歌壇より
乳母車も車椅子も行き交いて手秤目の子で買う農業祭:(岐阜県)棚橋久子
「乳母車、車いす」というところで、広々とした情景が読み取れます。
「手秤目の子」というところで、生産者の持つ独特のおおらかさと、集まった人たちのあたたかい交流が目に浮かびます。
暮れの「アメ横」の年越し市なんか殺気だってしまっていて、乳母車や車いすでは入りこめませんよね。
農作物を、手で持って、重さを感じ取り、ちょっと叩いていい音だ、とかいって、値が決まる。
何本か、何個かを適当にまとめて、こんなもんでどうだい、と量も決まる。
おおらかなものです。
漁師さんも気は荒いけど、おおらかなものです。母の実家は港近く。おいしい魚がいくらでも食べられましたっけね。
生産に携わる人って、みんなそうなんですよ。おいしく食べてもらえればいいんです。それが生産の基本的な喜びなんですから。
そのことを忘れて、食品がまるで工場産品のようになってしまっているところに今の都会の悲劇があります。
食いものは生き物。命は無駄なく食い尽くしましょうや。
2009.6.14付 朝日歌壇より
たそがれの中のあの子どこかで会った上野で見かけた阿修羅だろうか:(東京都)市野真祐子
永田和宏 評:阿修羅展の歌も多かったが、こんな詠い方もあったかと驚く。
東京での阿修羅展も終わり、行列も消えたことでしょう。
新聞広告で、阿修羅像の模造の広告など見ますが、仏像顔にしてしまったり、漢(おとこ)顔にしてしまったり、まぁ、碌なものはないように見受けます。
生身の少年少女の中に「阿修羅」は今、生きているのでしょう。その発見は本質的なことです。
仏教は死んだ宗教ではありません。人の心に苦悩のある限り、生き続ける宗教です。
阿修羅のまなざしは、すべての人の苦悩の平らかになる、その果てを見すえたまなざしです。
大人であのまなざしを保持し続ける人はおそらくそうはいますまい。
少年少女の中に、あのまなざしを持つ者がいることは確かです。
阿修羅は、そういう意味で、この世にあって、人の苦悩に立ち会い続ける「菩薩行」を行っているのかもしれません。
どこかで、阿修羅にお会いになりましたか?
2009.6.14付 朝日歌壇より
もうすこしきれいな字でと答案にわれより汚き字で書かれたり:(東京都)岩崎佑太
最初、シチュエーションが見えなくて、しばらく繰り返して口に出して読んでいました。
しばらくして
なんだ、私のことか、と思い当たったのでした。
私は字が下手なんです。下手なんですけれど、平気で書く人なんです。
黒板に板書する文字が汚くて、生徒にはいつも、ごめんなこんな字読ませて、と謝りつつ、でも、すごい板書をしていましたっけねぇ。
テストのとき、よく、授業の感想を書け、とか、次の学期にはこんな範囲をやるが知りたい疑問とかあったら書け、書き賃としてわずかだけど点数あげるよ、なんてこともよくやりました。
なれてくると、点数にならなくてもいろいろ面白いことを書いてくれるようになるんです、生徒は。
そういうシーンで、生徒が、「もうすこしきれいな字で」と、汚い字で書いてきたんですね。
結構、答案を介したやりとりって面白いものでした。楽しかったな。
2009.6.14付 朝日歌壇より
放生会どぢやう放してお経あげ鰻を食べにバスにて発てり:(日進市)山本佳子
なんだか、おかしいですね。ドジョウとウナギ。姿が似てるしなぁ。どちらも蒲焼きにするしなぁ。
命を救っておいて、食べに行くんだものなぁ。
せめて、精進くらいにしておいたら?いかが。
笑ってしまいます。まぁ、仕方のないことですけどね。
ほうじょう‐え【放生会】仏教の不殺生の思想に基づいて、捕えられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式。神社・仏寺で陰暦8月15日に行われる。<季語:秋> 。[広辞苑第五版]
新暦だと九月ですね。筥崎宮の放生会は有名ですね。
http://airpo.net/42/pg470/index.html
によりますと
放生会チャンポン:「チャンポン」という名称から食べ物のちゃんぽんを想像される方がおられますが、この「放生会チャンポン」は繊細なガラス玩具で、一般的には「ビードロ」として知られております。江戸末期から放生会で売り出された名物です。管の先端から息を吹き込むと「チャン」「ポン」と軽やかな音色を奏でます。大正時代いったんは姿を消しましたが、昭和46年小川勝男氏の手で復活しました。しかし、仕上げの絵付けだけはすべて巫女さんの手作業で、数多く作成できませんので限定の数となり、すぐに売り切れになる人気物です。
こんなおもちゃもあるそうですよ。
このおもちゃ、切手の「ビードロを吹く女」で有名なあのビードロですね。「ぽっぺん」とか言いませんでしたっけ。
ガラス細工をやっていると、似たものは作れますが、薄すぎてすぐ壊します。昔よく作って遊びました。
2009.6.14付 朝日歌壇より
しじゅうからちちぴちちぴとこいのうたうたえばにわにかきのはなちる:(東村山市)矢部仁美
ひらがなのまろやかさが効いています。効いてはいるのですが、声に出して読もうとすると、どこで切ったらいいのか、少しですが、戸惑います。
一つか二つの漢字を混ぜるか(固くなってしまうかなぁ)、一字空けをちょっとだけ使って、少しだけ手助けしていただけると、助かります。
2009.6.14付 朝日歌壇より
つやつやと梅の実みどりに発光し向いの山に時鳥啼く:(西予市)大和田澄男
この歌のポイントは「発光」というところですね。普通なら緑色に「輝く」というでしょうが、自ら発光している、という見方がものすごく歌に明るさをもたらしています。
景色全体が透明に明るく光り輝きだしました。
見事な言葉を選ばれました、と申し上げます。
2009.6.14付 朝日歌壇より
細りつつ朔(さく)にちかづく月のかげ地球照をばまどかにいだく:(大分市)岩永知子
「地球照」を短歌で読むのは初めてです。
ちきゅう‐しょう【地球照】新月の際、地球から反射した太陽光が、月の暗黒面を薄明るく照らすもの。地球の照返し。地球回照光。地光。[広辞苑第五版]
太陽から地球へ、地球から月へ、そして月から地球へ返ってきた光なんです。
月齢27くらいから朔をはさんで3くらいまでが、見ごろでしょうか。月の明るい部分が細く、残りの部分が地球照でぼんやり光って、合わせて丸い月になります。
丸い=円い、ということで「円(まど)か」なんですね。
気づけば必ず見られます。ああ、長く旅をした光を見ている、と観察してください。
付記:皆既月食では、月は地球の陰に完全に入ってしまうのですが、でも、見えなくなってしまうわけではなく、赤銅色に見えます。
これは、地球の大気を回り込んだ光が影の中の月を照らすからです。夕焼けの延長みたいな光で照らすわけですから、赤みがかって見えるわけです。
朔前後の地球照とは、原理が違っていますので、混同しないでください。
2009.6.14付 朝日歌壇より
岡山県和気郡日生(ひなせ)町の交差点電話ボックスの屋根は備前焼:(米子市)成田公一
ムム。そうなんだあ。さっすがぁ。でも、重たそ。
と、納得しました。短歌というより俳句に近い味わいですね。
2009.6.14付 朝日歌壇より
餌をまけば親からはぐれ雛は死ぬ蕪島の海猫(ごめ)の天敵われら:(鹿角市)佐藤拓子
高野公彦 評:野鳥に餌を与える人間のエゴを戒める心。
死者あれば葬花の売るる吾が業に疲れしときは海猫(ごめ)を見に行く:(八戸市)山村陽一
海猫が「ごめ」というのは初めて知りました。東北・北海道の方言から派生したもののようです。歌の時数を整えるのに便利かもしれませんがあまり多用してほしくないなぁ、というのが率直な感想です。ことばは素直に通じなければ意味がないように思います。
人が行けば、自然を荒らす。行かないのが一番いいんでしょうね。
かなしいことですが。
山村さんには、5.18付で下のような歌もありました。
海猫の抱卵つづく島に来て足音たてぬように歩みぬ:(八戸市)山村陽一
愛鳥家がそのまま自然を愛する人とイコールではないということは、愛虫家から見ると明らかなことです。もちろん、この言葉は愛虫家にもそのまま跳ね返ってくる言葉だということは十分に自覚しています。
ヒトといういきものの、どうしようもなさ、「業(ごう)」の深さを、かなしみます。
2009.6.14付 朝日歌壇より
有難し「きばいやんせ」と励ましの言葉届きぬ異国の独房(セル)に:(アメリカ)郷隼人
高野公彦 評:鹿児島市・山本幸子氏の作≪郷さんは矢張り薩摩の人なりし「きばいやんせ」とエール送らん≫(五月四日掲載)への返歌。
馬場あき子 評:アメリカの独房から。その名には帰れない故郷が見えるが、その故郷からの励ましの言葉が届いた。方言の「きばいやんせ」が心に響く。
こんなことを言うと、大変な批判を喰らいそうな気もするのですが・・・。
こういう交流が成立する状態がよいのか?と懸念するものです。
アメリカの法律のもとで終身刑に服している方に、日本からエールを送るという事には、どのような意味があるのでしょう。
頑張ってください、といっても、終身刑の終わるまで。つまり、服役を終えて社会復帰することは基本的にはないはずですから、命の終わりまでを、がんばれというのですか?
かつて、坂口弘氏が朝日歌壇の常連であった時にも、同じような問題をはらんでいる、と考えていました。坂口氏の歌は注目して読んでおりましたが、自分自身の中にとどめておりました。
どうか、多くの方々に、「悩み抜いていただきたい」と考えるものです。
2009.6.14付 朝日歌壇より
春うらら何かをぶち壊したくてラメ入りアイシャドー引いてみる:(横浜市)紅 征
高野公彦 評:作者は中国人で、日本語の勉強を兼ねて短歌を時々作っているという。これは女性の気持ちが見事に表現された秀歌だ。
女性にとっての「化粧」というものの意味を、男性、それも老人域に片足以上突っ込んだ私のような男性には、理解することは困難です。
「素のまま」であることを、自分の生き方のスタイルとして標榜してきた男ですし。
ですから、上掲の歌について、積極的な何かを言うことができません。
化粧が「戦闘服」であることもあるのですね。そうなのか。電車や街で見かける女性の化粧に、新たな視点ができました。
2009.6.14付 朝日俳壇より
香水をふつて心を鎧ひけり:(泉大津市)多田羅初美
大串章 評:<香水の香ぞ鉄壁をなせりけり 草田男>には男の怯みが見え、上掲「心を鎧ひけり」には女性の気概が見える。
実はこの日の歌壇の最初の歌が一番上の「アイシャドー」で、俳壇の最初の句が「香水」なんです。偶然でしょうが、「戦闘服としての化粧」が歌壇・俳壇の先頭を飾っています。
ごめんなさい、女性がた。香水は苦手。
どんなによい香りであっても、強制的にかがされるのは不快でしかない、という無粋な男でスミマセン。生活用品、食品、なにからなにまで、基本的に「無臭」か「素材そのものの香り」を好む男です。「素のまま」が好きなんです。
香水で心を鎧った女性に出くわしたら、多分、私、逃げだします。
ところで、同じ多田羅さんが、こんな句も投じています。
白地着て女の意地を通しけり:(泉大津市)多田羅初美
稲畑汀子氏の選です。
何があったのか、想像もつきませんが、かなり「とがった」気分だったのでしょうか。
白地で結構ですから、どうか、生成りの綿のシャツのような、ざっくりした状態に、心を整えてくださいませ。
{かかし}
「眼」というものがいかに大事か、分かりますね。りっぱです。
必要な光は入っていくけれど、不必要な光は遮断しなければなりません。入ってきた光のエネルギーを吸収することによって情報を得ますから、眼球は暗室でなければなりませんし、それを外から見ると「黒く」みえます。
体の左に赤いものが見えますね。これは当然心臓です。卵の中にいるときから心臓の拍動は見えるんですよ。金魚でも、メダカでも、飼うチャンスがあったらぜひルーペを用意して卵のときから時々観察してみてください。
受精卵は個体である、と私は認識しています。
下は私のホームページです。ここに、いくつかの動画が置いてあり、メダカの卵の中での心臓の拍動も見られます。よろしかったらどうぞ。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/Movies.htm
6月12日。恒例の「昼のお散歩」
なんと、クロアゲハが私を呼んだのです。ひらっと飛ぶ姿が見えたので、行ってみると、キンカンの木の隣の木にとまって、翅を開いてじっとしてくれました。
3m以上離れたところから、一枚撮っては一歩前進し、また一枚撮っては一歩前進し、と近づいて行きました。マクロレンズですから、望遠ズームというわけにはいかないので。
上の写真がその最後の写真。ここまで近寄らせてくれました。
これ以上近づいて、せっかくの休憩を邪魔しては悪いので、ありがとう、元気でね、と本当に声に出して挨拶してその場を離れました。
嬉しかったなぁ。昨日羽化した個体だと思って間違いないと思うのです。
わざわざ、姿を見せに来てくれて。
うれしくって。心がなんだか、明るく軽く大きく開いた気がしました。
ファンタジー・ワールドの住民というわけではないのですが、昆虫と一緒に生きている、という実感が最近、しみじみと身にしみてきます。
モンシロチョウが羽化していったあとに、目の前をよぎるモンシロチョウはみんな知り合いのような気がするし。
星の王子様効果、でしょうかね。
楽しいものですよ。
クロアゲハが羽化していました。ケース越しに写した写真ですので、ケースの汚れがフラッシュで光って白っぽく写っています。ごめんなさい。
右に蛹のついたトクサ。羽化のときに足場が悪いと落っこちて、翅の展開に失敗しますから、キッチンペーパーをセロテープで張ったのが白く写っています。蛹から出てきたチョウは、少しあるいて、キッチンペーパーの上の端に脚をかけ、翅を展開したようですね。
