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ホトケノザの葉は、先端が丸いようです。
葉の先端のとがりぐあいからいって、これはヒメオドリコソウでした。
学名はLamium purpureum L. です。
↓「季節の花300」というサイトです。
http://www.hana300.com/himeod.html
ここによりますと、
Lamium(ラミウム)は、ギリシャ語の「laipos(のど)」が語源で、葉の筒が長くてのど状に見えることに由来する、との説がある。
だそうです。
ホトケノザも学名は Lamium amplexicaule L. です。
----------↓元の記事↓----------
これ、ホトケノザですよね。
有名だし、見たことあるんだけど、こうだったっけ?と意外と自信を失ってしまった。
春の七草の「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ これぞななくさ」というあれにでてくる「ホトケノザ」はキク科のコオニタビラコですよね。
これは、シソ科のホトケノザだと思います。
口を開いたような形が特徴的です。
ね。
「雑草のはなし」という本によると、「茎の節ごとに向かい合わせに対になって葉がつき、多くの場合、一本の茎に三対の葉がある。この姿が三階建ての建物に見立てられ、三階草(サンガイグサ)ともいわれる」のだそうです。
ホトケノザとハキダメギクの花が、何やらおしゃべりをしている様子でした。
何を話しているのやら。
----------↓追加写真↓----------
コレなんですか?
ホトケノザ?カキドオシ?
よく分かりません、教えてください。
木の札がかかっているので分かりました。なければ全然分かりません。
氏子の方が寄進したようです。
いわゆる「榊」ですね。
さかき【榊・賢木】①(境サカ木の意か) 常緑樹ジヨウリヨクジユの総称。特に神事に用いる木をいう。万葉集3「奥山の―の枝に白香シラカつけ木綿ユウとりつけて」
②ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。5~6月頃、葉のつけ根に白色の細花をつけ、紫黒色の球形の液果を結ぶ。古来神木として枝葉は神に供し、材は細工物・建築などに用いる。
「榊の花」は<季語:夏> [広辞苑第五版]
ツバキ科とは知りませんでした。
むか~し、むかし、神前結婚を挙げた時に、お世話になったっきり、縁遠い木でした。
こういう葉っぱです。
ヒサカキかハマヒサカキかよく分からないのですが、近所のマンションの植え込みに咲いていたのを記事にしたことがあります。ご覧ください。本榊の花もこんななんでしょうね。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-630e.html
未来を包みこむ蕾よし、咲きかけの恥じらいよし、満開に誇るもよし、散る姿もよし、実の熟すもよし、(虫好きとしては)ウメエダシャクの歩くもよし。
それぞれに、よし、と味わいたいなぁ。と、こういうことをほざくと、時を知らぬやつ、本物の味わいを知らぬやつ、と言われちゃうんですがね。
大田区の白山神社の白梅が花の終わりの時期を迎えました。
白い花弁は落ちて、赤い萼が残っています。
花を愛でる人には、このような姿は「無残」と映るかもしれません。
でも、これって、次の成熟への道筋です。
花を咲かせ、授粉し、次は種の成熟です。この萼の中の子房に、命の始まりがあります。
無残でもなんでもありません。若いお母さんの姿にたとえるべきものです。命を育む姿です。
高校で生物を習った方は思い出してください。減数分裂。生殖細胞を作る仕組みです。わずかの違いはありますが、植物も動物もほとんど同じシステムを使って、生殖細胞を作ります。
何億年の昔かは分かりませんが、植物と動物が進化上分岐する前に、この減数分裂システムを作ったのですよ。分岐してからも、同じシステムを使って、子孫を増やし、種を多様にしてきた。
植物と動物って、同じなんですね、生き方の基本は。
そんな眼で、花を見、花の終わるを見てください。
◆さらに
植物細胞にも動物細胞にも、ミトコンドリアという器官があります。酸素を使ってエネルギーを作る、エネルギー工場のような器官です。
ということは、植物も動物も「酸素依存型」のミトコンドリア仲間なんですね。
植物と動物が分岐する前に、ミトコンドリアを獲得していたのですね。
そんなことも考えてみてください。
2009.2.23付 朝日俳壇より
春の月日輪のごと東に:(東京都)吉田郷
これって、もしかして蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」を踏んでますか?
2月4日、立春の日は、月の出は東京では11時14分、正午の月齢8.8でした。
そういう月をごらんになって、昼の月ではありますが、やわらかな春のおひさま、ととらえたのでしょうね。
◆またもや、大脱線
小学校の記憶というものがほとんどない私ですが、その数少ない記憶の中にこんなのがあります。
小学校1年生。担任の先生が産休に入られまして、代わりに家庭科の先生がお見えになったのですが、何の授業かなぁ、理科かなぁ、「月は西から出る」とおっしゃったのでした。私は多少もう理科っ子でしたから、月が東から出ることは知っていました。「先生」が間違うなどということは1年生には絶対にありえないことですので、悩んだんですねぇ。アンビバレントな状況とでもいいましょうか。母親に相談したところ、(ここから先は後で母親から聞いたことです)、母親が学校へ行って、先生と話をして、訂正してもらった、のでした。
月と日を対立的に捉えて、日が東から出るなら、月は西から、と思っていらしたのでしょうか。
毎日、空を見ていれば自然にわかることなのですが・・・。
ちなみに、団塊真ん中世代の私、1年生の時の教室は、思い出すに、理科室だったようです。普通教室が足りなかったのでしょうね。
2009.2.23付 朝日俳壇より
年の豆わが歳月のてのひらに:(横浜市)本多豊明
長谷川櫂 評:掌に乗る節分の豆。丸々としてつややかな手の豆よ。
「歳月のてのひら」ですから、年月を刻んだ皺の多い手に豆、という情景だと思うのですが。
評の文章の、ことばのかかりぐあいが、あいまいになりました。
「丸々としてつややかな手」なのか「丸々としてつややかな豆」なのか、です。
皺を刻んだ手に乗る、つややかな豆、という対比ではないでしょうか。
丸々としてつややかな手、とも読めてしまいますが、それだと、幼い孫の「丸々としてつややかな手」みたいです。
一瞬、年の数だけ豆を乗せて、という情景も浮かんだのですが、それは多分ないですね。
◆60個もの豆を一挙に口に押し込んだら、のどを詰まらせるか、肺に吸い込んで救急車ものだ、と思うこのごろです。
昔、「まんが日本むかしばなし」というアニメ番組の歌で「年の数だけ手をたたこう♪」というフレーズがあったのですが、30代だったでしょうか、ちょっときつよなぁ、と子らと笑ったものです。
今や「60」ですよ。手を叩くにも、豆を食うにも、きついよなぁ。
2009.2.23付 朝日俳壇より
あな嬉し冬将軍のお立ちかな:(松山市)亀田イチヱ
長谷川櫂 評:冬将軍とはいえ、この世の客であるから、滞在中は我慢しているが、お立ちとなれば正直、うれしい。立春のよろこび。
冬将軍が陣を張る、となれば、厳しさが張り詰めて、体が硬くなりますが、冬将軍がおられなくなると、あたりは緩み、なごやかになります。
カーテンを翻しあゝ春が来た:(福岡市)田上悌三
翻るカーテン、厚く堅いコートから解き放たれた女性のスカートが翻るというイメージを持ちました。明るい色、軽やかな服装。春はやはり女性のイメージですよね。
くすんだ、いかつい冬将軍は去りゆきます。のびのびとしなやかな春の女神を謳歌しましょう。
(ちなみに、ギフチョウのことを春の女神ともいいます。)
2009.2.23付 朝日俳壇より
りつしゆんチユンりつしゆんチユチユンと雀鳴き:(藤岡市)飯塚柚花
金子兜太 評:五七五の音律で遊んだ句。
私の感覚では、俳句に必須なのは季語ではなく、厳密な五七五でもなく、五七五調がもつ、アクセントのような音の高低と、リズムだろうと思っています。これを欠かすと俳句とは言いにくくなります。
というわけで、歌いたくなるような句になりました。
2009.2.23付 朝日俳壇より
弓始三十三間堂唸る:(新潟市)佐藤五生
長谷川櫂 評:新年に行われる京都、三十三間堂の弓始。実は矢がうなるのだが、お堂全体が共鳴りしているというのだ。豪胆の一句。
矢がうなるといって、矢の振動が何も介さずに耳に届くわけではありません。三十三間堂の中の空気が振動して音となって耳に届くのです。ですから、矢の音とは、当然、三十三間堂の音にほかなりません。
矢もうなれば、弓の弦もうなります。的に当たった音も響きます。すべてが三十三間堂の唸りなのです。
2009.2.23付 朝日俳壇より
寒紅や夢中な時のとがる唇:(愛媛県)河野貴和子
金子兜太 評:寒紅の唇の色気。
そんな写真のCDでもあったら、ジャケ買いしますね。
色気という概念があまり鮮明ではない。官能的とかエロティックというほうが合うんじゃないかなぁ。
◆全くもっての別件
「官能試験・官能検査」という言葉があります。
「人間の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)によって品質の特性を図ること及び人間の感覚の精度、感度を測ることを官能試験または官能検査」というのです。食品や臭気やいろいろ登場する言葉です。英語ですと、「sensory test」になります。
有機化学の方で、炭素の骨組みにくっつく、カルボキシル基とかアルデヒド基とか・・・を、官能基といいますが、これは、骨組にくっついて、いろいろな機能(function)を付与するグループのことですので、英語では「functional group」になります。
生徒に「やらしくない、やらしくない」といいながら授業をしたものです。
「やらしい」ほうは、英語なら「sensual」です。
みんな「官能」なんで、ややこしいことですね。
2009.2.23付 朝日俳壇より
共存の猿や蜥蜴や旧正月:(シンガポール)ハルツォーク陽子
私は海外へ出たことは全くありませんので、単に伝聞に過ぎないのですが、シンガポールというとヤモリが有名なように聞いております。それも、日本のヤモリよりはずっと大型のヤモリだとか。
旧正月、猿、蜥蜴に加えて、守宮もご一緒だったでしょうか?
