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2009年3月19日 (木)

命の共存

2009.3.16付 朝日歌壇より
コアラさえ人の手借りて水を飲む命はきっと共存できる:(川崎市)大竹明日香

オーストラリアの山火事で救出されたコアラが水を飲む写真や歌は3月11日付の崩彦俳歌倉でご紹介しました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-4054.html
人の手に手を添えたまま水を飲む猛火を必死に耐えたコアラは:(城陽市)山仲勉

「命の共存」という願いから一番遠いところに位置しているのが「ヒト」という動物なのではないか?と、すぐへそ曲がりの私は思ってしまいます。

囀りの裏に阿修羅の見え隠れ:(塩尻市)古厩林生
 大串章 評:明るく楽しげな囀りの奥に阿修羅の貌を見た。思わずハッとさせられる句。

大串氏のいう「阿修羅の貌」は、興福寺の阿修羅像の貌ではないのではないでしょうか?

あしゅら【阿修羅】〔仏〕(梵語Asura) 古代インドの神の一族。後にはインドラ神(帝釈天)など天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。仏教では天竜八部衆の一として仏法の守護神とされる一方、六道の一として人間以下の存在とされる。絶えず闘争を好み、地下や海底にすむという。アスラ。修羅。非天。無酒神。[広辞苑第五版]
あしゅら‐どう【阿修羅道】六道の一。阿修羅のすむ、争いの絶えない世界。天・人と地獄・餓鬼・畜生との間にある。修羅道。[広辞苑第五版]

戦いの神としての阿修羅の顔を見る、ということでしょうね。
鳥たちの囀りはにぎやかで楽しいものだけれど、その鳥たちは虫や小型動物を食べたり、大型の鳥が小型の鳥を襲ったり、結局「阿修羅道」に生きている、ということなんでしょうね。

私は興福寺の阿修羅像をもう40年も眺め続けているものですが、あの像に込められた思いは、決して、阿修羅道のすさみではありません。
むしろ、冒頭に掲げた「命の共存」への願いの顔だと思っています。
戦いの神であるからこそ、戦いの実相を知りつくしている。そのうえで、なお、私たちが生きざるを得ない、この戦いの世界の「向こうへ投げかける」眼差しを放っているのが、興福寺の阿修羅像ではないか、と私は思っているのです。

あの像の顔に、戦いがありますか?あるのは悲しみです。

あの、時空を超えた遠くへ、投げかけられたまなざしに、たえられますか?こたえられますか?

たまたま、東京では3月末から、国立博物館で「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」が開かれます。今の私の体力では上野までいくのは無理かもしれません。若い頃は奈良へ行くチャンスがあれば必ず興福寺宝物館へ寄って、阿修羅像の前に立ち尽くしたものです。

多くの方々が、あの像の前で、あの悲しみの視線を受けとめて「立ち尽く」してほしい、と願っています。

コアラさえ人の手借りて水を飲む命はきっと共存できる:(川崎市)大竹明日香

きっと共存できますよね、だって、そうでなければ、かなしすぎるもん。

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