この時は、まだ羽化間もなくて、翅は閉じていましたし、あまり動く気もなさそうでした。
そっと、顔をアップにさせてもらいました。
どきどきするほど美しい。
夕方。羽をばたつかせて、出たい、といっていましたので、妻と二人でケースを外に出し、ふたを開けました。
こんな姿を見せてくれた直後。悠然と飛び立っていきました。
うれしいものです。何度見ても、心からうれしいものです。
翅がボロボロになるまで飛んで、飛んで、子孫を残してください。
胸がジーンとなる瞬間です。
チョウが飛び去って、少し緊張がほどけた後、羽化の後の蛹便を撮影。
ほとんど色のない蛹便でした。
チョウによって、この蛹便の色もずいぶん違うのだということが分かってきました。
5月31日。
玄関を出たところに目隠しのトクサが植えてあります。
そのトクサのかなり下の方にクロアゲハの蛹がついていました。
角が生えてます。
アゲハの蛹に比べると、すごくごつごつした感じです。
この場所はナツミカンの木から、直線距離にして6~7mかなぁ、木から下りて、下を歩いて、また登って、となると、10m近く離れているかもしれません。
去年も、この位置からさらに上の窓の枠にクロアゲハの蛹がついていて、気づかずにいて、羽化して出てきたところに出会って写真を撮りました。
すごく歩くものですね。そんなにエネルギーを使っていいのだろうか?と心配になりますが、そういうものなのでしょう。虫の気持ちの本当のところまでは立ち入れません。
ここで羽化されると、見逃すかもしれないので、トクサを切ってケースに入れました。
[恋する大人の短歌教室] (朝日新聞 09/06/15)
{応募作}「重い荷は腰傷めるから手を貸す」と老いてぞ優しわたしの坊や
「わたしの坊や」と詠っていますが、親子愛の短歌ではありません。「恋する大人の短歌教室」への投稿なのですから……。詞書風に添えられた注記に、「夫八十二才、私七十七才」とあります。ご主人の白髪頭を「なでなでしながら」バリカンで刈ってあげる、という作品も同時に頂きましたが、このお歳まで連れ添って、しかもご主人を「坊や」と呼べるなんて、素敵を通り越して羨ましいくらい。手に手を取って買い物にでも出掛けた折の情景でしょう。ご主人の思いやりを受け止めて、余裕綽々といった感じの奥さん。広々として屈託のないその愛情が、感動的でさえあります。
軽やかな気分に価値のある歌ですから、もっと肩の力を抜いて詠んでもよいかもしれませんね。音からして重々しい「ぞ」などという助詞は、係り結びがどうの、といった面倒なこともありますし、ここにはふさわしくないのでは。ご主人の言葉も、さりげない口調にアレンジしてみたらいかがでしょう。(石井辰彦)
{添削}「重い荷は持ってあげるよ」年老いてますます優しわたしの坊や
結論から言いますと、応募作のままの方が佳い歌です。
82歳といえば昭和の初めころにお生まれの方でしょう。その年代の男性が「持ってあげるよ」なんて言いませんよ。妻に優しくするなんて照れくさくってしかたないという世代でしょう。「愛してるよ」なんて口が裂けても言わないでしょう。
妻に何かをしてあげるとしたら、理由をつけて、もったいぶって、「してやるんだ」というような言い方しかなさらないでしょう。そう思いますよ。本当は優しくしてあげたくても、怒ったような口調でね。
そのような夫の性格、世代的な制約を十分に知り尽くしているからこそ、「まあまあ、すみませんねえ。ホントにたすかるわ」などといいながら、うまくおだてて気分良くさせて、にこにこと荷物を持ってもらう妻。実は夫をこうやって完全にコントロール下に置いているのですよ。お釈迦様の手のひらの上の孫悟空状態にしているのです。だからこそ「坊や」と言えるのでしょ。
いばらせて、強がらせて、でも実質は妻がコントロールしているのです。夫も実はそれを知らないわけではないけれど、不器用な世代の男、そうやって自分がコントロールされることを楽しんでもいるのかもしれません。それが「老夫婦」というものの妙味、夫婦の機微というものでしょう。
ですから
「重い荷は腰傷めるから手を貸す」
で佳いのです。
係り結びなんて気にすることはない。連体形と終止形は昔っから混乱してます。どっちでもさわぐほどのこっちゃあない。重々しく言うところがまた楽しいと思います。その重々しさと「私の坊や」という軽やかさの「落差」が面白いんです。
剛直な夫と、しなやかな妻。日々を楽しむお二人でしょう。
またしても、妻が発見してきました。
私は腰もかがめず、視線の高さを中心に見ていますが、妻はいろいろ土いじりもします。で、見つけてきました。
かつてカブトムシを卵から成虫まで育てたことがありますので、これは一目で甲虫の仲間と分かります。
カブトムシの巨大な幼虫に比べれば、非常に小さいのですが、同じような形ですね。
腹端部が黒っぽいのは腸の中の糞でしょう。
気門がきれいに並んでいます。
腐った植物質などを食べるのでしょう。
みごとな顎です。
ところでこいつ、すぐひっくり返って、背中で歩くんですね。
これ。
土の上なら毛が引っかかってこれで十分進んでいけるのです。
この習性と、大きさから見て、ハナムグリの幼虫だろうという見当です。
成虫まで飼育するのは今回は放棄。見つけた場所へ返してやりました。
ひっくり返った姿だけじゃかわいそう。
標準的な「C型」スタイルです。
園芸家は嫌うんでしょうが、まあ、いいじゃないですか。そう、実害はないと思いますよ。
ちょっとした目的がありまして、屋外にメロンの皮を放置しておいたところ・・・。
サトキマダラヒカゲがやってきて、半分腐った汁を飲んでいました。
翅の外側しか見えませんでした。ヤマキマダラヒカゲというのもいるそうですが、いくら何でも、我が家は平地にあります。
樹液や腐った果実にくる、という記述がありますからまず間違いありません
。
チョウ目>タテハチョウ科>ジャノメチョウ亜科>サトキマダラヒカゲ です。
このふわふわした体、あったかそうですね。撫でてみたくなりますが、そうもいきません。
ショウジョウバエと仲良く果実の汁を吸っています。
実は、ショウジョウバエが今回のメロンの皮の目的。この付近に、カマキリの幼虫がたくさんいるものですから、妻が、「ご飯よ」、といってショウジョウバエを増やしたのです。
ショウジョウバエのところだけをアップするとこうなります。チョウの脚の先も写っています。
ウィキペディアから引用します
ショウジョウバエの和名は、代表的な種が赤い目を持つことや酒に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの妖怪「猩々」にちなんで名付けられた。
見事に「赤い眼」を持っていますね。
ところで、チョウの写真を撮って、後でパソコン画面でチェックしていましたら、別のお客さんも写っていました。
チョウの背景にこんな幼虫が写っていました。
ぼくも写してぇ、としゃしゃり出た目立ちたがり屋さん、ということにしておきましょう。
何の幼虫かはさっぱり分かりませんが。
「かかしさんのカメラの前に行くとねぇ、ブログに載れるんだよぉ、そいでもって、殺されたりしないのぉ」と、虫さんたちに知られるようになったのでありましょう。
6月10日の夕方、イトトンボがいたわ、と妻。飛んでいるのを目撃したのかな?と見たら、捕まえてきていました。こういうところが我が家のメンバーの「おそろしさ」。
ひょいと捕まえて、プラスチックケースにいれて連れてきたのが、これ。
モノサシトンボのようです。茶色っぽいというか黄色っぽいというかの色合いは多分メスでしょう。
羽化後間もないのだと思います。一応翅は乾燥していて飛べるんですが、体色が全体に淡いですね。そして、眼。
もう少し「北半球・南半球」風に色が濃くなってくると思うのですが。
単眼や触角、顎も見えています。
結構、タフな面構えですね。
翌11日。
池に立てた棒の、水面近くのところに、抜けがらがありました。
5月30日に見たヤゴと、今回羽化して6月10日に観察したモノサシトンボは同一個体であると考えていいのではないでしょうか。
また、その抜け殻がこれであると考えられます。
一応決着がつきました。
いろんなことが起こります。スリリングで楽しい庭なのでありました。
妻が池で見つけてきました。
私はしゃがむことが苦手なので、こういうのを自分で見つけるのはきつい。
3本の尾鰓。これがイトトンボの仲間(均翅亜目)のしるしです。
シオカラトンボやヤンマなどは不均翅亜目という仲間に入っていて、いわゆるヤゴ型をしています。
このくらいがやっとでした。
ところで、ヤゴの写真を撮っていたら、水面に小さな小さな昆虫が走っていました。生きたい方へ自らの意思で自由に走っていくという感じです。水生昆虫の幼虫という感じなのですが。
体長は1mm足らず。本当に小さいのです。
写真を撮るのはとても難しい。
逆光のシルエットでいいや、と撮ったのがこの写真です。
http://mushinavi.com/navi-insect/data-amenbo_katabiro_kesi.htm
↑ここで調べてビックリ
カメムシ目 > カタビロアメンボ科 > ケシカタビロアメンボ
学名:Microvelia douglasi
和名 ケシカタビロアメンボ
体長 1.5~2mm
分布 本州,四国,九州,対馬,南西諸島
出現期 4~10月
エサ 昆虫の体液
なんとまあ、アメンボの仲間なんですね。「芥子粒のように小さい、肩の張ったアメンボ」ということでしょう。まいったなぁ。「止水域の水面に生息しており、泳がずに水面を歩く。」という記述もありました。そうなんです、普通のアメンボと水面での動き方が違うんですね。しかし「水面を歩く」とはいっても、水面との摩擦がなければ歩けないが・・・。どうやってるのでしょうね?
有翅型と無翅型があるということなので、上の写真は無翅型の成虫ではないかと思っています。
◆ついでに申しますと、普通のアメンボは、脚の先端が水中に潜っており、脚で渦をつくって後ろへ渦を蹴り送るのです。渦というものは水の中の現象なんですが、質量のある粒みたいに考えることもできるんですね。で、水面で摩擦がなくても、渦粒を後ろへ送り出すことで自分自身が前への運動量を獲得する、という水面歩行の仕組みなんです。一種のロケットみたいなものなのです。
アゲハの飼育から始まった私たち夫婦の飼育歴ですが、最近はアオスジアゲハを多く育てていました。ナツミカンの木やキンカンの木があるので、そこでアゲハたちが成長・羽化していることは知っていましたが、ちょっとアオスジちゃんに傾いておりました。
近年、東京のあたりでも、ナガサキアゲハが見られるという話もあり、今年はミカンの木の幼虫たちをいっぱい育てております。
アゲハとクロアゲハは若齢のときは見分けにくいです。
何となく違いますでしょ。見ているとだんだん自信がなくなってくるんですけれどね。たぶん大丈夫。
終齢や蛹なら分かりやすいのですが。
かわいいでしょ。ひたすら食べて成長することが仕事。
そのうち、いっぱいご報告できると思います。
お楽しみに。
すごく特徴的な姿ですね。レールの下の枕木をイメージした命名なのでしょう。
オビヤスデ目 > シロハダヤスデ科 > マクラギヤスデ
なのだそうです。
一つの体節に2対の脚ですから、ムカデの仲間ではなく、一見してヤスデの仲間だと分かりますね。マニアでないものとしては、ヤスデ、ムカデ、ゲジがちゃんと区別できればそれでいいですよ。
歩くときに、脚の並びに「疎密」が生じます。これで前進するわけですが、元物理教師としては、音波などの「疎密波」のイメージ作りに使えそうだ、と嬉しくなります。
屋外での撮影ですから、自由なアングルは望めず、頭部を撮りたかったのですが、このくらいが限度。
かわいい触覚ですね。
すたすたと、撮影可能範囲を出て立ち去って行きました。
http://mushinavi.com/navi-insect/data-obiyasude_makuragi.htm
「虫ナビ」の解説によりますと
落ち葉や石の下などの湿った場所に普通に見られる。
ということですから、注意していると見られるかもしれません。
2009.6.8付 朝日俳壇より
何をしに納屋へ来し吾蜘蛛の網:(大和高田市)布谷充啓
よくあること。
あれ~、わたし、なにしにここへきたんだっけぇ。
仕方ない、もう一回、同じ経路を歩いてみるか。
大事なことなら思い出すだろう、くよくよするのはや~めた。
何度も行ったり来たり、二階と階下を行ったり来たり。
物忘れは健康に良い。健康のため、たくさん物忘れをして、たくさん歩き回りましょう。
などと、ばかなことをつぶやきながら、今日も行ったり来たり。
あげく、蜘蛛の網が顔にへばりついてしまったのでは、むっとしますわね。
ちぇ、クモにまでばかにされちまったわい。あ~あ。
と。
2009.6.8付 朝日俳壇より
老人と蛞蝓(なめくじり)ただただ静か:(市川市)井上三七
私、虫は平気なんですが、ナメクジが苦手でして。でも、最近、写真を撮って、ナメクジの顔や体内の貝殻なんかを見ていたら、「なじみ」ができてしまった。風呂場などに現れた時、まあ、下水へ流すわけですが、どうしようもなければ「つまみ」だしてもいいか、などと思っている自分がおかしい。(まだ実行はしていませんけどね。)
まあ、「静か」というか「ゆっくり」な動物です。(ナメクジは貝ですからね、念の為)
まあ、年を重ねると、忙しないアリよりは、静かなナメクジの方が似つかわしくなりましょうかね。
2009.6.8付 朝日俳壇より
蟹のふりして落そうか夫の耳:(東京都)新沢糝子
金子兜太 評:この癖の悪い耳め。こっそりとぱさりと切り落としたい。
耳の癖が悪いって、どういう耳なんだろう?金子先生教えてください。
手癖とか口癖というのは知ってるけどなぁ。「耳癖」ってなんだあ?