2009.2.23付 朝日俳壇より
春立つ日腹の立つ日と口遊(ずさ)む:(秦野市)熊坂淑
金子兜太 評:「立つ日」の語呂合わせが旨い。これでいかにも腹立たしくなる。
「いかにも腹立たしくなる」のでは困ります。これは「遊(すさ)む=遊び」なんですから、「荒(すさ)む」わけではありますまいに。
うむ、うまい語呂合わせになったぞ、と自分の思いつきにニヤっとしながら、唱えて遊んでおられます。
◆wakawakasii ≒ bakabakasii
若々しいということは、バカバカしいとうことと、ほとんどおなじなんだよなぁ、とじいさんは思う。これは遊(すさ)み、です。腹を立てているわけではありません。
2009.2.23付 朝日俳壇より
着ぶくれと言はれ重装備と答ふ:(吹田市)小井川和子
ものは言いよう。
厳しい冬を乗り切るサバイバル用の重装備です。
重装備は肩が凝る。
私の場合は「ミノムシと答ふ」ということになりますか。
2009.2.23付 朝日俳壇より
万蕾の弾けるごとき梅日和:(荒尾市)鶴田幾美
稲畑汀子 評:たちまち梅の蕾がほころぶ日和。万蕾が弾けるとは妙。
当然のことながら、字面の上からも、読んだ音からしても「万雷」が意識されているのではないでしょうか?
万雷の拍手、というあれです。
梅が一斉に開花していく姿を、万雷の拍手、のイメージでとらえなおしてみてもらえませんか?
なんだか、うれしい、なんだか、ほんとうに拍手したくなるような光景じゃありませんか?
2009.2.23付 朝日俳壇より
引返すこと考へてゐる雪野:(塩尻市)古厩林生
稲畑汀子 評:雪の積もった野をよぎるために一歩踏み込んだ作者。雪が覆って足元が不安であることが想像される。引き返すことを考えながら進む怖さが描けた。
前にも書いたと思いますが、私は雪の中を歩くことは全くできません。「またぐ」ことができないからです。「すべる」ことに一切抵抗できないからです。
雪野を前にしたら、ただただ呆然と立ち尽くすのみです。
作者は、歩き始めました。でも、ラッセルしながら進むほどの雪なのではないでしょうか、一足一足、足を引き抜き、雪を押し分ける。だめかもしれない、という気持ちがよぎります。自分の足跡がくっきり残っているうちに引き返さないと、立ち往生してしまうかもしれないという不安。
引き返してください。
2009.2.23付 朝日俳壇より
日向ぼこ地球運転する心地:(いわき市)馬目空
大きく出ましたね。地球を運転なさっています。舟を漕ぐどころじゃないですね。
ところで、新幹線は時速200kmくらいですが、地球を運転するとなるとものすごいことになりますよ。赤道上での話にしますが、地球の自転速度は約1600km/hです。すごいでしょ。
地球が太陽の周りを回る公転速度なんかもっとすごくて、30km/sです。時速にしたら10万kmです。
どうか、居眠り運転をなさらないでください。アハハ。
◆ルーリン彗星を撮影した写真を新聞などで見かけます。
10分露光、とか4分露光とか書いてありました。地球は24時間で360度自転するのですから、1分では0.25度回ります。
10分も露光すると、その間に2.5度も回ります。ですからカメラを三脚に固定したままだと彗星の像が線になってしまいます。そこで赤道儀というものを使って、地球の回転を相殺するようにカメラを回してやるのです。こうすると、星が「点」に写せます。
自分の手元で、肉体的に地球の自転を実感できるのがこの赤道儀を使った天体撮影。
地球が自転していることを証明せよ。と正面切っていわれたらどうします?
2009.2.23付 朝日俳壇より
新幹線蜷には蜷の道のあり:(大牟田市)石橋武子
大串章 評:時速何百キロという新幹線と、蜷の取り合わせが一句の眼目。
取り合わせが「一句の眼目」というのはもちろんわかるんですが、どういう情景なのかが見えにくくって。ギャップが大きすぎて。
田んぼのあたりで、カワニナがいて、はるか向こうに新幹線が高架の上を走る、そんな感じでしょうか?
蜷の歩調に心を添わせているのだろうと思います。
2009.2.23付 朝日歌壇より
静かなる冬の朝なり車椅子に黄の旗立てて媼道ゆく:(高松市)菰渕昭
馬場あき子 評:黄の旗がユニーク。
「ユニーク」といって済まされない深刻さを感じています。
ハンドル型の電動車椅子を買って行動範囲を広げようかな、と私は今思っているのですが、そのつもりで道路を眺めると、本当に怖い。
車いすは歩道を行くべきなんですが、狭くて、向こうから自転車やベビーカーなんかが来たらすれ違うのが難しい道ばかり。
すれ違いがなくても、いままで幅があった歩道が、突然行き止まりになっていて、ポールが立っていて、人はそのポールの間をすり抜けて歩いていくけれど、車いすは引き返さなければならない。なのに向きを帰るだけのスペースもない、などという道もざらにあります。うっかり走れませんね。
黄色い旗を立てて、目立ちやすいようにして走る。必死・懸命の安全策でしょう。
ユニークじゃすまないよなあ。「『黄の旗』が必要な日本の劣悪な交通状況」くらいいってほしかったなぁ。
2009.2.23付 朝日歌壇より
お互いに大事な人と言いながら今日も飽きずにケンカをしている:(広島市)富松義典
馬場あき子 評:上句の日常的な表現に対して、ずばりと付けた下句がユーモラス。
上句と下句の「ずれ」がユーモラスなんですよね。どっちも、日常的な「真実」。だからこそ、ユーモラス=ひどく人間的。
たてまえとほんね、では面白くもないですね。どっちもほんね、だからおかしい。共感を呼ぶのでしょう。
2009.2.23付 朝日歌壇より
形而上学的愛を語られて我は小さくストローを噛む:(京都市)敷田八千代
馬場あき子 評:「形而上学的」は堅いが、結句と照応する面白さがある。
「堅く」形而上学的愛を語られてしまったからこそ、作者はストローを噛まざるをえなかったのでしょ。柔らかく、優しく愛を語られていたらストローを噛む必要はなかったのでしょ。
堅いからこそ、この歌に意味があると思いますが。
気持ちのすれ違い、齟齬、を表現するには表現自体にすれ違いがあった方がいい。
2009.2.23付 朝日歌壇より
わが素描ヴィーナスの肩パンで消し老師は無言雪のアトリエ:(川崎市)藤田恭
{永田和宏 馬場あき子 選}
馬場あき子 評:デッサンの出来を見つめて無言でその肩の線を消す師と、消された意味をすぐ受け止めた作者の呼吸が無言の中にぴったり合っているのが余韻。
どうもいちゃもんつけているようですみません。「消された意味をすぐ受け止めた作者」というのは、歌のどの部分から読み取れるのでしょう?
