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2009年2月 4日 (水)

ただただ生きむ

2009.2.2付 朝日歌壇より
注連縄も餅も飾らず正月もただただ生きむ妻逝きてから:(福岡県)手柴俊光
 佐佐木幸綱 評:何事もめんどうくさくなったのか。妻に頼りきりだったのか。「ただただ生きむ」が哀しい。

かつて、大学闘争のころ、私がものした文章にこんな一文があります。
「平面的状況の中で私はうたえる。斜面的状況や階段的状況の中では私はうたはうたえない」

左足が不自由な障害者として、行動の可逆性が確保できる「平面的状況」では、歩く、ということ以外に「うたう」という余分な行動を一緒に行うことができる。しかし、斜面や階段では、そこに立ち、歩くということだけで、全能力を傾注しなければ身の安全も確保はできない、そのような中では「うた」はうたえない。

象徴的に書いたものです。「うた」があれば人生は豊かになるでしょう、「うた」は、ないよりあった方がいい。
でも、全力を傾注しなければならない状況では、なくても済む「うた」を歌っていることはできないのです。

夫婦として、二人の人生を送っている時は「平面的」状況でしたでしょう。世の習いとしての年越し行事は「うた」です。「うた」も二人でうたえたでしょう。でも、奥さまを亡くしてからの人生は「斜面」であり「階段」なのです。生きることそのものに全力を注がなければならない。そんな状況で「うた」などうたってはいられないのです。年越し行事など、もういい、とにかく生きるんだ、ということでしょう。

佐佐木氏の評は私の目には、ちょっと甘いと見えます。

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