「あわて床屋」を踏んでいるんでしょ。
暑くなってきたし、髪を少し切って、さっぱりしたい、と奥さまに頼んで、めおと床屋、なんですよね。で、わたし蟹、あなた兎、この耳切っちゃおうか、と。
仲良し夫婦の遊びですよね。
と思うんだけどなぁ。
ちなみに私、結婚以来37年、床屋に行ったことがありません。年に何回か、髪の毛がうっとうしく感じると、妻にカットしてもらいます。クシに剃刀の刃をはさんだような道具がありますよね。あれで、前とてっぺんは自分でカット、そぎ落とし、それ以外は妻がカット。
昔は山のように髪を削り落したものですが、最近はてっぺんはまるっきり手をつけず、まわりだけカット、になってしまった。寂しい頭になりました。
2009.6.8付 朝日俳壇より
山越えて乳房の赤子は夏つぽい:(神戸市)豊原清明
金子兜太 評:新鮮。いま山を越えて来たばかりと、母と赤子。
よくわかっていないのですけれどね。赤ん坊を背負って歩いて来て、峠をこえたあたりで、一休み。赤ちゃんにおっぱいを吸わせているのかな。赤ちゃんの顔も火照って、赤く湿っている。それが「夏っぽい」という表現に凝縮したのでしょうか。
この6/8付の俳壇の金子氏、「ぶっとんでしまって」。なんだか、もう、俗世を離れてしまったのかなぁ。金子氏の「評の評」が必要になりそうな勢い、私のような凡俗には。
2009.6.8付 朝日俳壇より
美女の名にやや飽きもして薔薇巡る:(吹田市)小井川和子
稲畑汀子 評:薔薇につけられた名前は有名な美女ばかり。その名に飽きはじめてもまだ続くのであろう。
名によって鑑賞することはありません。バラの美を鑑賞すれば良いのです。
絵画展などにいっても、作品名とか、作品の前に書き出してある解説なんか全部捨てて鑑賞なさいませ。
もし、おっ、という作品に出あったら、題名を読み、解説もご覧ください。まずは、作品と正面衝突する、それが鑑賞の本質。
バラ展とて同じこと。花を見て、植物全体の姿を見て、気に入ったら、付けられた名前など見るのもいいでしょう。もともと、植物に「名」などありはしないのです。必要なことは、花との出会い。それのみをお楽しみください。
2009.6.8付 朝日俳壇より
数々の縁に生きて明易し:(茅ヶ崎市)川村敏夫
大串章 評:数々の縁に支えられて生きてきた。その感慨は深い。
そのこと自体は厳然たる事実です。私がいくら粋がって、「少数」にて生きてきたからって、「数々の縁」に支えられてきたということは曲げられない事実です。
でもね、だからといって何も、社会の役に立ちたいとか、その縁に恩返ししたいとか、そういうのは、「うっとうしい」。
「縁」というのは、人の縁だけじゃありません。動物植物地球宇宙・・・全部「縁」。
ひたすらに、きちんと生きればよいのですよ。それが「縁」への恩返し。お役立ち。
自分をも含めた「縁」の中にすべてがあるのですから、自分を大切にすること、すなわち、縁を大事にすること。
生きるということは、たぶん、そういうことでしょう。
2009.6.8付 朝日俳壇より
白鳥の日本武や風薫る:(宇治市)森田房子
よけいなことで、俳句に親しまれる方ならみなさんご存知のことだとは思うのですが・・・
「日本武尊」を「にっぽんぶそん」と読むとか、「金色夜叉」を「きんいろよまた」と読んでしまうとか・・・。
昔の冗談です。
「日本武尊」は「やまとたけるのみこと」ですね。で、最後、死んで白鳥になって飛び去っていく話もご存知でしょう。古事記と日本書紀では少し記述が違ったと思いますが。
「倭建命」も「やまとたけるのみこと」ですよね。
風薫る、というと五月の初めころを指す季語ではないですか?
白鳥が北へ旅立つのはいつごろなのかな。4月ころ、という気がしていましたが。
少し、ずれがあるような気がして。
清々しい気分はよく伝わってきます。その点は文句なしですが。
2009.6.8付 朝日俳壇より
蜘蛛の子の初めて縋る己が糸:(東かがわ市)桑島正樹
大串章 評:蜘蛛の子が、初めて自分の吐いた糸に縋(すが)っている。その初体験を、蜘蛛の子は意識しているのかどうか。ふと人生の一こまを思わせる。
{この句は長谷川櫂氏も選んでおられます}
若干の思い違いが入っているような、あるいは、思い違いを誘発しそうな、そういう感じがします。
「吐く」というのは普通「口から」です。カイコは「糸を口からはきます」。正確には口の下にある吐糸腺から糸を引きだし、頭を振りながら繭を作っていきます。
クモの場合は、普通、腹部の後ろの方にある「出糸突起」から糸を出します。
尻から糸を出しそれにぶら下がったり、尻から出した糸をうまく脚でコントロールして網を張ったり獲物をくるんだり。
クモの子が高いところに登って、尻から糸を出して風を受け空を飛ぶ、なんていうのもありますね。
細い糸ですが、体重の2倍の力が加わっても切れません。子グモの場合だと、体重比ではもっと強い糸ということになります。
「その初体験を、蜘蛛の子は意識して」いません。糸を使うことはクモにとって足で歩くことと同じことです。ごく当たり前の行動です。
どうも、無味乾燥でいけませんね。ただ、私のような人間には、蜘蛛の子が初めて自分の糸にぶら下がっている、ということに思い入れするよりも、安全係数の非常に大きな糸であること、自由にその糸をコントロールして行動できること、そういうことの方が驚きであり心を揺さぶることなものですから。
2009.6.8付 朝日俳壇より
兜蟲とぶ空あるやニューヨーク:(広島市)安永達生
長谷川櫂 評:こんな句がニューヨークの友人への手紙に添えてあったらおもしろい。さて、どんな返句が返ってくるか。
へそ曲がりでスミマセン。英語でカブトムシのことを何というのかな?と調べてみたら
Japanese rhinoceros beetle
というらしいです。
直訳すれば「日本犀甲虫」のようです。犀のような角を持った甲虫なんですね。
ということは・・・ニューヨークにカブトムシはきっといないんだあ!
空はあるけど。
返句は「広島に17年ゼミはいないだろ」でしょうかね。
◆脈絡もなく
「犀の角」で突如思い出してしまった。仏典に「犀の角の如く独り歩め」という言葉がありますね。初めて読んだ時は(たしか高校時代)、面白い比喩だなぁ、と思いました。釈迦の時代のインドで、犀は日常的に見ることのできる動物だったのでしょうか。
その顔の先端に、独り立つ角、心に残る比喩です。
私は、けっこう、それを守ってきたみたい。
少数にて常に少数にてありしかばひとつ心を保ち来にけり 土屋文明
私の座右銘です。
Avec solitude
私の孤独と一緒
ですからね。寂しくなんかないんですよ。乾燥していて気楽で開放的で、よい。
2009.6.8付 朝日俳壇より
箱庭の人まぎれなく私かな:(横浜市)猪狩鳳保
長谷川櫂 評:箱庭を眺めているうちに箱庭の人となって別の世界にいる。それに気づいた驚きが「私かな」という直截な言葉になった。
金子兜太 評:箱庭の人形、すなわち自分。
さて、長谷川氏の評では箱庭に人形はなくていい。箱庭を眺めているうちに、自分が箱庭の世界に入ってしまった、ということでしょう。
金子氏の評では、箱庭に人形が置いてある。
箱庭に趣味がないのでよく分かりません。今風に言うと「ジオラマ」みたいなものですね。風景を作って、プラモデルの人形やその他を置いて、情景を作っていく。
その作業中に、その世界に入ったらこう見えるだろうな、こんな景色にしたいな、という、その世界に入った視点がいつもあるのでしょう。
箱庭でも、別に人形はなくていいでしょう。想像力の視線で箱庭を鑑賞しているのだと思います。
箱庭や毎日変へる石の位置:(野田市)塩野谷慎吾
ここでも、箱庭に入り込んだ視線が活動していますね。上から「神の目」でみて石を配置しているのではないでしょう。(箱)庭に居て、石の配置を楽しんでいるのではないでしょうか。
なかなかに難しい趣味ですね。
2009.6.8付 朝日歌壇より
つつじという漢字はとても書けません夕闇深く白い花むら:(富士見市)高橋美代子
同意します。
躑躅
なんて書けません。
薔薇も書けないので憂鬱です。
読めますけどね、どっかの首相よりは。高校時代むきになって、難読熟語に挑戦したことがありますからね。
2009.6.8付 朝日歌壇より
軽鳬(けり)の子の遅れしことに気付いては水脈波立てて列を追ひゆく:(大牟田市)鹿子生憲二
物知らず:第1弾
初め、「水脈波」が読めなくて、しばらく考え込んでしまいました。オハズカシイ。
みお【澪・水脈】ミヲ(水の緒の意)
①河・海の中で、船の通行に適する底深い水路。みよ。万葉集12「逝く川の―し絶えずは」
②船の通った跡。航跡。
[広辞苑第五版]
「澪」の方は知っていたのですが、「水脈」で「みお」は知らなかったのです。推測で広辞苑を引いたら当たりました。
物知らず:第2弾
「ケリ」を知らなかったのですね。で、水面を泳ぐカルガモの子、のような状態を想像しました。あわてて追いかけると、水面に波が立つ、という状況です。
ところが、ケリを調べると、脚の長い鳥でカルガモの状況とは違うことが分かりました。
「水脈波」を立てるとなると、浅い水場を歩いて追いかけて波が立った、ということなのでしょうね。
やっと情景がつかめてきました。子というものは、みんなそうですね。安全、なんてことは親任せにして勝手にあちこち好奇心の赴くまま行っちゃって、気付くと一人取り残されていた。
かわいいけれど、危険な状態。無事でね。
最後に
物知らず:第3弾
作者のお名前が読めませんでした。たぶん「かこお」さんだと思うんですが。自信がない。
教師やっていて、いろんなお名前に接しました。人の名前は難しい。ごめんなさい。
2009.6.8付 朝日歌壇より
大笑いややぎこちなき森光子「放浪記」二千回八十九歳:(鳥取市)山本憲二郎
永田和宏 評:二千回ということで森光子も緊張気味だったのだろうか。かすかなぎこちなさへの注意深い目。
森さんご本人は、まだまだ続けるおつもりですが、年齢が忍び寄っていることも確か。
ひょっとして、その年齢が演技に影響したのではないか、と詠われたのではありませんか?
年を取ればしなやかさは失われるもの。どこかに「やめどき」というものもあるのかもしれません。
(私、演劇には全然趣味がなくて、放浪記もまるっきり知らなくて、ただ推測で申し上げているだけですので、単なる一般論だとお受け取り下さい。)
2009.6.8付 朝日歌壇より
狭庭辺に香にたちて咲くみかんの花ミツバチ追うてスズメバチくる:(松戸市)猪野富子
我が家ではアシナガバチはいろんな種類のが来ますが、スズメバチはこないので、こういう緊張する場面はありません。アシナガバチの場合は、何かの幼虫をつかまえて肉団子にしてしまうようです。後は、水を飲みに来る、花の中をのぞいている、そんなシーンかな。
ところで、ニホンミツバチの巣をオオスズメバチが襲った時、ニホンミツバチは防衛手段を持っています。
オオスズメバチの偵察バチが標的の巣を見つけると、「ここはえさ場だ」とえさ場をマークするフェロモンをそばに塗り付けます。そのフェロモンを嗅いだニホンミツバチは巣の中に引きこもります。その状態で、巣の中にオオスズメバチが侵入すると、ニホンミツバチはただちに警報フェロモンを分泌して、集合し、オオスズメバチを多数で囲んで「蜂球」をつくります。そうして、翅の筋肉を激しく震わせると発熱し、蜂球の中心部は48℃にもなって、ミツバチ側は50℃くらいまでは耐えられるけれど、オオスズメバチは46℃くらいが限度なので耐えられずに熱死するのです。
セイヨウミツバチは、オオスズメバチの餌場マークフェロモンを感知することができないので、対抗できません。敵と一緒に進化してきたニホンミツバチが獲得した戦術です。
2009.6.8付 朝日歌壇より
歯科眼科耳鼻咽喉科泌尿器科。今日は暇にて畑仕事する:(さいたま市)泉明
病院の待合室に詰めかけているのは「元気な」年長者がた。「今日は○○さん来ないねぇ。具合でも悪いのかしらねぇ」ということになります。
今日は薬もまだあるし、畑仕事でもしましょうか。
う~ん。げんき、げんき。
2009.6.8付 朝日歌壇より
真っすぐに伸びる線路が少し曲がる辺りで君と生きたい五月:(広島市)大堂洋子
この歌そのものにはコメントしようがないんです。「線路が少し曲がる辺り」というのがどういう意味、イメージをはらんでいるのか、つかまえられませんでした。
ただ、この歌を読んでいると、また、昔の歌を思い出してしまいました。
しばたはつみ さんの「Musician」という歌なんです。
うろ覚えですが「中央線がカーブを曲がると懐かしい部屋が見える」というような歌詞がありました。売れない曲、時代を突出してしまった曲を、飢えたけもののような目をして弾いていた、そんな人と同棲していた、若い時代・・・というようなイメージの歌です。
しばたはつみ さんの歌は大好きでした。ダイナミックで大きな歌い方をされました。引っ越してきたら、意外とご近所に住んでいらっしゃることが分かって、嬉しくなったりして。お見かけしたこともないんですけどね。
ふと、想い出をかき立てられました。
2009.6.8付 朝日歌壇より
孤独死と言わないで下さいひっそりと逝くを望んでいる我なれば:(名古屋市)倉田しず子
これ、重たいですね。この歌に関して何かを言うことはできません。
ですから、以下は、私自身のこと、です。
以前から、「孤独死」の報道には、なにかちがうんだよなぁ、という感覚を覚えておりました。
人が死ぬとき、必ず誰かに看取られなければならないのだろうか?
他者を自分の死に巻き込むということが、なんだか、うっとうしいような、「重たい」ような感じがする私です。できることなら、誰にも知られず、誰にも看取られず、一人でひっそりと、いつの間にか消滅してしまいたい、という願望が私の中にいつも潜んでいます。
できれば、骨も残さず消え去りたい。私が生きた証のすべてを消滅させたい。
そういう願望があるんです。
その願望からすると、孤独死って、ある種「よい逝きかた」だな、と思ってしまうのです。ただ、多少、後の人に手間をかけさせてしまうのが気が引けますけれど。
何で、人は墓なんて欲しがるんですか?どうせ、墓に来るのは配偶者や子まで。ぎりぎり孫まで。それ以降は来ませんよ。墓があるからって、自分が生きた証なんですか?証を残して、それが一体何なのさ。歴史なんて、名も無く生まれて、仮の記号としての名で生きて(ヒトの場合)、名もなく死んで行く、そういう個々の命の集積の中に生まれるんでしょ。
現在、ここに、人間社会がある、ということそのものが、過去に生き死んだ人の「証」なんじゃないですか?