先生は消したまま何もおっしゃらずに背を向けてしまわれた、どのようになおしたらよいのか、自分で気づくまで教えはしないよ、という教えに、とまどう。って読んじゃいけないんですか?
2009.2.23付 朝日歌壇より
綿雪の降り静かにて思ふなり何ごともなきさいはひといふもの:(仙台市)坂本捷子
私という、かなり偏った人間の語感ですから、信用しないでくださいね。
私の語感では、「さいはい」というのは「先祝い」のような感じなのです。ですから、たとえば、人生行路のこれから先に「よきこと」がありますように、というような、時間的にこれから「さき」という感覚を持っています。
それに対して「しあわせ」は「仕合せ」であり、「今合う」ことのように感じられるのです。今現在、「よきこと」にであっていること、この、なりゆき、めぐりあわせが「しあわせ」であるという語感です。
私の語感では上の歌の結びは、「しあはせといふもの」のほうが、ぴったりくるんですね。
「今」、だという気がします。
2009.2.23付 朝日歌壇より
ふかくふかくもっと深くお辞儀せよ死者との別れは無言にて風:(高槻市)門田照子
「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して、「葬送」というものへの関心が高まっていますね。
昨日の朝日新聞に、刑事→子育て→納棺師という経歴の女性の話が載っていました。
「納棺はご遺族の悲しみを癒やす『心のケア』の入り口になっていると思う」とおっしゃっています。
死者への思いは限りのない深さです。
一方で、亡くなった方には、たっぷりの時間があります。たっぷりの余裕があります。
生きている側はあたふたせず、尽くせるだけの礼を、尽くせる時にすればよいのです。葬送の儀礼にこだわりすぎることは、かえって亡くなった方に失礼であるかもしれません。
生き仏様、ともいいます。亡くなった方には時間がありますから、まあ、ちょっと待っていただいても、生きている人を大事にしましょうね。
葬送の儀礼のために、生きている方をおろそかにしてはいけませんよ。
と、年寄りは思うわけです。若い人よりは葬送の儀礼に近い人ですから、なおさらそう思う。あなた方の自分の生活をきちんとお守りなさい。
2009.2.23付 朝日歌壇より
「だから出世しないのよ」妻の直球(ストレート)内角一杯低目に決る:(横浜市)折津侑
永田和宏 評:「内角一杯低目」などという余裕でかろうじて死球(デッドボール)を免れた。お見事!
読んで、思わず笑ってしまいました。見事なストレートですねぇ。まるっきり打ち返すこともできず、見事にスパッと決まってしまいました。
夫婦っていいものだなぁ。
◆私が教師になったワケ。
障害を乗り越えて、何ていうのは高校生の頃からうさんくさいことだ、と思っていました。障害があるのだから、障害とは関係のないところで勝負しろ、とかもいわれて、そりゃないだろう、とも思っていました。高校生のころ、漢文の先生の薫陶を受け、逆に、高校生と付き合う職業っていいな、とも思っていました。大人であり大人でなし、高校生という年代が好きです。
さて、教壇に立って、授業をすれば、教師人生の中で千という単位で数えられる生徒たちと出会うことができる、その生徒たちは私を見て育つ、その生徒たちが「2回目」に障害者と出会うとき、初めての出会いの人とはきっと違う対応ができるようになるのではないか。
それはきっと、障害者を囲む「障害」を低くすることに、微力ながら貢献できるのではないか。これが、教師という職業を選んだ一番大きな理由です。
2番目の理由はというと。大学闘争を経て、「偉くなる」ことへの幻想に愛想が尽きてしまって、また、障害者ということにこだわり続けること、社会的には「弱者」のポジションにこだわり続けることを選択しようと心に決めましたので
偉くならなくても変な目で見られない職業 としての教職は最高だ、と思ったわけです。
人生の出だしで「出世しないこと」を選んだわけです。
で、貫き通しました、エライでしょ。(いばるほどのことじゃぁないけど。)
こういう変人と歩みをともにしてくれた伴侶は「Better Half」どころか「Best Half」ですね。
妻の直球には弱いんだよなぁ、夫たるもの。
2009.2.23付 朝日歌壇より
別離とはあっけないもの音たてて扉が閉まり互いに追わず:(熱海市)三澤房枝
永田和宏 評:死者との別れと取っておく。あっけないまでに事務的な別れはいっそうの悲しみを呼ぶ。
これは、永田さんに不同意です。死者との別れで「扉が閉まる」というのはどういう光景か、つかめません。
大寒の朝に逝きたる人ありて霊安室をあたためて待つ:(八戸市)山村陽一
山村さんは職業として葬祭をなさる方です。遺族の方は動転していますから、こんなことにはおそらく気づかれないでしょうが、深い心づかいがあるのですね。
と、「扉が閉まる」とは霊安室だろうか?
違うと思う。
抽象的に、生者と死者を仕切る「扉」が音を立てて閉まったのだろうか?
「互いに追わず」というのは、死者と生者の間ではちょっと分からないのです。
私は単純に、人と人の別れ、でいいのではないかと思うのです。おそらくは男女。
扉が閉まり、向こうにいる人の気配、存在感を感じながら、もう互いに相手を追うことはない、という切なさにも似た感情の噴出、だったのではないでしょうか。
2009.2.23付 朝日歌壇より
おかあさんちゃわんについたごはんつぶあつまれしてよもったいないから:(匝瑳市)いしはらゆうご
高野公彦 評:お母さん(?)の字で「石原悠吾(4才)」と添え書きがある。
これは全部平仮名でもわかりましたよ。
平素から、もったいないからね、ごはんつぶあつまれぇ、とか号令かけて箸でささっとごはんつぶをあつめてくれるんですね、きっと。
良い教育です。
エコだなんだと騒ぐ前に、生活の中でこうやってものを大切にする感覚を身につけさせればよいのです。
◆昔、子育ての頃。
ご飯粒を一粒残さず食べると、お米が喜ぶ、お百姓さんが喜ぶ、お米を運んだ人が喜ぶ、お米を売っているお店の人が喜ぶ・・・と子に、言い聞かせたものでした。
お魚をきちっと食べつくして骨だけにすると、お魚さんが喜ぶ、漁師さんが喜ぶ・・・・・・というのもいつも言ってましたね。
今となれば、子の方としては圧力を感じたよ、と笑いながら言いますが・・・。
2009.2.23付 朝日歌壇より
針山のなかに入れたる長き毛はわがアラフォーの黒髪なりし:(いわき市)清矢暁子
そうだったのか、とびっくり。
子どものころ、母が裁縫をする傍らで、時々、針山の中に潜りこんでしまった針を指先で探って取り出す作業をやらされました。
柔らかく持って、しなわせるように曲げて、中に針があるかどうか、どこにあるか、探って、取りだすわけです。うっかりやれば当然針が刺さります。そういう作業を子にやらせて、慎重さを養ったのでしょう。(おっちょこちょいの子でしたから、わたし。)
髪の毛には油分があって、針がさびにくくなり、滑りもよくなる、と聞かされていました。
あの針山の中に入っていた髪の毛は、母の髪の毛だったのかぁ、と今更ながらに思いだしました。和裁洋裁ちゃんとやった大正生まれの人でした。子の服もずいぶん手縫いで作ってくれたものです。ということは、ちゃんと自分の毛で自分の針山をつくったのでしょうね。
この年になって気づくとは、情けない息子でありますことよ。もう、聞いてみることもできませんが。
2009.2.23付 朝日歌壇より
ひねもすをしおによりそうりゅうぐうのおとひめのもとゆいのきりはずし:(防府市)尾辻のぶほ
高野公彦 評:「竜宮の乙姫の元結の切外し」は、甘藻の別称。浅い海に群生する細長い藻である。
いや、さすがに、いくら、「詩は誤解の文学」とはいっても、誤解のしようもなく何が何だか分からなくて、全部平仮名で、まずは、読めなかったです。
高野氏は評で註を書く方ですので助かりました。とにかくまいった。
あま‐も【甘藻】ヒルムシロ科の海産多年草。浅海の海底に肉質の根茎が這い、葉は緑色、線状で先端は海面に達する。葉は肥料や蒲団の芯とし、また、草履の材料。古くはこれを海辺に積み、海水をそそいでから乾燥して焼
き、その灰から塩を製した。藻塩草(モシオグサ)の名はそれに由来。ウミヤナギ。アジモ。大葉藻。竜宮の乙姫の元結の切外し。[広辞苑第五版]
藻塩草ならわかるし、甘藻は実物を知っています。いや、無知でした。
ウィキペディアによりますと
岸辺に打ち上げられた葉の様子から、リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)という別名をもつが、これは最も長い植物名として知られる。
