苛立ち
2009.2.16付 朝日歌壇より
受験期の苛立ち今や危険域今日四度目の非常ベル鳴る:(天理市)乾喜弘
永田和宏 評:学校の厳しい現実に対する教師の歌か。
あれ?永田さん、お忘れでしたか?乾さんが教師でいらっしゃることを。
2008/12/14
オマエーと呼ばれて肩を小突かれてそれでも授業抜ける子ら追う:(天理市)乾喜宏
永田和宏 評:教育の崩壊などとたやすくは言えない現場の教師の必死さ。
こういう評をお書きになったでしょ。「・・・教師の歌か。」ではなく、「・・・教師の歌。」ですよね。
今の子らは、ストレスに弱い。王子様お姫様が多いからなぁ。
尾崎以来でしょうか、この3学期に「反抗」的になることが、あたかもカッコいいことのようになってしまった。尾崎には、長生きしてほしかった。そうして、大人の、年齢を重ねた、本物の「反抗」とは何かを歌い続けて欲しかった。「大人の反抗」がないもんなぁ、日本には。
「卒業」の季節ですが、私には尾崎の歌は「甘え」としか聞こえません。
同時期に、斉藤由貴が歌った「卒業」の方が、ものすごく厳しい、深刻な歌だと思いました。
覚えているところだけ書きますと(間違ってたらごめんなさい)
机にイニシャル彫るあなた やめて思い出を刻むのは 心だけにしてとつぶやいた
守れそうにない約束はしない方がいい
ああ 卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう
小学校の卒業式って、全く一切記憶がありません。
中高一貫だったので、中学の卒業式はナシ。
高校の卒業式はあったのですが、あいまいな記憶のみ。
大学は、大学闘争を経た後ですので、バカバカしくって、卒業式なんて出席しませんでした。後で、教務で証書だけ受け取りました。
教師になっても卒業式は一応しましたけどね、担任したときは。ネクタイもせず出席してました。
「かつて生徒と教師だった」ということに発する人間関係なんてろくなもんじゃない、と同窓会的なるものの一切を拒否してきましたし。
受験ストレスで苛立つなどというのは、幼いことです。
そして、今、みんな幼くなっちゃった。
哀しい。
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コメント
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ああ、同じです。
尾崎豊のあの歌。あのあと、どれだけ教師が苦労したことか。
渡り廊下にある技術室の前のガラスが、何回も割られて、しまいに予算がなくなってベニヤを入れました。
真っ暗な廊下。
若さゆえの「甘え」とはいえ、犯罪です。
もっと、不満を、情熱をぶつけるべきは他になかったのでしょうか。
ただただ、歌に便乗しただけの「反抗」は、幼稚でした。
投稿: みみこ | 2009年2月20日 (金) 01時45分
学校を「叩く」って、そんなに楽しいのでしょうか?
誰でもが教育を受けたから、誰でもが勝手に、自分の受けた教育を、教育のすべてのように批判することができる。
実は教育には「専門家」というものはないのです。毎年変わる生徒に、毎年新しい授業を組み立てる、常に変化しかないはずです。
自分がかつて習ったことを、毎年、同じように繰り返していさえすればできる、簡単な職業だ、と、どうも世間では思われているようですね。哀しいなぁ。
かつて教師でしたから、せめて、今教師として現場で子の成長に立ち会っている方々の邪魔にだけはなりたくない、と念じております。
投稿: かかし | 2009年2月20日 (金) 10時46分
わたしの歌を取り上げてくださり、ありがとうございます。尾崎豊のことが少し話題に上っているようですので、わたしも一言と思ったような次第。初めて「卒業」を聞いたのはもう30代半ばをまわっていたかと思いますが、大きなショックを受けました。人生の中で強烈なインパクトを受ける歌というものがだれしもあると思いますが、わたしにとって「卒業」は紛れもなくその種の歌でありました。もちろん私にも「夜の校舎窓ガラス壊してまわった…」のくだりは反社会的・非道徳的なフレーズとして気にはなりましたが、この歌全体を貫いている思春期のうめき・あがきのようなものに心揺さぶられ、年甲斐もなく今50代半ばを過ぎてなお私の風呂の中での愛唱歌でもあります。一体に詩歌というもの、前衛的・尖鋭的なものでありましょう。尾崎は現代の若者の精神風土を一般的な常識的順法ラインを踏み越しながらもそのように歌わざるを得なかったとわたしは共感を寄せるのです。多くの若者から「十代の教祖」として今なお敬慕される存在であるということは表面的な退廃性に惹かれてのことではなく、その心の叫びに多くの若者達が共感するからであろうと思っています。
投稿: 乾 喜宏 | 2009年2月20日 (金) 21時13分
私は、意志の持続性、一貫性というものにこだわるたちです。自分自身、中学校頃から、自分の障害について考え、高校では、哲学やら宗教やら手当たり次第にかじりつき、大学で大学闘争でノンセクト・ラジカルという位置でしたが、かなり反社会的な行動の中にあって、自己を形成しました。以来、いつも「私は一貫している」ということにこだわったままです。大学闘争の続きをやっている、という意識もあります。
そんな私にとって、詩人や歌手などのかつて尖鋭に先端を走った人たちの、「年齢」「成熟」というものは、とても気になります。かつての栄光にすがって、「今」にかろうじてすがりついている人もいれば、かつてと一貫しながら、今なお「生きている」「ONである」人たちもいます。
私は、尾崎豊に、何としても長生きしてほしかった。そうして、彼の歌が、どう変化し、変化せず、熟成し、熟成せず・・・を見たかった、聞きたかった。
十代の人たちが大人から抑圧を受けている、と感じるのはある意味、当然です。では、大人になったら抑圧はなくなるのか?まるっきり違いますね。学校で感じる抑圧とは比べ物にならないほどの強力な抑圧を人々は食らっている。にも関わらず、おとなしくなってしまう。なぜなんだ?なぜ、社会を、国を変えようとしない?
大人のロックがあるべきだ、大人のロックを歌う歌手はなぜ出ない?妙な倫理や説教を轟音に乗せて歌う人はいますが、つまらない。人生応援歌ばっかり。何とつまらないことか。
40代も半ばにいるはずの、尾崎はどういう歌を歌ったいたろうか? 知りたかったです。
投稿: かかし | 2009年2月23日 (月) 13時03分