38億年、そうやって生命の歴史って、続いてきたんでしょ。墓なんて笑止千万。
毎日、虫や花と付き合っていますとね、長く生きるも短く生きるも、全く同じ価値なんだということが身にしみてくるんですよ。
孤独死にあこがれる自分を自覚する、わたし、です。
2009.6.8付 朝日歌壇より
辞書持たぬ歌作りゆゑあやふやな語句は有隣堂で調べる:(ホームレス)公田耕一
なるほど。図書館ではなくて、本屋さんへいらっしゃいますか。
私は蒲田の有隣堂と栄松堂へ毎週のように行っています。
公田さんは横浜の方にいらっしゃるのでしょう。となると伊勢佐木町か横浜駅の西口か、川崎か、そのあたりの店を利用されているのでしょうね。
ネットカフェでネット上の辞書を引く、という手もありかな。
大事な書籍を常に傍らに置くことができる環境に、早く戻れますように。祈念いたします。
2009.6.8付 朝日歌壇より
いびつなる苺いくつもちぎりたり働き蜂の羽音なき畑:(鳥取県)中村麗子
5.18付の朝日歌壇で
蜜蜂のいない桃畑、人の手で受粉せらるる花のゆううつ:(福島市)美原凍子
というのがありました。
私は生産現場の人ではないので、わからないのですが、今話題になっている、ミツバチが姿を消した、という出来事の現れなのでしょうか。
ミツバチがまんべんなく受粉してくれると姿のきれいな苺ができるのでしょ。
部分的な受粉ではいびつになってしまうのですね。
初め、アメリカの方から聞こえてきたニュースだったのですが、今、日本の畑も現実にそうなっているのですか。
とても気になることです。何が起こっているんだろう?生態系を支える昆虫に起こっていることは、生態系に支えられてしか生きられないヒトの将来を指し示しているのかもしれません。
注目し続けなければなりません。
◇我が家の四季成りイチゴは誰が受粉してくれているのだろう?アリかな?虫たちには開放された環境ですから、誰かがやってきて花の上や中を歩き回ってくれるんですね。
2009.6.8付 朝日歌壇より
うどん屋に冷やし中華ののぼり出て峡は一村さみどりのなか:(ひたちなか市)篠原克彦
そうなんだ、うどん屋さんに中華ソバなんだ。
きっと、うどん屋さんといいながら、食事は何でもあるんでしょう。
村の「なんでも屋さん」というのもあるなぁ。おかしいくらいなんでもあるの。
「冷やし中華」と「癒し中華」は「h」一文字の違いだ、なんて、皮肉ってもいられない。
夏の予告編ですね。
次は「氷」ののぼりかなぁ。
2009.6.8付 朝日歌壇より
妻の手に触れることなき四十年(しじゅうねん)癌持ちてより夜毎握りぬ:(行方市)額賀旭
高野公彦 評:ガンと闘っている人は心細い気分になりやすい。作者は、妻の手を握って眠る。その手は優しい精神安定剤。
高野氏の評は分かるんですが、「精神安定剤」という言葉が、微妙に引っかかります。
手のぬくもりは、ともすれば崩れそうになる心を支え、刺激の少ない夜に頭の中に去来する不安や恐れを手の敏感な触覚に集中させて、眠りへ導く。
共に若くはない手ですから、二人の歴史を皺に刻んだ手。感謝がこもることでしょう。
「同行二人」。夫婦ってそういうもの、なんだろうなあ。
年を重ねてきたなぁ。
2009.6.8付 朝日歌壇より
部署といい職場というて妻と我八十路は遊ぶミシンと畑に:(十日町市)羽鳥松雄
いえいえ、六十路の私も、毎朝、二階へ「出勤」しております。
ほっとくと、自堕落な生活になりそうですから、リズムをつくらなければなりません。
多少、季節性のウツ気味のときでも、「いつものこと」ならできるんです。何か新しいことをしようとすると、完全に立ち往生してしまうことがあります。ですから、生活にいつものリズムを持つ、ということはとても大切なことなのです。
なんとなく、現役時代の目で見ると、冗談のような、ままごとのような気もしますが、大切なことです。
それが分かる歳になりましたことよ。
2009.6.8付 朝日歌壇より
一億年前の地層の露頭にぞ鹿も食わざる鈴蘭の花:(伊那市)小林勝幸
そう、スズランって、毒草なのです。ご存知でしたでしょうか。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/dokusou/19.html
「東京都福祉保健局健康安全室」のページです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%B3
↑こちらはウィキペディア。
鹿は食べてみて覚えたのでしょうか?花の部分に特に多くの毒が含まれます。
植物は優しい、とか、植物原料だから安全、などという「迷信」に惑わされないでくださいね。それでは身の安全が保てません。思考停止は危険です。
2009.6.8付 朝日歌壇より
産卵に亀のくる浜総出なり6トンのゴミひろいて待てり:(浜松市)松井惠
広い砂浜にいると、自分一人くらいゴミ捨てたって、大したことはないだろうと、捨てるんですよねぇ。それが積もって「6トン」。
人が集まれば、汚れる。自然遺産とかに指定されると、かえって自然が破壊されるのではないかと思えます。エコツーリズムなんて嘘だよなぁ。人が行かない方がいいのです。
四駆の自動車で砂浜を走り回って、亀の卵をつぶす奴。自動車の性能が自分の能力であるかのごとく錯覚して「自我を拡張」して喜ぶ幼くも浅はかな奴。
亀の産卵時に、フラッシュを浴びせて、産卵を邪魔する奴。
亀の卵を食ってしまう奴。
情けないですよね。
2009.6.8付 朝日歌壇より
ドーリーと名づけてあれど亀なれば「はい」とは応えず今夜は迷子:(東久留米市)吉野弘子
飼っている亀の名はドーリー。室内に放して遊ばせていたのでしょうか。気づいたら何かの下へもぐりこんでしまった。
呼んでも応えてはくれませんね。
2009/03/09
冬眠より醒めたる亀が部屋ぬちを点検するがに歩みはじめぬ
永田和宏 評:冬眠明けの亀。はじめは戸惑っていてもすぐにパトロールを開始。作者は覚えられているのだろうか。
馬場あき子 評:冬眠から覚めた亀の歩みを面白く見せている。
2009/04/06
温かきものらはなべて去り行きて三十余歳の亀のみ残る
「温かきもの」というのは、犬や猫や小鳥などでしょうか。カメを飼い始めたのはどんなきっかけだったのでしょう。
高齢の亀のようですね。どうか無事出てきてくれますように。
2009.6.8付 朝日歌壇より
エゴン・シーレの年譜を見れば妻の死もスペイン風邪とあるは哀しき:(奈良市)森秀人
28歳で亡くなった画家です。独特の絵です。検索してみてください、あぁ、あの画家か、とお分かり頂けるでしょう。
今、豚インフルエンザが人への感染力を獲得して、地球上をめぐっています。よく引き合いに出されるのがこの「スペイン風邪」ですね。
シーレの妻は身重の体でこのスペイン風邪に感染しなくなったそうです。シーレも、3日後亡くなりました。
新型インフルエンザの日本での流行は、これから湿度の高い、暑い日々へ向かっていったん収まるでしょう。でも、次の乾燥する寒い季節、きっとまた流行ります。
高齢者の入口に達している私自身、どうなることか、わかりません。
免疫というのは、体が外敵と闘うシステムのことです。予めの免疫がなくても、体は免疫システムでウイルスと闘います。ですから、免疫システムが活発に働けるような生活が望ましいのでしょう。それがどのようなものなのかは、よく分からないのですが。
2009.6.8付 朝日歌壇より
高々と白きシーツを干したのは障害のなかった五月晴の日:(神戸市)
高野公彦 評:作者はリハビリ中。過去が懐かしい。
この歌は馬場あき子氏も選んでおられます。
洗濯をする、という日常が今は「重い」のでしょう。大きなシーツを、五月晴れのいっぱいの陽ざしに干す、という何気ない日常生活が、重たくなってしまった。
どのような状態であられるかは分かりません。
私たちは、あるがままにある、以外に生きようはありません。
「もし、障害の身にならなかったら」という過去への仮定法はお使いになりませんように。強く願うものです。(それは私自身のことでもあります。)
障害とともに生きる、我が身に生きる力がある限り、その力にまかせて生きる。
どうか、"over the disability" ではなく "with the disability"の生き方を会得していただけますように。
2009.6.8付 朝日歌壇より
「いまがいちばんいい時だね」と言うから味噌汁ふいと咽せてしまえり:(つくば市)橋本美知子
日本の古い男性は、「愛してるよ」というような言葉を日常的に妻に語りかけたりしません。
おそらく、そう口の軽い御主人ではありますまい。言葉少なに、ぼそぼそと重い内容を語る。
そんな方が、突然、「いまがいちばんいい時だね」。私たち夫婦の人生は「これでよし」。「君がいてくれたからこそ」。
と、突然、ぼそっとおっしゃったのでしょう。
むせてしまった。あやうく、食卓に吹いてしまいそうになった。
何を言うやらねぇ、と笑いながら、心には暖かいものが満ちあふれてきたのではないでしょうか。
前の記事の味噌汁は「若い味噌汁」、ここでの味噌汁は「年輪を重ねた味噌汁」です。
2009.6.8付 朝日歌壇より
謝るにはもう遅すぎて今朝君が作っていった味噌汁を飲む:(京都市)敷田八千代
馬場あき子 評:微妙な謝りたい心が味噌汁という具体とともに面白く詠まれている。
この歌は、永田和宏氏も選んでおられます。
物語性の強烈に強い歌を詠まれます。学生時代が終わり、奔放な感性がさらに解き放たれていく予兆なのかな、と思いつつ読んでいます。
「君」は男性。
昔、冷めたコーヒー飲みほし、という歌がありましたが、ここでは冷めた味噌汁が鍋に残っているのでしょうか。
シチュエーションの読み込みは読者の自由にまかされている、というところがなんだか、ドキドキしてしまいますね。想像力を刺激しておいて、拘束しないという効果を存分にいかしておられますね。
きついや。
2009.6.8付 朝日歌壇より
金魚の子威厳を持ちて産まれ出るまつ毛のようにピッと反りたり:(青森県)向山敦子
馬場あき子 評:小さな金魚の赤ちゃんの誕生が、少女のまつ毛の比喩に可憐に反映している。
私は「飼育者」なんですね。まったく随分いろいろな動物を飼育してきました。生物を教えた頃、雑談していて、「あそれ、飼ったことある。これこれ~~~こうでね~~~」ということがいっぱいあって、生物専門の先生からも、呆れられたくらいなんです。
もちろん、ワキン、リュウキン、オランダシシガシラ、ランチュウ、デメキンなども飼いました。メダカ、フナ、グッピー、タナゴ、エンゼルフィッシュ、ネオンテトラ・・・なども。
孵化したての稚魚に、ゆでたまごの黄身を目の細かい篩で裏漉ししてあげたり、イトミミズをとりに側溝をさらったり、ミジンコを発生させたり、アカムシとったり・・・。
昆虫も魚も、すべて威厳があります。生きることの尊厳を体現しています。(ぐたぐたするのはヒトの成体くらいでしょう。欲をかきますからね。)
それを、「まつ毛」といったところにこの歌の眼目があります。
それが「少女」のまつ毛かどうかは分かりませんが、生きることの尊厳と少女の清廉は比肩するとは思います。
稚魚は、すいすい泳ぎませんね。ピッ ピッ と泳ぎます。そこまでたとえに表現できたことがこの歌の楽しさですね。
2009.6.8付 朝日歌壇より
山里の伐採されし桃畑のキリカブ、キリカブ、キリカブに雨:(福島市)美原凍子
馬場あき子 評:伐採された桃畑の痛ましい情景を目にしての歌。キリカブというカナがきを三度繰り返した中に、悼む心やかすかな憤りのこもるものがある。
高野公彦 評:後継者のいない桃畑の寂しさ。
「かすかな憤り」かな?「強い憤り」のように感じますが。場合によっては「切株、キリカブ、kirikabu」というように、重ねながら、文字を変えていくというような手法もありうるかも知れませんね。強く表現するために。
美原さんは夕張市から去年移ってこられた。人が消えた街をよくご存知です。
情報でしかない「かね」を追いかけて、「幻想」の「もうけ」に狂奔して、今の危機的状態になりました。
「農」という営みは、「いのち」という最も根本的な事実に足を踏まえた生き方でしょう。
もう「農」は成立しませんか?ということは、ヒトという生き物の存在基盤が崩壊しつつあるということですね。
[恋する大人の短歌教室](2009/6/8 朝日新聞より)
{応募作}歩き方似ている人の後を行くそっと並んで追い越して行く:神奈川 和泉まさ江
恋する女性の浮き浮きした気分が伝わってくる、楽しい歌ですね。この作者からは既に何首も作品が届いているのですが、どの歌も折々の思いが素直に詠まれていて、好感が持てます。たとえば「雨の日は何とはなしに電話などなるような気がする寂しがりや」という歌など、最後の「や」をカットすれば三十一音にきれいに収まりますよ、などと添削してしまうのがためらわれる、印象に残る一首でした。
掲出作も何気ないようでいて実に微笑ましく、作者の人柄が偲ばれます。しかし、短歌としてはやはりいささか舌足らず。少し言葉を整理してもよいでしょう。特に、歩き方が恋人に似ているのだ、ということは、はっきり示しておきたいところ。同じ作者の「ベルならし通りすぎていくあの人は私の恋人みんな見て」というこれまた可愛らしい作品から「あの人」という言葉を採用し、さらに少し手を加えてみました。ううむ、ちょっと理屈っぽい歌になってしまったかな?(石井辰彦)
{添削}歩き方があの人に似てる人の後をつけて行くそっと追い越してみる
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これは全くいただけません。韻文が散文になった。ご自分でも「ちょっと理屈っぽい歌になってしまったかな?」と書いておられますが、「理に落ちる」というのはまさにこういうことでしょう。
口に出して読んでみてください。リズムがない(!)。これ「歌」でしょ。歌はやはり口に出して、音として読み、聞き、感じることが基本ではないですか?