英名 eel grass は「ウナギ草」の意で、細長い葉に由来する。なお、アメリカ先住民族の一部はアマモ属を食用にする。
とありまして、最長の植物名だそうで、初めて知りました。勉強してしまいました。
2009.2.23付 朝日歌壇より
筍のように椅子から立ちあがる昔の僕のような少年:(小平市)萩原慎一郎
そう、上体をまっすぐ立てたまま、どこにも捕まることなく、「筍のように」まっすぐスックと椅子から立ちあがる。
見事なものです。
私は残念ながら、自分のどの年代をとっても、このような立ちあがり方はできませんでした。
上体を前へ傾け、重心が足の裏の上に完全に乗っていることを確認してから、膝に手をついて、(肘掛があれば肘掛けに手をついて)手で体重を支えながら、ぐっと前かがみにしか立ちあがれません。
最近はもう、「どっこいしょ」の掛け声なしには立ちあがれませんね。
◆電車などで、シートに座っている時、目の前に人が立つということが恐怖なんですよ。
体を前かがみにしてかなり前へ体をのめりださなければ立てませんから、必ずその人にぶつかる。
普通の人は、靴底の摩擦と、シートの縁へ体重をかけることを利用して、前にのめらずすくっと立ちあがりますよね。だから、わたしのような悩み・恐れをご存知ない。
荷物を前に置かれると、またげないし。
混んだ電車で座ることは恐怖なんです。立っている方が心理的にずっと楽なんですよ。
◆ついでに。今もそうですが、腰痛状態のときは、いったん座ると立ちあがるのが強烈に辛い。腰を伸ばして、一歩を踏み出すまでにずいぶん目に見えぬ準備が必要なんです。ですから、そういうときは、立ったまま、腰を伸ばしたままの方が楽なんです。
◆電車は揺れがスムーズなのでまだよいのですが、バスはきつい。加速も減速もとてもきつい。そういう、加速・減速中に、右足一本に重心を乗せて立ちあがるのは不可能に近いですね。だから、運転手さんが、とまってからお立ちください、などというのは困るんです。
一定スピードで走っているところを見計らって立つのが一番安全で楽なんです。
腰痛のときは立てたからといってすぐ歩きだせるわけではなし。
そういう事情もあるので、とまってから立て、といわないでほしいなぁ。
2009.2.23付 朝日歌壇より
雪降れば色鮮やかになる不思議山茶花の赤冬青(そよご)の赤き実:(小松市)沢野唯志
ルビがあったのでかろうじて読めましたが、知りませんでした。そういう木があることを。
そよご【冬青】モチノキ科の常緑低木。高さ約3メートル。雌雄異株、時に同株。葉は厚く、光沢がある。春、葉腋に白色で筒形4弁の小花を開き、紅色・球形の核果を結ぶ。材は器具に用い、葉を褐色の染料とする。樹皮から鳥黐(トリモチ)を採る。フクラシバ。ソヨギ。[広辞苑第五版]
ネットで検索すると、ありました、確かに赤い実です。
「山茶花」は、通常「サザンカ」と読んでいますが、もとは「さんさくゎ=さんざか」から転じたものだそうですから、「さんざか」と読んでもいいわけです。
沢野さんがどちらの読みを指定したかは分かりません。短歌という詩の世界のことですから、サンザカと読んでもよさそうですね。声を出して読んだ時のリズムが狂うわけでもなし。
詩とは誤解の文学だ。
また言っちゃった。
2009.2.23付 朝日歌壇より
立ちこぎの白いコートが上下する線描木立背景にして:(あきる野市)小澤多江子
佐佐木幸綱 評:木立の中を自転車がとおりすぎるあいだ、しばらくひきつけられていた視線をうたう。熟練の表現が楽しめる一首。
わたし、はじめ、、この歌、まるっきり誤解してしまいました。
「立ちこぎ」というのを、ブランコの「立ちこぎ」だと思ったんです。
公園で白いコートの女性がブランコを一人立ちこぎしている、という情景で読んだんですね。
評を読んで、え、ああ、そうか、とシーンが切り替わりました。
木立の間を、白いコートの女性が自転車を立ちこぎしながら走らせていく、白いコートと立ちこぎの疾走感が、女性を際だたせる、という感じに変わりました。
詩の鑑賞とは、誤解のことかもしれません。
情けないなぁ。
誤解を生じないように、言葉の意味を限定し、文章を論理的にきちっと狭く書くのが理系の論文。
そういうのに慣れていますから、私は「散文的」でしかありえないんですね。
「芸術とは誤解だ」と、叫んでおきます。
2009.2.23付 朝日歌壇より
ここはどこ私は誰と確かめるネットカフェにて目覚める朝:(東京都)杉原浩道
佐佐木幸綱 評:ネットカフェで一夜を過ごした翌朝の一瞬の感覚。その場の空気が肌になじむまでの微妙な時間である。
高野公彦 評:非日常の場所で目覚めた時の不思議な感覚。
永田和宏 評:思わず自分の居場所を確かめるネットカフェの朝。目覚めが最も悲しい瞬間かも知れない。
どのような事情でネットカフェで夜を過ごしたのでしょう?
安眠できていない証拠ですね、一瞬、自分がどこにいるかを見失ってしまうということは。
あ~そうだった、ネットカフェで寝たんだっけ、と頭を振りながら意識を目覚めさせていったのでしょう。
2月4日付の朝日新聞の記事でこういうのがありました。
過酷、ネットカフェ8泊 「家は重要」 専門学校生が体験
という題です。
一部分引用します。
福祉を学ぶさいたま市の専門学校生が、卒業研究の一環として「ネットカフェ難民」を体験した。不況のあおりでインターネットカフェを家代わりにする人がいる現実のなか、出した結論は「心身ともに疲れ、抜け出そうという気持ちがなくなる」。住まいの確保を訴えている。
・・・
「他の利用者のパソコンのキーをたたく音や話し声、時間も気になり、よく眠れなかった」
・・・
「顔色がどんどん青白くなって、いつか倒れるんじゃないかと思った」
・・・
8泊9日の生活を終える頃には、睡眠不足でイライラが募り、色々なものへの興味や意欲がなくなった。
・・・
「ネットカフェはあくまでも娯楽施設であって、体を休めるための場所ではない。精神と身体の安定のためにも、仕事を与えるより、まずは居住場所を確保することが重要」
・・・
苛酷なものです。生き生きとした感情を失い、好奇心は消え、状況を打破する気力さえ消えていく。これはあまりにも非人間的です。
ネットカフェが住まいだなどという状況がある今の日本の社会は異常としかいいようがありません。政治の貧困です。なんとかしなくちゃ。
◆別件
朝起きた時、私が思うこと。
左足が不自由ですから、補装具というものをつけるのですが、最初の一歩、というのはいつも不安なのです。今日は左脚に体重をかけられるのか?と。
障害に起因すると思われる腰痛がいつも体の中にあるんですね。ですから、朝の最初の一歩が不安なんです。
自分の体を組み立てるような気分ですよ、ロボットみたいに。うまく組み上がらないこともあるものですから。
2月17日の午後4時半頃、ちょっと外へ出たら、鉢植えのカエデの枝に、クロヒラタアブがとまっていました。
陽ざしさえあれば昼ごろはとても暖かくなりましたが、さすがに、日がかげってくるこの時間になると、急に気温が下がります。緊急の事態にでもなれば飛び去るくらいの余力はあると思いますが、無駄はしたくないでしょう、そっと、驚かせたりしないように撮影しました。
おそらく、この枝に止まったまま夜を過ごすことになるんだろうな、と思いました。
とまっている場所は夕べとはちょっと移動していましたが、やっぱりすぐそばの位置にいました。
気温が下がってしまったので、ここで夜を明かしたのですね。
ちょっとどこにピントが合っているのか、妙な写真ですが、頭部を縁取る毛がきれいでしょ。
昼ごろ、見にいったらもういませんでした。
もうちょっと、葉かげかなんかで夜を過ごした方が安全だと思うんですけどね。
けい‐ちつ【啓蟄】(蟄虫、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意) 二十四節気の一。太陽の黄経が345度の時で、2月の節(セツ)。太陽暦の3月6日頃に当る。驚蟄。<季語:春>[広辞苑第五版]
冬ごもりしていたアリさんが穴からはい出てきましたよ。
道路の端に、新しい土が少し盛り上がっていました。穴をふさいでいた土をどけて、出てきたところですね。
擬人化すると。
腰を伸ばして、う~ん、よっこらしょ、と眩しい日差しを受けながら、伸びをしているといったところでしょう。
今年の啓蟄は3月5日です。広辞苑の記述に「2月の節(セツ)」というのがありますが、太陽の角度15度ずつで切りますので、月に二つの節気が配されます。はじめの方を「正節」、後半を「中気」というのです。この正節のことですね。
ところで、二十四節気なんて古い話だから、旧暦でのことだろ、だから、太陽暦にすると1カ月遅れになるんじゃない?と思っていませんか?
