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2009年4月15日 (水)

説教:追記

 昨日、4月14日付で「説教」と題する崩彦俳歌倉の記事を書きました。
日本の仏教というものが、本来の釈迦の仏教から激しく変質してしまっている、という批判をもっている私としては、日本の仏教者に対してとても失礼な発言をしてしまいがちです。
 その14日の朝日新聞の夕刊にこんな記事が載りましたので、私の無知を恥じるとともに、読者の方にも知っていただきたいと、まるごと引用します。

[窓] 生きている人の寺 (2009/04/14  朝日新聞)
 宮城県の南部。阿武隈川沿いに、古い農家を改造した曹洞宗の寺、不忘山行持院(ふもうさんぎょうじいん)がある。檀家も墓もない。葬式も法事もやらない。「死んだらよその寺に行ってください。生きているうちに来てください」という志で、僧侶の真壁太隆(まかべたいりゅう)さん(59)が6年前に開いた。
 当初は職や住まいに困った外国人の面倒をみようと思った。それが今年初めから、派遣切りなどで仕事と家を失った人たちの「駆け込み寺」になっている。布団と三食を無償で提供し、月5千円の生活費も出す。寺だからといって座禅させたり、説教したりすることはない。
 路上や車中で生活する人たちは、住所がないために生活保護が受けられない。寺が住所になれば、手続きが進む。これまでに来た40人のうち、12人が生活保護を受け、出ていった。いまいる17人の多くも手続き中。いわば生活保護へのベースキャンプになっている。
 真壁さんは美容室の経営など事業をする傍ら得度して、在家の僧侶になった。寺の維持費は、寄付のほか、事業から得る自分の収入を充てている。
 寺を「死んだ人」相手のサービス業のように見る向きもある。ただ、仏教は本来、生きている人々の「苦」に寄り添い、救済することをめざす宗教だ
 「修行のひとつ。当たり前のことをしているだけ」という真壁さんの言葉が、妙に新鮮に響いた。

 亡くなった方には「時間だけはたっぷり」あります。ですから、もちろん、亡くなった方への礼儀は尽くすべきですが、それがゆっくり、遅れても、叱られこそすれ、受け入れて頂けるでしょう。
 大事なのは、今、この世の現在を生きておられる方なのです。「いきほとけさま」こそ大事。
 寺は相続されるような「財産」ではありません。「もの」への執着こそ苦の根源だ、と仏教は説いているのに、僧侶が「寺」や「仏像」という「もの」に執着していてはお話になりません。
 寺は、修行の場です。日々、僧侶が修行している、だからこそ、在家の私たちも、信頼を寄せるのです。
 真鍋さんの修行の場が「生きている人の寺」になっている。これは、釈迦の仏教に忠実な実践、修行でしょう。

 このような活動をなさっていらっしゃる方を知らずにおりました。

どうか、生きとし生けるものすべての苦が消えさり、すべての人々のこころが、たいらに和ぎわたるときがきますように。

 合掌

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