6,8,6,7,7になっています。計34文字(「そっ」を1とカウントしています。)
「みそひともじ」どころじゃないじゃないですか。もし、この添削されたほうの歌を、どこかに応募でもしたら、絶対、「添削を受けて」しまいますよ。「歌のリズムが壊れている」というようなコメントがついて。
私は、字余り、字足らずをそんなに気にしないほうです。口に出して読んでみてリズムがうまくのればいい。
その意味で、「雨の日は何とはなしに電話などなるような気がする寂しがりや」という歌は
頭から切ると
「雨の日は/何とはなしに/電話など/なるような気が/する寂しがりや」
となって、最後が字余りだ、「や」をとれば収まる、と石井さんはおっしゃっているのでしょうが、読んでみてください。
「雨の日は/何とはなしに/電話など/なるような気がする/寂しがりや」
こう読めば、リズムは短歌のリズムになるはずです。いかがでしょう。いじる必要はない。
電話が本当に鳴ったら、「あの人だ」っと、一瞬、髪に手をやって、乱れてないかしらと、見えもしないのに気になるんではないかな。
さて、元の歌ですが、この歌を読めば、普通、恋人のことだと思いますよ、誰でも。
きつく読みこんで、亡き父の背中、丸くなってしまった母の背中を思って偲び、そっと追い越してみた、と読んでもいいですけれど、やはり普通は恋人ですよね。
「あの人」としたからといって、状況は変わらない。父や母を「あの人」と呼んだっていいのですから。
「あの人」にしたからといって、恋人であることが明示されたとは思えません。どうしてもということなら「恋人」と explicit に書いてしまえばいい。
恋人に似た歩き方後ろからすっと並んで追い越して行く
リズムは壊れていないでしょ。
私としはもとの歌のままでいいと思いますが、もし手を加えていいのなら、「そっと」を「すっと」に変えたいと感じます。
歩き方似ている人の後を行くすっと並んで追い越して行く
恋人の歩き方に似ているなぁ、と後ろからしばらくついて歩き、人通りの少ないところを見計らって歩調を速くし、「すっと」並びかけてみる。そして、恋人だったらいいのにな、と思いながら、追い越して行く。「すっと」というところをはさんで、後ろから見ていた時間が終わり、並び、抜けていく、という時間へと切り替わると思いませんか?歩くという動作と時間の流れが強く現れると思うんですけれど・・・。
いや、応募作でいいですよ。
歩き方似ている人の後を行くそっと並んで追い越して行く
お騒がせしました。ヒメカノコテントウという昆虫はどうやらいないようです。思いこみでそう書いてきましたが、正しくはヒメカノコテントウでした。
ノゲシのところで見かけたヒメカメノコテントウです。
少々ぶれているのが悲しいのですが、成虫が写っているのはこの写真しかなくてすみません。
餌となるアブラムシ、赤と緑、も写っています。右の方に幼虫らしいのが見えていて、この時は注意がそちらに行っていました。
これがその幼虫です。
一緒にいる場合、成虫・幼虫関係である可能性は高いので「幼虫図鑑」で調べてみました。↓
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/youtyuu/HTMLs/himekamenokotentou.html
いろいろなタイプのヒメカメノコテントウや幼虫が見られます。
やはり、この写真はヒメカメノコテントウの幼虫です。
これは初めて見ました。
種によって異なる姿、でもやはりテントウムシの幼虫に共通する姿、不思議なものですね。
保育社「原色日本昆虫図鑑(上)」昭37.4.1改訂九刷発行
(昭37.9.1大盛堂にて購入)
ひめかめのこてんとう
斑紋の変化があり、縦斑と肩・中央の2紋を残したものをヨツボシヒメテントウ、肩紋だけのものをカタボシテントウ、会合線の縦斑だけのものをセスヂヒメテントウとよぶ。早春からあらわれ幼虫も共にアブラムシを捕食する。
私のバイブルです。中学生の頃に思いきって買った本です。1962年ですか、60年代に中学生、高校生、大学の前半を過ごした、「60年代男」ですね。
古くなったものだ、本も私も。
ちょっとまえに、ジョークとして「黄色いトマトジュース」をご覧に入れました。
そのジュースの四角い1Lパックです。
右端に「注ぎぐち」、左端に「空気抜き」と印刷してあります。
細かい話ですが、この「空気抜き」というのは誤りですね。「抜く」ということは、内部から外部への空気の流れですよね。でも、実際に注ぎぐちからジュースを注ぐと、外へ流れ出たジュースの体積の分だけ、「空気抜き」の口から「空気がパック内に入る」のです。ですから、厳密に言うとこれは「空気入れ」ですね。「空気取り入れぐち」のほうが正確かな。
ペットボトルに水をいっぱい入れて、ただ逆さまにすると、水が出ては、出た分の空気がボコッと入り、水が出て、空気が入り、を繰り返して、なかなかスムーズに水が出ません。
そこで、ボトルの底をぐるぐる回して中の水を回転させてやると、ボトルの中に渦ができて「竜巻」のようになり、ボトルの口のところで、渦の中心が外の空気とつながって、水が出るのと空気が入るのが別々に行えるようになって水の流出が速くなります。
この実験「ボトルの中の竜巻」とかいって、渦を見ることに重点が置かれがちなのですが、実は、この水の流出速度のアップの実験としても重要なものです。(私自身は50年くらい前に、科学雑誌か何かで話を聞いて、重い一升瓶で実験してびしょぬれになりながらたっぷり遊んだものです。)
もし、ペットボトルの底に釘か何かで穴をあけておいて、指でふさいで水を満たし、逆さまにして穴から指を離すと、ものすごい勢いで水が抜けていきます。
長いストローをペットボトルの口から中へ入れ、ストローから空気が入るようにしてやっても、やはりすごい勢いで水が抜けます。
つまり、水が抜けることと、空気が入ることが別々に行えればとても速くなるということですね。
冒頭のジュースのパックでも同じことなので、「注ぎぐち」からはジュースが流れ出し、それとは別に、「空気抜き」の穴から「空気が入る」ことによって、流れがスムーズに速くなるのです。
というわけで、「空気抜き」は誤りなのでした。
理科おじさんの部屋、という私のホームページでも小学生のU君とやった実験を紹介してあります。関心がありましたらどうぞ。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/50th/sci_50.htm
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/51st/sci_51.htm
いぬ‐つげ【犬黄楊】モチノキ科の常緑低木。高さ2~3メートル。葉は小形革質で、互生。雌雄異株。夏、帯白色の小花を開く。実は紫黒色。ツゲに似るが、全くの別種で、材はツゲに劣る。庭木・盆栽とし、細工物に用いる。[広辞苑第五版]
写真で見ると、メシベがあります。オシベもあります。ところが、調べてみたら、雌雄異株なのだそうです。下のサイトで読みました。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/aquifoliaceae/inutsuge/inutsuge2.htm
イヌツゲの花は5月の終わり頃から6(7)月にかけて咲く。雌雄異株であるので、果実がつくのは雌株だけである。花弁は4枚であり、長さ2mmほどで白色。雄花は葉腋から長さ5~15mmほどの花柄を形成し、枝分かれして2~6個の花を咲かせる。雌花は葉腋から1つの花が咲く。雄花には4本のおしべがあり、雌花には4本の小さなおしべと中心にめしべがある。果実は秋に黒く熟す。普通は葉の陰に隠れて見えにくいが、時としてたくさんの果実がついていることもある。
そうすると、我が家の株は雌株ですね。
アリがメシベの付け根のところに口をつけていました。
蜜が出るんでしょうね、やはり。
ふと気づいたら、ヘン!
花弁が5枚ありますよ!
オシベも5本あるようですよ!
いいのかなぁ。こういうことがあって。花弁の枚数なんて、その花にとって基本的なことじゃないのかなぁ。妙なものを見てしまった。
やっぱり、こうですよね。
さて、これが雌花だとすると、どうなるのかな?
我が家にはこの株しかないので、雄花がない。結実しないのでしょうね。
何だかさびしい気がします。
せっかくだから、実を結ばせてあげたいけれど。
だめなんでしょうね。
とんでもなく小さなセミみたいな姿の昆虫を見かけたら「キジラミ」なのだ、ということを今年知りました。
それはヤツデキジラミと出会ったおかげです。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c6b7.html
ここに、ヤツデキジラミの写真があります。
今回は、キジラミだということはわかったのですが、どうもヤツデキジラミではないですね。
白い模様が特徴のようです。検索してみたらタイワントガリキジラミのようです。
こうやって見ると、セミみたいですが、なにせ、翅の先端までで3mm程度、すごく小さい。
ただどうも、動きに特徴があるようで、頭を中心にして体を振るんですね。その動きが目に入って気づくことが多いようです。
気にしてみてください。意外と見かけるかもしれません。
ところで、私のこのブログで、記憶にあるところでは2回「ヒメカノコテントウ」という題で写真を載せてきました。
頭の中で思い込みがあって、「鹿の子模様」だから、ヒメカノコテントウと決め込んでいました。
今回、いろいろ探しあるいているうちに、この黄色い背筋一本の昆虫が「ヒメカメノコテントウ」の一種だということで、大混乱です。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3aaf.html
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-3aaf.html
この二つの記事に登場したテントウムシが、正確なところ何という名前なのか分からなくなりました。
教えてください。よろしく。
6月10日追記:やはりヒメカメノコテントウが正しいようです。今、上二つの記事に訂正を書いてきました。
保育社「原色日本昆虫図鑑(上)」昭37.4.1改訂九刷発行
こういう図鑑がありまして、奥付に「昭37.9.1大盛堂にて購入」とあります。中学生の私が小遣いをためて買い求めた「バイブル」のような本です。この本には、「ヒメカノコテントウ」という名はなく、「ヒメカメノコテントウ」のみが記載されておりました。以下の通りです。
ひめかめのこてんとう
斑紋の変化があり、縦斑と肩・中央の2紋を残したものをヨツボシヒメテントウ、肩紋だけのものをカタボシテントウ、会合線の縦斑だけのものをセスヂヒメテントウとよぶ。早春からあらわれ幼虫も共にアブラムシを捕食する。
これを以て確定とします。これからは、ヒメカメノコテントウ、と正しい名前で呼ぶことができるようになりました。お騒がせしました。
かかし
コガネムシ科 > スジコガネ亜科 > セマダラコガネ
です。
背中がまだらなんですね。小型のコガネムシです。
幼虫は土の中で草の根などを食べているのではなかったでしょうか。
どういう経過か分かりませんが、家の中に入っていました。光に誘われて入ってきてしまったのでしょう。
触覚が、何というのか鰓状とでもいうのか、3つに分かれていて特徴的です。多分オスですね。
元気がよくって、しきりに翅を開いて飛ぼうとします。
1枚だけこんな写真が撮れました。
あまり拘束していて箱にぶつかってはかわいそうなので、窓のところでふたを開けてやったら、早速に飛び去って行きました。
かかし写真館のお客様も増えます。なんだか、向こうから「撮ってぇ」とやってくるような気分なんですよ。
ミズナを育てて、食べる、という容器と種のセットのようなものをかなり前に妻が買ってきてありました。
ほっといたらモッタイナイ、というので発芽させたのはいいのですが、早速に「虫が付き」ました。
幼虫図鑑というサイトを眺めていたら、セグロカブラハバチの幼虫ではないかと思われます。
成虫の写真は次のサイトでご覧ください。
http://mushinavi.com/navi-insect/data-hati_ha_segurokabura.htm
で、虫さんが付くと駆除するのかというと、いえ、そのまま育てておりましたら、蛹になる頃にどこかへ歩いて行ってしまいました。
結局、ミズナはほとんど虫さんに平らげられてしまったのでした。
これはブチヒゲカメムシの幼虫でまず間違いないだろうと思います。
齢の若いブチヒゲカメムシ幼虫だろうと思うのですが。
毛むくじゃらだし。
今まであまり明示的に書いたことはありませんが、カメムシの仲間は「不完全変態」昆虫です。
蛹を経ずに、幼虫がそのまま成虫に変態することを不完全変態といいまして、セミ、カマキリ、トンボ、バッタ、ゴキブリなどの仲間がそういう例です。
チョウ、ハチ、ハエ、カブトムシなどの仲間は、幼虫から蛹を経て成虫になるので、これを「完全変態」といいます。
ノミは血を吸うので、カメムシ目みたいな気もするし(それだと不完全変態)、ハエ目のカに近いような気もします(そうなら完全変態)が、実は「ノミ目」といって、独立した分類があるのです。
で、完全変態なんですね。よく調べるものですね。
現在、5、6匹の幼虫を飼育中です。
いろいろ重複も起こるかと思いますがご容赦を。
この色合い、クロアゲハかな、とも思っています。
この段階ではまだ確実じゃないんです。アゲハとクロアゲハの幼虫はとてもよく似ている。
齢を重ねて、大きくなってくるとそのうち分かります。
小さいうちは、食べる量も少ないし、ウンチも細かいんですが、終齢くらいになると、多少枯れかかったような葉っぱでも、パリパリ音を響かせて食べますよ。ウンチもコロンコロンと大きくなる。
ごく大雑把な話。3mmだったものが3cm=30mmへと、体の形が相似形のままで長さが10倍になったとしますね。すると、単純化すると、体重は10×10×10=1000倍になるんです。
すごいでしょ。3kgの赤ちゃんが3トンになるような成長なんですよ。
幼虫という時代は、ひたすら大きくなることだけに専念する時代。
もう、歩く消化管だ、という学者もいるくらいです。
ただひたすらに食べて、成長します。
蛹の時代に体をつくり替えて成虫になると、次の世代をつくることが仕事。メスは卵に栄養を持たせますので、成虫になっても大量の栄養が必要ですが、オスは遺伝子を渡せばいいんでして、生きていられるだけの栄養でいい。場合によっては、何も食べないという昆虫もいるくらいですね。
生きるということの実相を深く考えさせられることなんです、昆虫と付き合うということは。
ちょっとうっかりしていました。
夕方、気づいたら羽化していました。うれしかったぁ。
きれいでしょう!
