了へる
2009.3.16付 朝日歌壇より 永田和宏選
最終の授業を了へてゆつくりとやや湾曲の黒板を消す:(船橋市)岩瀬孝雄
先生の渾名は「地蔵」校門に卒業生と握手して泣く:(いわき市)馬目空
これも「今週は以下二首ずつをセットで味わってほしい」というちの1セットです。
この2首に、まったく異存はありません。
ただ、私自身は、この流儀ではないな、というだけです。
教諭としての最後の授業、というのは記憶がないんですね。ただいつもどおりに、というだけだったと思います。その年度の終業式も出席しませんでしたから、離任のあいさつもしませんでした。
いるときはいる、いないときはいない、ただそれだけ、という流儀でして。
嘱託をその後、5年やって、その最後の授業では、女子生徒が「最後」とか「お別れ」みたいな「気分」を自ら発して自ら「ハイ」になりかかってましたが、強引に平静に抑え込んで消えました。女子学生の「ハイ」な状態というのは苦手です。
消えるときに生徒にも同僚にも、あいさつもしない、という「不義理」を貫いて社会人生活を終えたのでした。
高校生の成長に立ち会うという、とても人間的なことが好きで教師をしてましたが、人間関係が嫌いだ、可能な限り人間関係は希薄にしておきたい、という少々矛盾した教師でしたね。人間は好きだが人間関係は嫌いだ、というのも、まぁ、一つの生き方と了解してください。
「熱血」というものには、うさんくささを感じます。人の心を揺さぶるようなものにはうさんくささを感じます。卒業式もそうです。
何かが自分の心を揺さぶろうとしたら、疑いましょう。
あえて身をひきはがして遠くから眺めてみましょう。
民主主義を維持し、ファシズムを導きこまないためには絶対必要な生き方・生きる姿勢だと思っています。
こころよいものを疑え。
◆今年の2月8日付の朝日新聞なんですが、求人欄だったかな、の中に、ミニコラムがありました。
[タイツくん]やりなおしの仕事論‐29別れのキタナイ人。(2009/02/08)
会社を辞めるときに、挨拶もせずプイといなくなる。ひどい人は、辞めるとも言わずにこなくなる。辞める会社、縁のない人に儀礼は必要ないと考えるなら、いつか電車の中で鼻くそをほじる人になってしまう。プライドを持って生きよう。挨拶して別れれば、それだけでいい。
ナルホド。私はこのコラムによれば「別れのキタナイ人」らしいですね。私に言わせれば、「別れ」ということにこだわって、ベタベタとあいさつまわりやら、送別行事やら、お涙ちょうだいやら・・・よほどその方が「別れのキタナイ人」だと思います。
電車の中で鼻くそほじってたっていいじゃないですか。別れだって言って泣くより。きれいさっぱり、消滅。それでいいじゃないですか。
ベタ付くの大っきらい!!湿っぽい人間関係大っきらい。
カラカラに乾燥しませんか?さっぱりして気持ちいいですよぉ。
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「人間は好きだが人間関係は嫌いだ」というのはとても良く分かります。私も同じなんです(^^
人を信じる性質なので裏切られることが信じられませんでした。そしてイジメです。いろんなことがありましたねぇ・・。卒業式は泣いたことがありません。自分がおかしいのかと思っていましたが先生のお話を読んでホッとしました。
感傷に浸るよりも次のこと(入学、就職)が心配でそれどころではなかったのが本音です(笑)。
人間関係って面倒ですよね。でも人間は嫌いじゃないです。カラカラまでにはなれませんが「一人も楽し」ですね(^^
投稿: 桔梗 | 2009年3月23日 (月) 23時32分
人間関係をつくること自体は下手でもないし、積極的なんですよ。その時、その時、自分が今いる場、での人間関係については。
ただ、「場」は変わるわけで、そのときに引きずっていくのが嫌なんですね。重たくって、勘弁してよ、となってしまいます。
思えば、団塊ど真ん中、小学校だって一学年が300人を優に超す人数。学年が変わってクラス替えがおきるたびに、「新鮮な」人間関係作りにいそしんで、それって楽しかったです。
卒業やなんかでステージが変わるたびに、今までのものを脱ぎ捨てて、新しい関係作りを楽しむ。
ひきずらないたちなんですね。
かつて、同じ教室にいたからって、それで、何年たっても「ともだち」だなんて、まるっきりの幻想ですよね。それが成立するなら、逆にいえば、一生、いじめや、グループから抜け出せなくなりますよ。
情けない「湿っぽさ」。
投稿: かかし | 2009年3月25日 (水) 14時24分