「3月5日が啓蟄」というと、旧暦の3月5日は今年の場合、2009年3月31日だから、きっと太陽暦の3月末で、本当に暖かくなって、虫が出るんだな。
こう思っていませんか?
実は旧暦は月を基にした暦ですから、季節との関連性がないんですね。下手に運用すると、正月が夏になってしまったりする。どうしても、太陽の運行と合わせておかなければならない。そのために、月の暦の中に組み込まれた「太陽暦」が二十四節気なのです。春分点を0度として、360度を15度ずつ24等分して、名前を付けてあるのです。
名前が古い感じなので、旧暦のものと感じがちですが、これは太陽暦ですから、そのまま私たちの季節感と一致するものです。
2009年の二十四節気を、太陽暦でお示しします。参考まで。(理科年表2009年版から)
1月 5日:小寒(285度)
1月20日:大寒(300度)
2月 4日:立春(315度)
2月18日:雨水(345度)
3月 5日:啓蟄(345度)
3月20日:春分( 0度)
4月 5日:清明( 15度)
4月20日:穀雨( 30度)
5月 5日:立夏( 45度)
5月21日:小満( 60度)
6月 5日:芒種( 75度)
6月21日:夏至( 90度)
7月 7日:小暑(105度)
7月23日:大暑(120度)
8月 7日:立秋(135度)
8月23日:処暑(150度)
9月 7日:白露(165度)
9月23日:秋分(180度)
10月 8日:寒露(195度)
10月23日:霜降(210度)
11月 7日:立冬(225度)
11月22日:小雪(240度)
12月 7日:大雪(255度)
12月22日:冬至(270度)
実際、立春の頃には平年気温が谷底を脱しますし、立秋の頃には平年気温の頂上を通過するのです。
うどん‐げ【優曇華】(優曇は梵語udumbara優曇波羅の略。祥瑞の意)
①クワ科イチジク属の落葉高木。ヒマラヤ山麓・ミャンマー・スリ‐ランカなどに産する。高さ約3メートル。花はイチジクに似た壺状花序を作る。果実は食用。仏教では、3千年に1度花を開き、その花の開く時は金輪王が出現するといい、また如来が世に出現すると伝える。源氏物語若紫「―の花まち得たるここちして」
②(3千年に1度開花すると伝えるところから) 極めて稀なことのたとえ。狂、花子「たまたま会ふこそ―なれ」
③芭蕉バシヨウの花の異称。
④クサカゲロウが夏に卵を草木の枝や古材・器物などにつけたもの。約1.5センチメートルの白い糸状の柄があり、花のように見える。吉兆または凶兆とする。うどんげの花。<季語:夏>
[広辞苑第五版]
上の写真、私の経験からすると、クサカゲロウの卵なんですが・・・。
でも、普通は、こういうのが複数本まとまって産みつけられるのです。今回は、キョウチクトウの葉の裏に、1個だけ。
う~む、悩むなぁ。
先日、クサカゲロウの成虫を見ましたという写真を載せました。ですから、なんとか、1個だけ産卵できたのかなぁ、とも思っています。
激しい雨の後、見えなくなってしまいました。残念です。
ギンメッキゴミグモの幼体です。
小さな網を張っています。
クモの季節も始動しているようですね。たくさん会えますように。
ところで、よく見ると、この子グモ、食事中のようですね。
ユスリカのような小さな昆虫をつかまえて、糸で絡め取って、抱えているように見えます。消化液を注ぎ込んで、消化された液を吸い取るわけです。
小さな狩人は、小さな獲物、をつかまえるわけです。狩人と獲物は一緒に大きくなります。(カマキリを飼育していると、すごくよく分かります。)
こちらはまだ「営業中」になっていなくて、「準備中」のギンメッキゴミグモ。
葉っぱに糸が見えますが、これがこのクモのものかどうかは分かりません。
そうだとしても、足場でしょうね。ギンメッキゴミグモは円網を張りますので。
初めてギンメッキゴミグモを見た時は、珍しいクモを見た、と驚きましたが、眼がなれてくると、ずいぶんポピュラーに見かける普通種なんですね。こんなキラキラしていて、一度見て覚えれば忘れないようなクモでも、知らないと見えないようです。
ちょっと転がって、怪我をさせてしまったので、接着剤の跡が、注意すると見えるかもしれません。
でも、大好きな人形です。
どっちが右か左か。べつにいいでしょう。
男雛が向かって左にいるのが関東風で、右にいるのが京風とかいうのですが。
男雛さまと女雛さま、この一対で「内裏雛」ですよね。
今は、「うれしいひなまつり」でサトウ ハチローさんがやってくれた「間違い」が、広く一般化してしまって、男雛が「内裏様」で、女雛が「お雛様」ということになっているようです。
古びたかかしとしては、あの歌を聞くと、どうも居心地が悪くて仕方ないのですが。
さて、我が家の定番。(古いかかしは、このことばを、「ていばん」と読みたくありません、「じょうばん」と読んでいます。)
猫内裏雛。
猫づくし、なんですね、我が家は。
昨日、2大事件。
1:ウグイスの鳴き声を聞きました。
何年か前まで、この季節にウグイスの声を聞くことはありました。好事家が飼っているのかなぁ、でも、変だなぁ、などと思いながら、聞いていました。
この2、3年、聞かなかったように思います。それが、昨2/22の昼ごろ、声を聞きました。ベランダに出てみると、どう見ても、家のそばの木の茂みの方向から聞こえてきます。この方向には人家はありません。耳が音源の方向を聞き分ける正確さというものはかなりのものですから、間違っていないと思います。笹鳴きというほどおさないなきかたではありませんでした。はっきりとほーほけきょとやっていましたが、少しだけ不安定さをはらんでいて、成熟した鳴き声ともいえない声でした。
これから、どうなるのか、写真は撮れるのか、わかりません。何かあったらまたお知らせします。
2:庭の池にカエルが産卵しました。
日曜日でのんびりしていた娘が、ウグイスの写真は撮れないか、と家の周りを歩いていましたが、だめで、ついでに庭など眺めていたら、自分が掘った「池」にカエルの卵を見つけました。
昨年の3月まで、3年間、友人の小学生の息子さんU君を相手に「理科おじさん」をやっておりました。その内容は、下のホームページにあります。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/index.htm
U君は生き物好きですので、いっぱい楽しんでもらいました。その一つに、カエルの飼育もありまして、六郷用水跡の水路から、オタマジャクシをすくってきて、カエルになるまで飼育したこともあるのです。そのとき、かなりの数のカエルたちが水槽から脱出しましたし、最終的に残ったカエルも庭に放してやりました。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/50th/sci_50.htm
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/54th/sci_54.htm
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/74th/sci_74.htm
上に、写真があります。
さて、この小さな池からオオシオカラトンボやら、クロスジギンヤンマやらが羽化し、「トンボ池」になっていますが、さらに今年は「カエル池」にもなったようです。
ヒキガエルの成体は水を特に必要としていませんので、どこか、我が家の周辺で落葉などの多いところで、生活しているのでしょう。それが、産卵の季節になって、近くの池といえばこの池ですから、産卵にやってきてくれたのでしょう。オスが待ち受けていて、やってきたメスをつかまえて産卵・放精を行うのだと思います。
やたらと一杯ですので、少しすくい取って、水槽に移しました。
これです。
久しぶりに見ます。こんなにいっぱいの卵。
これからどうなっていくのか、楽しみに観察を続けます。
ずいぶん早い時期から見かけることができるのですね。
成虫で越冬しているのでしょうか。
これが2月14日。
2月16日には、こんなことが・・・
ビヨウヤナギの葉の向こうに、なんだ?みかけないなぁ、というものを見つけました。
反対側に回り込んでみると
ツマグロオオヨコバイだったのです。
本当は、頭を下にしているのですが、横向きにしました。その方が大きめにお見せできるものですから。
しばらく写真を撮ったりしてみていると、ん?なんだ?