ため息が出るほど。パーフェクト。
また言っちゃいますが、冷蔵に耐えて、成虫になりました。
よかったねぇ。
十分に体が乾いていて、もう外へ出たいという表情でしたので、妻と二人で、玄関からケースを持って出て、ふたを開けたら、さっそくに飛び立っていきました。
本当に、ほっとしました。よかった、よかった。
これが脱ぎ捨てていったぬけがらです。
美しいものです。天女の羽衣、といった風情ですね。
頭側から見るとこういう風になっています。
蛹の殻が割れて、出ていったあとです。
ケースの蓋の天井内側に、足場の糸とぬけがらがあります。
その真下に、液体がたまっていますね。薄い茶色っぽい色が付いています。
これは蛹便(ようべん)といいます。
羽化直後、翅はまだ縮まっています。そこへ胸部から体液を圧送して、翅脈に送り込みます。羽化したての成虫は翅を下に垂らしていて、そこへ体液を送り込むことで翅を開いていくわけです。(翅を上にしていて、それを上へ開いていくだけの力はありません。下か斜め下へ開いていきます。)
翅脈が液体を通すパイプとして機能するのは羽化後のこの時だけです。翅が展開し終われば、中空のパイプとして翅の強度を保つ構造材になります。中空のパイプという構造は同じ直径の棒よりも軽くて強度が高いのです。これが、蝶の飛翔を支える重要な仕組みです。
さて、翅の展開が終わった後は、体液を圧送するのに使った筋肉はもう一生使いませんので、アポトーシスという細胞の予定された自発的な死によって、細胞材料を体に回収します。
そして、余分な体液を、蛹便として排出するのです。
写真の位置関係からして蛹の殻を割って出た成虫は、その殻につかまって翅を展開し体を乾かしたのですね。そうして蛹便を排出した。ですから、殻の真下に蛹便が落ちているのです。
もし、蝶の蛹の羽化を見たり経験できたら、ここまで見てあげてください。
モンシロチョウの蛹便はごく薄い色でした。
アオスジアゲハの蛹便は薄い緑色です。
ルリタテハやツマグロヒョウモンなどのタテハチョウの仲間の蛹便は「真っ赤」です。
血を流していったのではないか、と不安になるような色をしています。
いろいろな蝶のいろいろな蛹便、など観察するのも面白いですよ。
冷蔵庫から救出されたアオムシちゃんが、蛹になりました。
典型的なモンシロチョウの蛹です。
半透明で薄緑色のエメラルドのような蛹です。
翅が見えていますね。
柔らかい蛹で、立てた状態にするとすこし歪みます。
まずい。
天井に貼りつくような姿勢が安定姿勢のようですので、あわてて、そういう姿勢に戻してやりました。
前2枚の写真でもわかるのですが、幼虫は蛹になるにあたって、プラスチックケースに糸を吐いて、頑丈な足場を作ってあります。
蛹の大きさからすると、立派すぎるくらいに頑丈そうです。
もっと大型の蛹になるアゲハやアオスジアゲハの幼虫が作る足場はこれほど目立たない気もします。
フラッシュ光を斜めから浴びせて、足場の糸が光るように撮影してみました。
幼虫が糸を吐きながら、首を振った様子が想像できますね。すごい仕事をするものです。
蝶の幼虫を飼育したプラスチックやガラスのケースには、幼虫が足場にした糸が張られています。ですから、そのケースを他の昆虫の飼育に転用すると、脚が滑らなくていいんですよ。
カマキリなどは餌を捕獲して食べるのに安定した足場が必要ですので、金網の飼育箱、蝶を飼育したことのある飼育ケース、それもなければ、ケース内に細い枝を邪魔にならないように入れる、などの工夫をして足場を用意してあげなければなりません。
前の晩、冷蔵庫の野菜室に入っていたブロッコリーについていたのを娘が発見。冷蔵に耐えて生きていました。
どう見ても、いわゆる「アオムシ」ちゃん。
妻は、ついていたブロッコリーの他に、常識的な意味での食草キャベツと一緒にプラスチックケースに入れ、どうなるか観察することにしました。
うっかり者のわたくし、調べてみたら
ブロッコリー【broccoli】キャベツの一変種。カリフラワーの原型で、花蕾カライが緑色で側枝にも生ずるものがあり、これを食用とする。ミドリハナヤサイ。メハナヤサイ。[広辞苑第五版]
なるほど。そうだったのか。
ブロッコリーを食べると、色の濃いウンチ、キャベツを食べると色の薄いウンチをするようです。ウンチがいっぱいということは、アオムシちゃんは元気だという証拠。
よくまあ、冷蔵に耐えて生き延びたねぇ、とみんなで感情移入してしまいました。
ところで、ウンチの写真をよく見ていただくと面白いことが分かります。(なんでしょう?)
必ず球が二つくっついた形のウンチをしています。どうやってこういう形にするのかは分かりませんが、特徴的な形のウンチをするものだと感心しました。
一応、元気そうではあるのですが、なんといっても、季節はずれの冬に閉じ込められていたのですから、蛹になるためのホルモンのバランスなどが狂ってしまっていないかと、心配しながら飼育を続けました。
ニワゼキショウの花を横から撮りました。
正面からのショットはずいぶんありますし、これまでにもお目にかけてきました。端正な花です。
小さいというだけで愛でてもらえないのはかわいそうですね。雑草なんて言われてしまって。
純粋に「花を愛で」てほしいなぁ、と思います。
ところで、ニワゼキショウの仲間にオオニワゼキショウという花もあります。
雑草図鑑によると、ニワゼキショウの花は横から見たときに花びらが平らに開き、オオニワゼキショウの花は平らに開かずにカップ状になるとのことです。
そこで、確認のため、横からショットを撮ったわけです。
平らに開いていますね。ですから、これはニワゼキショウです。
これは5月20日のことでした。こんなに一生懸命になっていたのに・・・
6月に入って、可愛い実を見つけました。
3mmくらいの球形。
手毬を思わせる模様が入っていて、とても可愛いんです。
妻にこれ何の実かなぁ?と聞いたら、ニワゼキショウでしょう、と言われてしまって、え~っ、そうなのぉ、とびっくり。
花と実を同時に写すことができました。「証拠写真」です。
ただし、実の向こうに写っている緑の葉っぱはニワゼキショウの葉ではありませんので間違えないでくださいね。
ニワゼキショウは細長い葉です。
花を横から見たときの縞模様が、実になっても残っているのですね。それが手毬風に見えるのでした。
とても可愛いものを見ました。嬉しいです。
イチゴの花の写真は何度も載せましたし、珍しくもないんですが、今回は、じっくり腰を据えて接写してみました。
まわりをオシベが囲んでいます。
山になっている部分の、黄色い一本一本がメシベです。これだけ実がなるということです。
花としては終わりまして、オシベは枯れてしまった状態です。
代わりに、メシベの根本、子房が膨らんできています。
一つ一つが「実」なんですね。
熟してくると垂れ下がりますので、前の3枚とは上下が反転しています。
アブラムシもついていますが、気にしない。
実が乗っている「花托」が大きくなってきました。イチゴとして食べるのはこの花托の部分です。実はこれから完全に熟すと黒くなります。いわゆるイチゴの種、というやつですが、あれが実は実なんですね。
その辺の変化が見やすい写真が撮れたかな、と思ってご紹介します。
コウチスズメというスズメガの仲間です。
コ・ウチスズメです。多分「小家雀」です。
スズメガ科>ウチスズメ亜科>コウチスズメ Smerinthus tokyonis
何だか少し「希少種」みたいです。
宮城県:準絶滅危惧(nT)、大阪府:準絶滅危惧、長崎県:絶滅危惧IA、宮崎県:準絶滅危惧(NT-R)
こんなことが書いてありました。↑
「最近都会に進出してる」ともありましたので、そのせいですね。東京の南端、多摩川をはさんで神奈川県とごく近いところでの観察例ということになりましょう。
とまっているのは、大きなタイプのトクサです。玄関を出て、ちょっと眼隠しに植えたトクサです。カメラを持って、この前を通り過ぎようとして、視界にひっかかりました。意識が引っかけたのかな。おっとぉ、と急停止して、モノポッドをきっちり据え、足場を固めて撮影。
下の翅がはみ出して見えるんですね。
翅を開くとどうやら別の印象の模様が現れるらしいですが、働きかけはしませんでした。
http://www.jpmoth.org/Sphingidae/Smerinthinae/Smerinthus_tokyonis.html
↑ここで、翅を開いたところが見られます。
外出から帰った妻に見せたら、翅がボロボロなのか?と不審がりましたが、これでパーフェクトな翅だと説明しました。
私は昆虫マニアではなく、昆虫ファンですので、姿さえ観察できれば満足ですので、夕方まで時々顔を出しては、まだいるな、と楽しませてもらいました。
普通種でいいんです。楽しく付き合いたいと思っています。
今日、2009年6月4日、ブログを書くかな、とログインし、たまにはアクセス解析でも見てみるかと覗いたら
累計アクセス数が「102927」となっていました。
いつの間にか10万を超えていました。
このブログを始めたのは2007年4月30日の「よもぎもち」からです。
逆算してみると、どうやら、5月25日頃に10万を超えたようです。
約2年で10万のアクセスを頂き、さすがにびっくりしております。
カウンターもつけず、写真と文章以外の何にもない、そっけない作りに徹してきました。
これからも、こんな調子で、続けてまいりますので、時々覗いてお楽しみください。
虫と花の好きな方にはそれなりにお楽しみいただけるものと思っております。
案山子庵 庵主 崩彦 敬して白す
[恋する大人の短歌教室](2009/6/1)
{応募作}これからも頑張れなんて別れ際きみなしでどう頑張れるのか:神奈川 中原かおり
失恋の歌ですね。一方的に別れを告げられた若い女性の、途方に暮れた様子。相手の暢気な口ぶりを恨めしく思う気持ちが、よく出ています。「頑張れ」などという言葉が違和感なく日常的に使われるような、友達付き合いの気分もある恋愛だったのでしょうが、いざ別れるとなると、そう簡単には思い切れるものではないのでしょう。未練がましい雰囲気が、読者には微笑ましく感ぜられる一首です。
ただ、何となく舌足らずな短歌であることも確か。「別れ際」という言葉が、五七五七七の定型に音数を整えるため強引にこの位置に投げ込まれているようで、どうもぎごちない。語順を変え、助詞も加えてみました。「頑張れ」という言葉が第二句と第三句に跨り、一種の破調になりますが、この方が韻律に多声音楽的(ポリフォニック)な重層性が生じ、現代の短歌らしくなるのではないでしょうか。作者の内心の苦しいつぶやきを際立たせるため、一字空きも使ってみましたが、こちらはお好みでどうぞ。(石井辰彦)
{添削}別れ際にこれからも頑張れなんて きみなしでどう頑張れるのか
まぁ、受け入れます。ただ、原作が定型だと字余りをわざわざ作り、前に一字空けが多いとなくしたのに、なければ入れ、破調をわざわざつくる、というのも、添削って、自在といえば自在、なかなかに理解が届きません。
私なら、
これからも頑張れなんて 別れ際 きみなしでどう頑張れるのか
こうかな。別れを告げる話の本体部分はおそらくもう終わっています。そうして、本当に「別れ際」の一瞬に「おれ、いなくても、きみならがんばれる」というように放たれた言葉。「そんなあ」という一人のかなしみ。
「別れ際」という文字の前の部分はかろうじて二人がいる状態を示していて、この文字の後ろの部分には作者一人しかいない。文字の並びとしての歌を、時間表現にするために、「別れ際」の両側に一字空けを入れてみました。
2009.6.1付 朝日俳壇より
虹仰ぎ少年一人旅に飽く:(茨木市)瀬戸順治
大串章 評:「一人/旅に飽く」ではなく「一人旅/に飽く」と読みたい。そろそろ”二人旅”にあこがれる年頃なのだ。
そうかなぁ。少年という言葉で何歳くらいを意味しているのかが問題なのですが、”二人旅”にあこがれるのは「青年」のような気もしますが。
そうはいっても、少年が旅に飽いた、というのも、すわりが悪い気もします。「旅」というイメージと「少年」がどこかミスマッチ。少年が虹を仰いで「ふっ」とため息でもつきますか。少年とため息というのも、どこか似合わない。
どんな少年なのかな。気にかかります。
2009.6.1付 朝日俳壇より
大雨の心細げな燕の子:(多摩市)岩見陸二
あの雛の大きな口、開くと黄色い大口、あれがツバメの親の給餌行動を引き起こす引き金になるのではなかったでしょうか。
鳥のヒナというのは、無力なくせに、エサよこせ!と強引に叫ぶようなところがあって、おかしいですね。
ツバメがヒナを育てていれば、当然、糞が落ちます。それを嫌がって巣を叩き壊してしまう、心無い人も多いようです。
生きていれば、必ずウンチをする、そんな当たり前のことを「お互い様」といって認めあうこともできないのでしょうか。不寛容な気分が蔓延して、窮屈ですね。
燕の巣って、妙に窮屈な場所に作ってありますよね。ツバメは低く高速で飛んできて、羽ばたきをやめて、運動エネルギーを位置エネルギーに変換しながら上昇します。そうして、巣の高さのところで、ちょうど運動エネルギーがゼロになって、脚を伸ばすと巣の縁に静かに着陸できる、という飛行術を使っているのです。すごいでしょ。感覚で身につけたすぐれた飛行技術です。
燕の眼は前方と側方と、独立にはっきり見えるようになっています。ヒトの眼は、字を読むときに使う黄斑のところ一カ所しかはっきりとは見えません。このすぐれた眼も、あの鋭い飛行を可能にしているのです。
2009.6.1付 朝日俳壇より
聖五月われらぼうぼうとねむたい:(延岡市)安賀多けい
聖五月というのが季語だとは知りませんでした。グーグルあたりで検索してみてください。解説が出てきます。
「ぼうぼうと」という言葉も音(おん)は面白いのですが、よく分からなかった。「とりとめもなく」というような語感でしょうか。
「清々しい」五月(輪郭のくっきりした語感)と、「ぼうぼうとねむたい」(ふちのあたりがぼやけているような語感)のは、なんとなく、ミスマッチな気もしますが・・・。
スミマセン、無知でした。
{「爽やかな五月」と言わなかったことだけ、ほめてください。「爽やか」は秋の季語だそうですから。窮屈だよなぁ。}
2009.6.1付 朝日俳壇より
日遍(あまね)し歌垣なせる蝌蚪の群:(洲本市)高田菲路
単なる「歌会」ではないのです、「歌垣」は。
昔、大学の教養学部時代に、古典をとって、風土記・古事記の世界に浸っていたことのあるかかしさんです。その時の古事記読書から「崩彦」という名を知り、使うようになったのでした。
古代日本の社会は、性的にかなりオープンな社会だったようです。
うた‐がき【歌垣】①上代、男女が山や市イチなどに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。古事記下「―に立ちて…美人の手を取りき」 ②男女相唱和する一種の歌舞。宮廷に入り踏歌を合流して儀式化する。続日本紀30「男女二百三十人―に供奉す。…男女相並び、行を分ちて徐ろに進む。歌ひて曰く」[広辞苑第五版]
山道が険しいといって、あの娘の手を握ったよ、ああうれしいな、というような歌もありました。昔も今も男って奴は変わり映えのしないものだな、と思いましたっけ。
そういう知識を底にして上の句を読むと、少し違和感を感じます。オタマジャクシはうようよ集合しますが、まだ「幼体」。成体ではないので、雌雄の出会いは関係がないんですね。
と、味もそっけもないことを言ってしまいました、もうしわけありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%9E%A3
ウィキペディアの「歌垣」の解説です。興味のある方はどうぞ。
2009.6.1付 朝日俳壇より
この蝸牛とかの蝸牛出会ふのか:(東京都)井原三郎
金子兜太 評:家を背負ってのそのそ。いつになったら出会えるのかねえ。
確かにねぇ。あの行動力で広い地域を歩き回って、出会えるんでしょうか、うまく。
何か互いを呼ぶ「におい」のようなもの、フェロモンのようなものでもあるんでしょうか。
カタツムリは雌雄同体ですので、出会いさえすれば、共にメスであり、共にオスであるので、一挙に二つの交尾が成立することにはなるのですが。
世界は広いからなぁ。シンパイだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%A0%E3%83%AA
ウィキペディアです。カタツムリの解説なんですが、一部を引用します。
リンゴマイマイ科やオナジマイマイ科など一部のグループでは生殖器に恋矢(れんし)と呼ばれる石灰質の槍状構造を持ち、交尾の際にはそれで相手を刺して刺激することが知られている。またオナジマイマイ科やニッポンマイマイ科では、生殖期に大触角の間の「額」の位置が盛り上がって瘤(こぶ)状になっているのが見られることがある。これは頭瘤(とうりゅう)と呼ばれるもので、性フェロモンを分泌すると考えられている。
やっぱり、フェロモンもあるんでしょうね。そういうのがないと、出会えないよなぁ。
「恋矢」はたしか love darts というんじゃなかったかな。不思議な行動ですね。
2009.6.1付 朝日俳壇より
浮雲でなければならぬアメンボウ:(東京都)保坂満
金子兜太 評:水の浮雲だよ、君は。
う~む、とうなったままです。実は分かっておりません、わたくし。句の情景が。そして句に反応した金子氏の評が。
困ったな。空には空を漂う白い浮雲、水面には水面を漂うアメンボウ、という取り合わせの面白さなのでしょうか。
水面に映る空、浮雲。その浮雲をすいすいと渡り歩くアメンボウ、でもいいですか?
何もない真青な空では、水面に何の味わいもない。浮雲がないとね、水面は寂しいし、アメンボも映えない。のかなぁ。
2009.6.1付 朝日歌壇より
風媒の桃花はももいろの風に抱(いだ)かれふふとちさき実むすぶ:(福島市)美原凍子
結局、蜜蜂が来なかったのですね。人の手や風で受粉する羽目となってしまったようです。
美原さんの「桃」は連作になっています。ご紹介しましょう。
2009.5.18
蜜蜂のいない桃畑、人の手で受粉せらるる花のゆううつ
2009.5.4
桃の木に桃の時間が流れいて畑はいちめんももいろまんだら
2009.4.27
桃の木に桃の花咲きまろき実となりゆくまでのいちにちいちにち
永田和宏 評:桃の花が実を結ぶまで長い柔らかい時間の表現として下句のリフレイン秀逸。
2009.4.20
桃畑の一点となりひねもすを摘蕾(てきらい)すればおろし吹き来る
高野公彦 評:桃畑で働く作者。桃の蕾に囲まれつつ、山からの風が身に沁みる。
2009.3.2
きさらぎの光を浴びて桃の木はももでありたきいっしんとなる
馬場あき子 評:春近い光に甦るような艶光を滲ませる桃の木が下句で独特の生き方をみせる。
かつて、夕張に暮らした美原さんですが、今は福島市で、「桃の時間」を生きておられます。
どうか、おいしい桃ができますように。(個人的には甘いだけの桃ではなく、酸味もあって濃厚な味の桃でありますように。)
2009.6.1付 朝日歌壇より
林芙美子を二千回生き華やげど「放浪記」とは寂しき言葉:(ホームレス)公田耕一
朝日歌壇はしばらくの間、公田氏の投歌に「はしゃぎすぎ」ました。
「ホームレス」ということの、タイムリーさが「新聞歌壇」に衝撃的だったからでしょう。
このところ少し落ち着いてきたかな、と思っております。
「ホームレス」というのは、氏の「今のあり方」であって、「歌のあり方」ではありません。
生活は厳しいと存じますが、歌は歌として吟味・評価されるべきでしょう。
これからも、この鋭い視線が何を貫くのか、味あわせてください。
◇昔の大学闘争時代の落書き「最も低く位置する者が、最も遠くを撃つ」
2009.6.1付 朝日歌壇より
授乳して夜明け迎うること五日黄金(きん)に染まりし体内時計:(高槻市)有田里絵
高野公彦 評:寝不足ながら「黄金に染まりし体内時計」という美しいイメージに、母親の喜びがにじむ。
初めてのお子さんではありませんので、ゆとりがあります。初めてだと、五日も続けて夜明けの授乳ともなると、お母さんも疲れていらいらし始めそうですが、「こういうこともあるさ」と、ゆったりかまえていらっしゃる。その感じが読む側に安定感を伝えてきます。
時差ぼけが、朝の太陽光を浴びることでリセットされることもきっとご存知なのでしょう。
夜明けの美しい太陽の光に、体内時計がリセットされてしまったわ、とほほ笑んでおられるようです。
ゆっくり、ゆっくり。あせることなどなにもない。赤ちゃんは自らの力で伸びてゆきます。
2009.6.1付 朝日歌壇より
裏庭に鶯近く鳴きおれば雨戸あけずに朝餉の支度す:(つくば市)池上晴夫
帰省するたびに鳴声うまくなる鶯ききつつ畦草を刈る:(福山市)武暁
高野公彦 評:状況は異なるが、ともに鶯の声を楽しむ歌。
ごく短いスペースで「評」を書くということの大変さはわかります。でもねぇ、この評はちょっと疑問ですね。歌の意の同義反復にしかなっていない気がしますよ。
「鶯に配慮し、鶯の成長を聞き取る。探鳥とはまた異なる鳥との付き合い。」
くらい、おっしゃいませよ。
2009.6.1付 朝日歌壇より
五月晴れ日差しの中でのびのびと四肢伸ばしつつ大あくびのリス:(和歌山市)沼田千津
私、動物詠って好きなんです。すっごく偏った好みですみません。動物が入っていると、文句なく喜んでしまいます。
この歌、初めは何の気なしに読み進めていって、最後のところで「リス」に出会って思わず噴き出して笑ってしまいました。(ごめんなさい)
だって、リスが陽を浴びて、肢をう~んと伸ばして、大あくびをする、なんて、想像したら可愛くって、これはたまりません。
最高です。
2009.6.1付 朝日歌壇より
杼(ひ)のごとくとんからりんと田植え機が代田に青く早苗織りゆく:(茨城県)渡辺劼
きれいですね。田んぼに緑の織物が織り上がっていく。きっと織物の名前は「早苗織」。
◇つまらない註ですが、ここでの「代田」は「しろた」ですね。田植の準備が整った田のことです。
世田谷に「代田」という地名がありますが、あれは「だいた」です。巨人ダイダラボッチの足跡というような伝説がありますね。かつて世田谷に住んでいたものですから、こんな話も聞いていました。
◇もう一つ。杼は英語では「shuttle」です。スペース・シャトルというのは、宇宙と地上を「杼」のごとくに行き来する乗り物、ということなんですね。
2009.6.1付 朝日歌壇より
駅前の行き交う人を見守りつつ交番の巡査スクワットする:(沼津市)森田小夜子
可笑し味がありますね。巡査ってまぁ、大変な仕事ですよ。一般人の生活に寄り添いながら、一方ではいつ発生するかもしれない犯罪に対する最前線でもありますからね。
でも、人は人。退屈するでしょう。体がなまった気分もするでしょう。で、スクワット。どこか、のどかです。交番は暇な方がよいのです。
障害者の駐車禁止除外関連の用事で、近くの警察署へ何回かいってきました。事務的なことなんですけれど、警察官って、やっぱり普通の事務官とは違いますね、漂わせている雰囲気が。肉体的な衝突に対して冷静に対処できる訓練を受けているという感じです。私のような、肉体的にひ弱な人間は、他者と強い肉体的な衝突が起こったら、頭の中が真っ白になってしまいます。声さえ出ないかもしれません。それに比べて、警察官は柔道、剣道、棒術など体のぶつかり合いに対処できる人たちだ、そういう雰囲気が漂っている、なんだか圧倒されそうだ、そんな気分がしました。
交番に立つ、それって、すごいことだと、改めて思います。
2009.6.1付 朝日歌壇より
白壁に寝惚け眼で頭突きするそして始まる今日の一日:(神戸市)青木美穂
佐佐木幸綱 評:若い作者の、若さをもてあましたような一首。うらやましい。
四月から下宿でもして寝る環境が変わったのではないでしょうか?
実家での生活習慣が残っていて、布団(ベッド)から起き上がって行動を始める動作をすると、ぶつかっちゃうんじゃないですか?
まだ、実家気分が抜けないなぁ、また頭突きしてしまった、と苦笑しながら、一人の生活が今日も始まる。
そんな気がしました。
2009.6.1付 朝日歌壇より
じゃあまたねの後でだんだん濃くなって言葉の影の吾に寄り添う:(名古屋市)田辺美佐江
言葉というものは不思議なもので、発した、聞いた、その瞬間になんでもなかったものが、時間とともに、存在感を増していくということがあるものです。
さらっと互いに発した「じゃあまたね」が、自立的に存在しはじめ、重くなっていく。気になって仕方がない。
どうなんでしょう、推測しすぎかな、ひょっとして「またね」のない後の時間なのかな。
軽く言っただけに、後から重くなってしまって、もっと他に言い様はなかったのか、もっと言葉を尽くすことはできなかったのか、引きずってしまいました。
言霊って、意外とそういうところから実感するものなのかもしれません。
2009.6.1付 朝日歌壇より
生後三日わが指つかむみどり児のかすかな力育ち始めぬ:(豊中市)藤原せつこ
私の感覚としては、生後間もない赤ん坊の握力って、こんなに強いものだったのか、と正直驚きました。だって、大人の指を握らせて、そっと引き上げると、体が起き上がってくるくらいしっかりと握るんですから。
サルの仲間なんだよなぁ、やっぱり。お母さんにしがみつかなくっちゃならないものなぁ。
誕生後間もない赤ちゃんの足の裏を押すと、足を「握る」動作をするんですよ。これも、やっぱり、サルの仲間だからなんです。
さらに、誕生後間もない赤ちゃんの首を支えて、体を立てて浮かせ、足が床につくようにしてやると「歩く」動作をします。これは歩行反射といって、生後しばらくすると消えてしまいますが、いずれはやはり、「あんよ」になってくるわけです。
これは二足歩行を獲得した「ヒト」だからなのかな。
2009.6.1付 朝日歌壇より
鯉幟庭にしょげてる子供の日突然みどり児はいはいしたり:(平塚市)三井せつ子
風のない日だったのでしょう。鯉のぼりは泳いでくれませんでしたが、赤ちゃんがはいはいを始めた。
う~む、嬉しい。言いようもなくうれしい、ですね。
我が家では、後頭部と足先で体を支えて、仰向けのままピョンピョン飛ぶように移動する方法をなぜか身に付けてしまって、典型的な形のはいはいはしませんでしたね。嬉しそうに飛んで行ってしまうので、おむつを替えるのが大変でした。そうやって、ずっと仰向けで動き回っていましたが、ある日突然、強烈な体のひねりを覚えて、みごとな寝返りを取得したのでした。子の発達というものは、一通りではありませんね。育児書よりは、目の前の赤ちゃんを学びましょう。
2009.6.1付 朝日歌壇より
「早さ」こそ蕎麦の手練と教え子は指紋の消えた指を差し出す:(塩尻市)百瀬茂
教師として、教え子に教わるということは最高の喜びなんです。
教師という職業は、自分を超えるものを育て上げる、という職業なんです。
教え子が自分を越えて行ってくれなければ、世の中、よくならないじゃないですか。
自分自身は、ついに踏み台であり続ける、これが教師冥利というものです。
偉い先生ばっかりになると、世の中はつまらなくなり、滞ることになるのです。
2009.6.1付 朝日歌壇より
白き花蝶にはなれず柔らかき豆となりたり五月一日:(徳島市)上田由美子
これ、白い花のスイートピーのことですよね。
花はマメ科の花。蝶のような姿。でも、蝶になったのではなく、豆になったよ、と。
ただし、スイートピーの豆は食べないでくださいね。「甘い豆」といってはいますが、毒性があるようです。
1982年に「赤いスイートピー」という歌がヒットしましたが、あの当時にはまだそういう赤花のスイートピーは存在していなくて、後になって、品種改良でつくられた、と聞いております。
2009.6.1付 朝日歌壇より
向こうからきみが手を振るそれだけでゼブラゾーンが白く輝く:(逗子市)中原かおり
馬場あき子 評:嬉しさに輝くゼブラゾーンの白。心おどりが率直に伝わる。
私は男ですから、昔、少年・青年だった時代をかんがみて、男の心理の中に、恋する女性のしぐさが、あたりを輝かせる、彼女が走ってくる道が輝いている、というような心理状態は想像がつきますが、同じ心理状態が女性にもあるのですね。
男性にとって女性は、永遠の謎です。その謎のほんの一端を垣間見させていただきました。
成就しますように。
2009.6.1付 朝日歌壇より
あてどなく天使突抜(てんしつきぬけ)ゆふまぐれ口遊(すさ)みゆくとほりやんせのうた:(生駒市)内藤幸雄
永田和宏 評:天使突抜は実際にある京都の地名。
永田さんの評がなければ、なんのことやらまったく分からずに終わったことでしょう。
「京都通(京都観光・京都検定)百科事典 Encyclopedia of KYOTO」というサイトを調べてみました。
天使突抜通(てんしつきぬけどおり) TenshiTsukinuke Doori
所在地:京都市下京区天使突抜1丁目~天使突抜4丁目あたり
・・・
【名前の由来】西洞院通松原を下ったところに五条天神宮(ごじょうてんしんぐう)がある。
五条天神宮の祭神の少彦名命(すくなひこなのみこと)は、別名「手間天神」「天使様」と称され、創建当初は、「天使の宮(天使社)」と称されていた。
五条天神宮の境内は、東西4町、南北5町という広い境内を持っていたといわれる。
豊臣秀吉の都市改造政策により、天使社(五条天神宮)の鎮守の森を貫通して南北に道が作られたため、「天使突抜通」と名付けられた。
ここまで読むと、上に揚げた歌の「とほりゃんせのうた」が、生き生きとしてくるんですね。知らなかった。
京都は「深い」町だなぁ。
2009.6.1付 朝日歌壇・俳壇より
去年より贈られるだけの日となりてつまんないなあ母の日なのに:(大東市)元野陽子
{永田和宏、高野公彦 選}
一人暮し見捨てられたと思う日にカーネーションの花束届く:(西宮市)谷向淑
力在りカーネーションに守られて:(川崎市)平山祥子
母の日や一男一女一家成す:(高松市)岩瀬良子
母の役終へてひとりの母の日なり:(町田市)青木千禾子
嫁といふ娘の出来て届く薔薇:(江南市)東野佐恵子
人生の色々な局面が語られています。
最初の歌の、「つまんないなあ」という軽い語り口の中に、自身のお母さまを亡くされた喪失感を込めておられるのが、心をうちます。
かつて、私の母は、「嫁」という言葉を厳しく拒絶していました。「娘」がふえてうれしいわ、といつも言っておりました。「お嫁さん」という言葉は使うことはありましたが、「嫁」という言葉を聞いたことはありません。
我が家では、せいぜい誕生日くらいですね、何かメールやら言葉が飛び交うのは。
母の日も父の日も、バレンタインもホワイトも、およそ、関係なく暮らしております。
気楽でよい、と満足しています。
2009.6.1付 朝日歌壇より
わかってることとわかってないこととわかりたくないことがあります:(札幌市)多田礼子
まったく、そのとおりです。
それらの違いを認識してほしいのですが、往々にして「力の強い」立場の人たちは、無意識のままに、踏みつけ、またぎこして行ってしまいます。鈍感です。
なるべく、敏感でありたいとは願っていますが、さて、私はどうなのか、ゆれます。
ところで、「やれることとやっていいこととはちがいます」という気もします、強く。
生殖医療と称するもの、患者の希望さえあれば「なにをやってもいい」のか?