お尻の方に動きがあります。よく見ると、樹液を吸いながら、お尻の方からおしっこをピッ、ピッと噴き出しているのですね。
で、お尻の側に回り込んで、何回か適当にシャッターを切ってみました。
うまく、おしっこの噴射の瞬間が写らないかな、と思ったのですが、ザンネン、写りませんでした。
ふと目を転じると
他にも2匹ツマグロオオヨコバイがいました。
眺めていると、やっぱり、おしっこを噴いています。
写真の葉っぱに水滴が写っていますでしょ、これ、左上のツマグロオオヨコバイが噴出したおしっこのしずくです。ずいぶんいっぱい噴き出しましたねぇ。ということは、それだけ樹液を吸っているということです。体内を大量に通過させているのですね。
暖かい日の、楽しい観察でした。
2009.2.16付 朝日俳壇より
こんな夜のナースは誰も雪女郎:(奈良市)名和佑介
わかるけど。
こわいなぁ。
・・・
雪女は、ねむっている茂作のそばに立つと、口から白い息を吐きました。
茂作の顔に白い息がかかると、茂作の体はだんだんと白くかわっていきます。
・・・
「のう、お雪。わしは以前に、お前のように美しいおなごを見た事がある。お前とそっくりじゃった。山でふぶきにあっての。そのときじゃ、あれは、たしか雪女」
すると突然、お雪が悲しそうにいいました。
「あなた、とうとう話してしまったのね。あれほど約束したのに」
・・・
マンガ日本昔話を、放送時に娘と一緒に見ました。小さなブックレットみたいな形で出版もされたので、のどがかすれるまで読まされましたっけねぇ。
ずいぶんいっぱい本を読みましたっけ。
2009.2.16付 朝日俳壇より
耳鳴りにまぎれぬ春の夜の雨:(大分市)高柳和弘
私は、コンクリートを破壊する音を我慢して聞いたために、音で震えて音を聞き取る、内耳の「毛」がふっとんだんでしょうね、左耳が難聴気味です。人の声に別の音がかぶさると、何かを言っていること自体は分かりますが、内容を聞きとれなくなりました。音楽も音を聞き分けて演奏者に迫るというような聞き方はできなくなりました。
教室といういろいろたくさんの音が飛び交う空間で、生徒の質問内容を聞き取ることができなくなった時、ああ、教師としての資格がなくなったな、と悟りました。
私の場合、嘱託を終えた後、講師に登録することは可能だったんですが、この聞き取り能力の低下が致命的でした。というわけで、56歳で教壇を去ったのでした。
この状態になった当初は、耳鳴りも経験しましたが、今は耳鳴りは収まりました。
知らない方は、難聴というと、音のない世界を想像する方もいらっしゃいますが、実は多くの場合、耳の中の「騒音」に悩まされている状態なのです。
この耳鳴りがなくなったら、どれほど静かで落ち着いた状態になれるだろう、と思うものなのです。
その耳鳴りをこえて聞こえてきた雨音。春雨というよりはきっと春の嵐に近いものだったのではないでしょうか。
2009.2.16付 朝日俳壇より
エレベーター一人の寒さ上りけり:(豊中市)上原恒子
稲畑汀子 評:一人しか乗っていないエレベーター、寒さが伝わってくる佳句。
余計なことを申します。マンションなんかのエレベータですと、女性は一人で乗っているのが安心。男性が乗りこんできたら、女性は緊張し警戒しなければならない時世です。一人の方が気楽でいい。
袖振り合うも他生の縁、などといってはいられない、心寒い世の中となり果てましたことよ、哀しい。
男性としては、女性一人のエレベーターに乗るということになると、この人警戒しているだろうな、と想像してつらくなるという、なんだか嫌なぐあいです。
2009.2.16付 朝日俳壇より
山彦も蒲団叩いてをりにけり:(大竹市)見上木地草
大串章 評:干蒲団を叩く音が山彦となって返ってくる。「山彦」も「蒲団」を叩いている、という言い方に楽しさがある。
状況的には何も説明はありません。
山彦というのは「山」の「彦」=「日子」=「男子」ですので、「山の神」です。
山や谷に向かって発した音が、山の神が返事をするように、反射して返ってくる現象です。比較的間のあく反射音です。
それに対して「谺(こだま)」は「木霊」ですから、「木の霊」なので、林に向って音を発すると、木々の魂が返答するかのように、細かく短時間でたくさん音がはね返ってくる現象です。
とまぁ、高校の物理では私は教えておりました。山彦とこだまは同じものだとする解釈もありますけどね。
私が名乗っている「崩彦(くえびこ)」は「崩(くえ)る彦」=「崩れる男」です。それが案山子にあてはめられています。ひょっとして、身体障害者の神格化ではないかと思っています。
ちなみに「姫」は「日女」=「女子」です。
2009.2.16付 朝日俳壇より
紅梅にまみえしごとき一会あり:(泉大津市)多田羅初美
大串章 評:紅梅のように清楚で美しい人。その優しい笑顔は生涯忘れられない。正に一期一会の恩恵。
評を読んで、そうなのかぁ、「一会」というのは「人との出会い」なのかぁ。
と、あらためて、考えました。
紅梅にたとえられる人、ならば、清楚で美しい人、なんですね。
なんだかなぁ、すごい読みこみをするものなのだなぁ、と驚いてしまいました。
いち‐え【一会】①多くの人が集まって行う法会。②一たび会うこと。「一期イチゴ―」[広辞苑第五版]
最近、かかし爺は、ヒト離れしてきて、虫たちとの「一期一会」などに心ときめかせているものですから、ヒトとの出会いに疎くなりました。
紅梅のところにアブなんかいると、嬉しくなってしまいますが、それはきっと、「一会」とはいわないんだろうなぁ。
2009.2.16付 朝日俳壇より
胎内に水晶育て山眠る:(栃木県)榎本全利
かかしさんは、理科おじさんでもあるもので、水晶のでき方などに少しだけ知識があります。
水晶は、100度を超える熱水に溶け込んだ石英が、徐々に結晶として成長したものです。
眠る山の胎内で、水晶が育まれている、という想像は、静けさの中に脈動する「熱」を感じさせて、心地よい響きです。
ただ、冬の季語を使っているわけですが、山のいとなみ、水晶の成長、というようなことは、季節の移り変わりというようなスケールの時間での出来事ではないので、そこが少々、私には不満です。(山笑う季節になっても、水晶がおぎゃあというわけではないし。)
季語を使わず、悠久の時の流れの中ではぐくまれる「山の命」というような表現は不可能でしょうか。
2009.2.16付 朝日俳壇より
綿雪を見つめて飽かぬ子猫かな:(大阪府)白鳥利香
哺乳類に共通する特徴、それは「好奇心」だと思うんですよね。とくに、子の好奇心はすごい。我が身の安全はお母さんに任せて、ひたすら好奇心を発揮して転げまわっている。あれがたまりません。
始めてみる「雪」。なんだろうなぁ、と不思議そうに見ているのでしょう。
初めて、雪の上に置かれちゃった子猫、びっくりしますよね。
さて、振りかえって。
ヒトとは、動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・哺乳綱・サル目(霊長目)・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種に属する、生物の一種であり、なおかつ動物の一種。「ヒト」はいわゆる「人間」の生物学上の標準和名である。その学名「Homo sapiens」(ホモ・サピエンス)は「知恵のある人」の意味である。
(ウィキペディアより引用)
このヒトという動物の「知的好奇心」は、大丈夫ですか?衰退・衰弱してませんか?