再生医療、移植医療・・・、やれるようになったということと、やっていいということ、は絶対に、決定的に違う、と私は考えています。
現在の流れは、いきもの、としての道を踏み外しているように思います。
2009.6.1付 朝日歌壇より
旧かなの名歌ワードで貯めるとき文語のあたり五月蠅き波線:(東京都)吉竹純
永田和宏 評:ワードは親切に文章の校正をしてくれるが、文語は許容せず波線の注意が出るのが煩わしい。着眼点の魅力。
佐佐木幸綱 評:旧仮名遣いを許容しないワードというソフトを皮肉る。
確かにね、ワード、エクセルの「おせっかい」というのは、引っかかり始めると鬱陶しいですね。オプションで校正を停止できませんでしたかね。ワード2007の場合だと、オフィス・ボタンからワードのオプションと行って、設定できますが。
私は、崩彦俳歌倉用に、歌・俳句関係を入力した文書を作っていますが、MIFESというテキスト・エディタを使っています。保存されているのは「文字」だけです。一切の文字属性など不要ということです。
MS-DOSの時代から、新聞記事見出しデータベースなど作ってきました。20年くらいになります。
ワードなどでも、文書内キーワード検索はできますが、テキストで文書を持っていることのメリットは、グローバルな複数文書の検索ができるということなのです。
一つのフォルダ内に、テキスト文書を入れておいて、グローバル検索(GREP)をかけると、一々個々の文書を開かなくても、文書内のキーワードを含む行をピックアップしてくれます。その上でタグジャンプという機能で、その文書のその行へ飛んで行くことができます。
これ便利。文書がたまるほど、便利さが際立ってきます。
ソフトのバージョンがどうのこうのという心配もなし。
多量の文書を保存活用したいときは、テキストエディタをご利用ください。
2009.6.1付 朝日歌壇より
それ以上もそれ以下もなしアマゾンの森に生れて森に死ぬ人:(川崎市)新井美千代
永田和宏 評:人間の生の最も原初的なあり方への共感。上句の端的な認識が魅力。
良く考えるとこれって、「生の最も原初的なあり方」なんでしょうか?
ごく当たり前のことのように思われます。
世界中が「情報」に振り回されて、情報のやりとりが経済活動のような錯覚にどっぷり浸りこんでいたツケが現在なんでしょ?
別にアマゾンじゃなくったっていいんです。今現在の東京でだって、私は私、それ以上でもそれ以下でもありません。まことに原初的な生き方をしております。
私、昔から、「私の言葉は100%。それ以上でもそれ以下でもない。割引も割増もせずに受け取ってくれ」と言い続けてきました。
自分の言葉に責任を持つということはそういうことです。そして、言葉に責任を持つということは生き方で裏打ちされていなければなりません。
私の生き方は、これが100%、それ以上でもそれ以下でもありません。
5月23日、朝、妻がエニシダのところにシャクトリムシがいる、と教えてくれました。
見に行ってなるほど、なんというシャクガなのかな、と思いましたが、写真は後でいいや、と思いその場を離れました。
10時過ぎ、カメラを持って行ってみると・・・
わっ
です。
シャクトリムシがササグモにつかまっつぃまいました。
急いで妻を呼ぶと、シャクトリムシの方を先に見つけたものですから、シャクトリムシの方に感情移入していて、ちょっぴりムッとしています。
私はと言えば、シャクトリムシのゆったりした動きをササグモがどういう風に見つけて餌と認識して捕まえたのかが気になりましたが、それは分かりません。
大きな獲物ですねぇ。食べきれるんでしょうか?
12時過ぎにまた見に行きました。
シャクトリムシの体の半分くらいがしぼんでいます。
見ていると
「手」で、器用にシャクトリムシの長い体を手繰り寄せ、まんなか近くに持ち替えました。
私たちが例えば、垂らしたロープを両手で手繰り寄せる、といったあの動作とほとんど同じでした。
ですから「手」でとしか言いようがありません。
1時半頃。
いろいろと、持ち変えては、中身のあるところを探して吸収しているようです。
そういう食べ方をするんですねぇ。小さな餌でなくて、こんな長いものをつかまえてしまっても、ちゃんと対応できるんですね。すごいものです。
4時20分。
見に行ったら、シャクトリムシの体はもうどこかに落としたらしく、ササグモだけがいました。
主観的なものかもしれませんが、いかにも満腹、という風情ですね。
メスかな。この際、ちゃんと、立派な卵を産んでほしいものです。
なんだか、緊張の一日でした。いろいろな光景が目の前に展開されていきます。
すごいものを見せてもらっています。楽しいという言葉は少し違うのかな、でも自分の生活や認識が深まっていくという日々ではあります。
孵化の翌日(5/30)です。
コダカラソウの葉の上です。
体は黒っぽくなり、脚のまだら模様もくっきり。
輪郭がしっかりしましたよね、生まれたばかりのときより。
両眼のあいだの頭の盛り上がりももうありませんね。
この腹をきゅっと上へ曲げた姿勢がハラビロカマキリ特有の姿勢なのです。
これをみれば、あっハラビロだ、と分かります。
しっかり「カマキリづら」をしています。精悍でかっこいい、強そう、でも、まだ小さい、圧倒的に小さい、危険だらけです。
5/31。
カマキリらしい姿。
でもやはり、こういうことも起こります。
クモはササグモ。
今の大きさ関係では、ササグモの方が圧倒的に強いのです。
悲しいけれど、これが自然のありのままの姿です。
どちらも頑張って生きてね、としかいいようがありません。
孵化の一連の写真を撮っている途中で、少し変化のない時間帯に、すでに上の方に上がっていた幼虫に、「おいで」と指を出してみました。
カマキリは上へ上へ、と行きたがる性質を持っていますので、それをうまく利用しコントロールしてやると、ほとんどストレスをあたえることなく対面できるのです。
見てください、このかわいさ。
こんばんは、おじちゃん、ごようですか?という感じで、目の前へやってきました。もう可愛さにお手上げですね。
孵化(1)の冒頭の写真をもう一度。
一人前です。口器といい、ァマといい、脚に浮きあがり始めた模様といい、もう一人前なんですけど、まだ、体全体は赤ちゃんです。
この、頭が盛り上がった状態というのは、このときまでで、体が乾燥し、色が黒くなるともうこういう顔つきではなくなります。
手の上を歩きまわって、もうそろそろ、降りたくなってきた気配。
名残は尽きないんですが、旅立ちです。
他の兄弟と少しだけ離れた葉っぱにおろしてやりました。共食いの危険を避けたいのと、先に孵化したオオカマキリの幼虫となるべき遭遇させたくないのと、クモの居場所から遠いと感じた場所へ、ということです。
このあとどうなったのか、それはヒトに分かる範囲のことではありません。
100分の1くらいしか生き残るチャンスはないのでしょう。でも、頑張ってね。また会おうね。
18:21
妙に糸を引いているように見えるのは触覚です。
とても、カマキリとは思えないような姿ですね。
真ん中より少し上、右側、の黒いものは、おそらく、前幼虫時代の頭のてっぺんのところのキャップではないでしょうか。
触覚が糸のようです。
脚がずいぶん抜けてきたので、なんとなく「虫としての形」が分かるようになってきました。
18:30
触覚がまだ前に長く糸のようです。
腹部の先端で前幼虫の膜にぶら下がっているだけです。
完全に脱ぎきって、上へ昇ろうとし始めました。
これが18:40
体が乾くのを待っていたのでしょう。
先ほどまで一番下でぶら下がっていたのが、体を起こすと、すたすたと糸を伝って上へのぼりました。
18:41です。
この一匹を一応全部見終えたところで、観察終了。(きりがないので)
ふ~っと息をつきました。
緊張がほどけました。
よかったね~。
まずは、まぁ、よろしければ、サムネイルをクリックして拡大してみてください。
かわいいでしょ~。つぶらな瞳、あどけない表情。もう、たまりませんね。
両眼の間の、頭のてっぺんが盛り上がっているなんて知らなかったなぁ。
ハラビロカマキリの赤ちゃんです。孵化したばっかりです。
5月29日。6時20分ころ。妻が「ハラビロの卵が蹴っているわよ」と呼びます。カメラを持って駆け付けます。
卵塊の形はそれぞれのカマキリで違うんですが、生まれ方はほぼ同じです。
卵を溶かす消化液のようなものを出すんでしょうか、卵から幼虫が抜け出してきて、糸のようなものでぶら下がります。
写真の一番下にちょっとイモムシ的なものが写っています、これが「前幼虫」といい、まだ膜に包まれていて、脚や触角が抜け出していません。
体をもぞもぞと動かして脱出してくるわけです。
先に出てきて、膜を脱いだのが上へ上へとのぼって行きます。
脱ぎ捨てられた膜が糸でつながっています。そこを上へあがっていく幼虫です。
半透明な体、カマのところを見てください、淵が薄い板状で透けてますね。
これから、前幼虫からこの状態までをたどってみることにしましょう。
よっこらせ、っと。
16:24
体が全部出ました。
元気、げんき
16:26
卵から完全に抜け、少し離れていきます。
あれ?自分の出てきた卵の殻を食べるんじゃなかったっけ?
16:27
反転して戻ってきました。
何か、「におい」のようなものがあって、こっち、こっちと教えてくれるんでしょうか?
17:04
食べてますねぇ。
おいしいんでしょうね。
見知らぬ外界の食べ物を食べ始める前の、最初の食べものは、お母さんが作ってくれた卵殻。
ヒトのお母さんの「初乳」には、たんぱく質、塩類、そして、病気への抗体なども含まれますが、アゲハのお母さんが幼虫の最初の食事として残しておいてくれた卵殻の成分って、どんなものなのでしょうね?
幼虫を誘引する「におい」、おいしいよよいう「味」ですか、何せこのあとはミカンの葉という全然違うものを食べなければならないんですから、強く幼虫に「食べたい」という気を起こさせる何かがあるのでしょう。
ほぼ食べ終わりましたかね。
この後どうするのかな、としばらくしてから見てみたら
17:40
別の葉に移動していました。
かなりの距離を移動しました。
生まれた場所を離れることが生存への有利さを高めるのでしょうか。
昼から夕方まで、時々、見ては邪魔しないように写真を撮り、一応、これで孵化の過程はひと段落しました。
ホッとしました、嬉しいです。
アゲハの卵です。妻が見つけてきました。5月25日でした。
(アゲハかクロアゲハか、その辺は分かりません。)
直径1mm程度の小さな球形です。
よく見ていただくと、葉と何か粘着性のものでくっつけられていますね。
産卵時に、卵だけを押し出すのではなく、粘液に包んで葉に押し付け、落ちないように安定させるのでしょう。
アゲハの腹部先端には一種の「眼」があって、明暗を感じ分けることができます。(光受容器といいます)。
オスの場合は、交尾器が完全にかみ合うと光が漏れてこなくなり真っ暗になったことを感じて交尾が始まります。
メスの産卵行動では、前脚で葉を叩いてその味を確かめます。(食草であることを確認。)
その上で、産卵管が十分に突き出されていることを光受容器からの信号で確認し、さらに、機械感覚毛が葉に接触すると、葉に触れたことが確認できて、産卵をします。
その結果が、上の写真。
すぐに孵化しなかったので、これは孵化できないのかな、と思って眺めていましたら・・・
5月28日。
色が変わっています。11時半ころでした。
12時20分過ぎ。
白っぽさがなくなっています。
これは孵化の準備が進んでいるのかもしれない、と思いました。
卵殻に穴が開いています!
中から殻を溶かす消化液のようなもので溶かしたのでしょうか?
やったね!
出てくるぞっ!
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