2009.2.16付 朝日歌壇より
湯たんぽを湯猫と言いし遠き日の祖母偲ぶとき面影うかぶ:(福岡市)安河内千鶴子
私の語彙にはないんですが、猫をゆたんぽ代わりにして、「湯猫」という地方があるやに聞いておりますが・・・
あるいは、金属製のが湯たんぽ、陶器製のが湯猫、とか・・・
何にしても、いい語感です。
あぐらのなかに猫を抱いていると、ぬくぬくと温かくって、昔、赤ん坊のころの子を抱いていた時のような・・・
で、おむつからおしっこが漏れてきた時の、あの「あたたかさ」が思い出されてしまったり・・・
別件:陶器製の「こたつ」というものがあって、中に灰と炭を入れ、布団の足元に入れて使う、という習慣が妻の生まれ育ったところにはあったようです。なんだか、火事になりそうで怖いけれど、暖かいものだそうです。
2009.2.16付 朝日歌壇より
受験期の苛立ち今や危険域今日四度目の非常ベル鳴る:(天理市)乾喜弘
永田和宏 評:学校の厳しい現実に対する教師の歌か。
あれ?永田さん、お忘れでしたか?乾さんが教師でいらっしゃることを。
2008/12/14
オマエーと呼ばれて肩を小突かれてそれでも授業抜ける子ら追う:(天理市)乾喜宏
永田和宏 評:教育の崩壊などとたやすくは言えない現場の教師の必死さ。
こういう評をお書きになったでしょ。「・・・教師の歌か。」ではなく、「・・・教師の歌。」ですよね。
今の子らは、ストレスに弱い。王子様お姫様が多いからなぁ。
尾崎以来でしょうか、この3学期に「反抗」的になることが、あたかもカッコいいことのようになってしまった。尾崎には、長生きしてほしかった。そうして、大人の、年齢を重ねた、本物の「反抗」とは何かを歌い続けて欲しかった。「大人の反抗」がないもんなぁ、日本には。
「卒業」の季節ですが、私には尾崎の歌は「甘え」としか聞こえません。
同時期に、斉藤由貴が歌った「卒業」の方が、ものすごく厳しい、深刻な歌だと思いました。
覚えているところだけ書きますと(間違ってたらごめんなさい)
机にイニシャル彫るあなた やめて思い出を刻むのは 心だけにしてとつぶやいた
守れそうにない約束はしない方がいい
ああ 卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう
小学校の卒業式って、全く一切記憶がありません。
中高一貫だったので、中学の卒業式はナシ。
高校の卒業式はあったのですが、あいまいな記憶のみ。
大学は、大学闘争を経た後ですので、バカバカしくって、卒業式なんて出席しませんでした。後で、教務で証書だけ受け取りました。
教師になっても卒業式は一応しましたけどね、担任したときは。ネクタイもせず出席してました。
「かつて生徒と教師だった」ということに発する人間関係なんてろくなもんじゃない、と同窓会的なるものの一切を拒否してきましたし。
受験ストレスで苛立つなどというのは、幼いことです。
そして、今、みんな幼くなっちゃった。
哀しい。
2009.2.16付 朝日歌壇より
口きかぬ吾子は只今反抗期十三歳の三角四角:(新潟市)和田満絵
佐佐木幸綱 評:数詞が三個登場する下句がうまい。とんがっている少年(少女かも)が目に浮かぶ。
永田和宏 評:子の反抗期、困ったものと思いつつ結構楽しんでいる様子。
子が反抗期だからといって、親がまともに「対抗」して、イライラしたり、とんがることはありますまい。親ですもん。年を重ねるというのはそういうことです。ガキの知らぬ年月の積み重ねをもって、笑いながら見ていればよろしい。
親が巻き込まれてしまうというのは、ちょいと未熟なことです、親として。
反抗期がなかったりしたら、それこそ大問題。悩んでください、うちの子は大丈夫だろうか?と。ね。
2009.2.16付 朝日歌壇より
夜明けなど来なくてもいい薄明の美しさのまま世界よ凍れ:(岩手県)田浦将
ファウストの「時よ止まれ!」を思い起こさせます。
一応、ファウストは全部読み通したつもりですが、あまりの「息の長さ」に、こちらは息切れしました。あの、持続力って何なんだろう?
ファウストの「時」は、人間的なものだったと記憶します。私のカテゴリー分類では「人事」に属するものだったと思います。
上掲の歌は、むしろ「自然」に属するものですね。
私は薄暮から夜に至る時間帯が大好きで、母の実家のある、秋田県の八森の海岸で、沈みゆく夕陽を眺めることが至福の時間でした。海は西に開いていましたから、たっぷり楽しめました。
東の方は、白神山地の迫りくる高まりでしたので、薄明の方はさほどダイナミックじゃないんですね。
でも、「凍れ」「止まれ」とは思いませんでした。うつりゆくその変化こそが美しいと思っていました。
悪魔に魂を売り渡してもよいほどの、凍りつかせたいほどの美しい時、は想像を絶します。すべてはうつろいゆく。この宇宙さえもうつろいゆく。その事実に圧倒されます。
2009.2.16付 朝日歌壇より
気付きしは青鷺が先うちつけに羽ひろげ立ち我は息呑む:(下関市)藤本雅子
佐佐木幸綱 評:大きな青鷺に気づかないで来て、目の前で急に羽ばたかれた場面。驚愕の様子がユーモラスだ。
私の語彙の少なさが恥ずかしい。「うちつけ」という言葉を知りませんでした。
うち‐つけ【打付け】①突然。にわか。だしぬけ。土佐日記「―に海は鏡のごとなりぬれば」
②遠慮のないさま。露骨。むきだし。源氏物語帚木「あだめき目慣れたる―のすきずきしさ」。「―にものを言う」[広辞苑第五版]
この「突然に」という意味を知らないで上の歌を読むとよく分からないのですね。あ~ハズカシ。
アオサギというと結構大きな鳥ですよね。それが目の前で突然羽を広げたとなると、これは驚きます。羽根を広げると、1~2mあるはずですものね。
スケールが全然違うのですが、私が昆虫と出会うのはほとんどこういうケースでして、向こうが先に気づくんですよ。で、サインを送ってくる。
おっとぉ、いたのか、ごめんね、おどろかせて。
ということばかりです。
相手にストレスを感じさせないようにそっと見つけてあげればいいんですけれど。
なかなか、動物たちとの出会いって、難しいものです。
2009.2.16付 朝日歌壇より
この朝零下九度の久慈川に生れたる氷河(しが)のきらめきやまず:(鶴岡市)大沼二三枝
零下9℃を下回ると見られる現象だそうです。私はテレビ・ニュースでこれを見ました。
川の表面の氷がきらめいて、それは美しいものです。
(作者のお住まいは山形県だと思いますが、久慈川は福島県から茨城県を流れる川です。念のため。)
写真をご覧になりたい方は下のブログをご覧ください。
http://natureart-mooju.cocolog-nifty.com/blog_namj/2007/02/post_86d5.html
ところで、「しが」ですが、有名なところでは「どじょっこ ふなっこ」という歌がありますね。
春になれば しがこもとけて
どじょっこだの ふなっこだの
夜が明けたと 思うべな夏になれば わらし(童子)こ泳ぎ
どじょっこだの ふなっこだの
鬼っこ来たなと 思うべな秋になれば 木の葉こ落ちて
どじょっこだの ふなっこだの
船っこ来たなと 思うべな冬になれば しがこもはって
どじょっこだの ふなっこだの
てんじょ(天井)こはったと 思うべな
語尾に「こ」がつくのは秋田の方の方言です。
[方言] しが(東北地方で) 氷、または、つらら。[広辞苑第五版]
歌の中で太字にした「しがこ」が、池の表面に張った「氷」のことですね。
私自身は話せませんが、両親が秋田県出身なので、秋田弁は耳に馴染みがあります。
なつかしい。
2009.2.16付 朝日歌壇より
歳末のスーパーに来て吾が業の霊柩車にも注連縄を買う:(八戸市)山村陽一
{馬場あき子、永田和宏 選}
私もねぇ、子らが小さいときは、生活の中のいろいろな年中行事を経験させたいと、車や自転車にも小さな注連縄をつけましたっけ。
でも、車の前につけるやつは、どうも、エンジンルームに吸い込まれそうで、嫌な感じがしていたので、比較的早めにやめてしまいました。
最近は、正月を特別な過ごし方を「したくない」という気持ちの方が強くなってきて、ほとんど正月らしいことをしなくなりました。
人が勝手に作った区切りで騒ぐのはいやだ、どうということもなく、ただ普通に過ごしていきたいという気持ちの方が強いのです。(へそ曲がりですねぇ。)
葬儀にかかわるお仕事は、絶対必要なお仕事であるにもかかわらず、よく知られていないお仕事でもあります。お仕事はすべて「儀式」ですから、こういう正月儀式も大切ですね。ふと、心理的な盲点を突かれました。
2009.2.16付 朝日歌壇より
陽の翳り追いて水槽動かせば頭もたげる甲羅干す亀:(四万十市)島村宣暢
馬場あき子 評:陽ざしを追うのだろうか。暖かな明るみに飼っている亀も甲羅を干している。春は近い。
私、亀を飼ったことはないのでよくわかりません。歌では「翳り」を追って水槽を動かす、となっています。評では「陽ざし」を追うのだろうか、とあります。
どうなんでしょう?日光浴は必須ですよね。夏場だと暑くなり過ぎないように、という配慮が必要でしょうが、冬の日光浴ではどうなんだろう?全面陽当たりではなく、少し陰に入るようにしてやるのかなぁ。
ところで、この島村さんちの亀さん、去年も登場していたんです。
2008/02/11
大寒の亀孤独なり飼い主の六年生は中学受験日:(四万十市)島村 宣暢
馬場あき子 評:亀の飼い主が面白い。可愛がっていた亀もかまっている時ではなくなったのだ。「孤独」はユーモアとして使ったのだろう。この頃の亀は冬眠もしなくなった。
今年とちょうど同じころでした。「飼い主」は受験期でした。
そして・・・
2008/05/05
「一度には食えない」と亀の嘆ける主の合格:(四万十市)島村宣暢
よかったですね。
さて、亀さんの実質的な飼い主が島村さんに移ってきたのかな?子は大きくなると世話しなくなったりするんです。親の出番でしょうか。
◆今回、もう一匹の亀さんが登場していました。
2009.2.16付 朝日歌壇より
この家にもう十年は居る亀に子が付けし名を呼ばずにまた冬:(伊賀市)今西秀樹
飼い始めの頃の飼い主が、もう、大きくなってしまって、親が飼い主になったのでしょう。
名前はあったのでしょうが、ひょっとして、人間的な名前でも付けていたのじゃありませんか?なんとなく、その名前を呼ぶのは気恥ずかしくって、つい、おまえ、とか、おい、とか、こら、カメ、とか呼んでしまうのではありませんか?
想像をたくましくしてみました。
ところで、この亀さんも以前に登場したことがあるのです。
ごしごしと腹も洗へる冬の亀カメノコタワシに噛みつきもせぬ:(伊賀市)今西秀樹
紹介済みの歌ですが、再掲。
あの(The)、カメノコタワシで洗われてしまった亀さんなのでした。
2009.2.16付 朝日俳壇より
酒杜氏なべてをみなや寒造:(柏市)牛水里人
長谷川櫂 評:酒蔵の中の若い女の杜氏たち。香り立つような一句。
なんで、「若い女の杜氏」って分かるのかな?と思ってしまいました。
私の恥をさらします。
おみな【女】ヲミナ:①美女。佳人。古事記下「神のみ手もち弾く琴に舞する―常世トコヨにもかも」②おんな。万葉集一八「老人オイヒトも―童ワラワも」
おみな【嫗】老女。婆。神代紀上「一ヒトリの老翁オキナと老婆オミナとありて」⇔おきな
[広辞苑第五版]
「おみな」と「おきな」は知っていたわけです。「をみな」を知らなかった。
でも、「をみな」に「若い」という意味は入っていないと思うけどなぁ。「杜氏たちはみんな素敵な女性たち」でいいんじゃないでしょうか?
何だか、偏見かな、杜氏というと男性を思い浮かべてしまう、という感覚があって、「なべてをみな」とは?
みんな女性?なの?と、戸惑ってしまったのでした。
今は女性杜氏も多いんですね。
酒の世界を離れて長くなりました。もう忘れた。
◆追記:2/18
おうな【女】ヲウナ:(ヲミナの音便) おんな。古今和歌集序「たとへば絵にかける―を見て」
おうな【老女・嫗・媼】(オミナの音便) 年とった女。ろうじょ。〈霊異記中訓釈〉⇔翁オキナ
「おうな」と「おきな」の方がなじんでいたかもしれません。
2009.2.16付 朝日俳壇より
峠凍て運転出来ぬ欠席と:(浜田市)田中静龍
稲畑汀子 評:寒中に集まる仲間達。そこへ行くには峠を越えなければならぬ。凍てる峠を越えられない車のために欠席になってしまう残念な思いが想像される。
句も評も、分かるんですが・・・
欠席するのは田中さんですか?それとも、田中さんたちのもとへ別の方の欠席の知らせが入ったのでしょうか?
もしこれが短歌だと下七七があって
友に知らせる・・・・・
知らせ入りて・・・・・
というのがあるのでしょうが・・・
わかりません。
2009.2.16付 朝日俳壇より
日向ぼこ人には見えぬ猫の夢:(武蔵野市)川合道生
長谷川櫂 評:この猫、どんな夢を見ているのだろうか。世界にはわからないことがいっぱいあるからこそ楽しい。
いや、人の夢だって原理的に「見えません」。言葉を介して、動作を介して、想像によってわかったつもりになっているだけです。
他人の感覚は原理的に知ることができないのです。
朝日新聞の日曜beに金沢創さんの「心体観測 他者の心・自分の心」という連載があります。今年の1月11日に始まったものですが、その第一回目で金沢さんはこう書いておられます。
中学生ぐらいの頃、他人というものが不思議で仕方がなかった。
私にはあの夕焼けの色が真っ赤に燃えているように見える。でも、私が見ているこのアカイロは、果たして他人が見ている赤色と同じなのだろうか。この問いは、当時の私にとっては闇を見つめるような、恐怖さえ覚えるようなものだった。まるで自分一人が宇宙に取り残されたような気がしたのである。
・・・
「他人の感覚」とは原理的に知ることができない・・・
絶望的ですね。でも、人と人の間では「言葉」があります。また、他人の動作を見ると、その動作が自分の脳内で再現される仕組みをもっています。それによって、その動作の意図や、その動作をしている人の心の動き具合、などが読み取れるのです。
相手が哺乳類くらいだと、感情の基本的な流れは共有できますので、表情や動作から猫や犬や哺乳類たちの心を読み取ることはある程度できます。
昆虫にだって、くつろぎ、緊張、警戒、などいろいろな動作、状態があります。それが見えるようになると、昆虫の気持ちや感情にある程度寄り添うことができるようになります。
世界は分からないことだけで構成されているのかもしれませんが、ヒトには想像力がある。想像力を友にして互いに寄り添って生きるしかないのではありませんか?(虫とも。)
2009.2.16付 朝日歌壇より
給食に春より御目見得するといふ鮫フライに子はたぢろいでゐる:(鹿嶋市)榎本麻央
アハハ、かかし爺ちゃんはたぢろがないぞ。カマボコなんかの練り製品にはサメが入っていたし、カスベの煮物もうまいうまいと食ってたし・・・。(干物を送ってくれるんですが、硬くってね、これが。母親に頼まれてナタでたたき割って、細かくして、で煮てもらったものです。)
今の子どもだと、えぇ、食えるの?サメって?ということになるんでしょうね。
大丈夫、ヒトの胃袋はとっても丈夫だから。
オマケ:サメやエイの仲間は、体液の浸透圧調整に「尿素」を使っているのです。そのため、新鮮なら問題ないけれど、この尿素が分解されるような条件があると、肉がアンモニア臭くなってしまうことがあるんですね。でも、だいじょうぶですよ。ヒトって結構タフなんです。ホント。
2009.2.16付 朝日歌壇より
哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣にはあり:(ホームレス)公田耕一
高野公彦 評:歩みゆく横浜市内の町名に皮肉を感じたのだろう。
昨日16日の記事「パンのみみ」で取り上げた朝日新聞の記事のなかで、ちらっと触れられていたのがこの歌です。
今この記事を書いている画面の右に「ココログニュース」というのがあるんですが、そこでも取り上げられています。引用してしまいましょう。
注目高まるホームレス歌人:2009.02.17 11:01
不況を背景に急増が続くホームレス。首都圏や京阪神の大都市にとどまらず、金沢など地方都市でも増加の傾向にある。支援が求められる一方、迷惑行為や犯罪の発生などに住民が不安を募らせるといった問題も懸念される。そんな中、毎週月曜日の『朝日新聞』朝刊に掲載される『朝日歌壇』で、自らの居住地を「ホームレス」と記す投稿歌人の存在が話題になっている。
『公田耕一』と名乗るその投稿者の短歌には路上生活の日々が淡々と歌われ、読む人の心を捉えて離さない。
(中略)
先が見えない今という時代を映し出す、公田耕一氏の存在と彼の短歌。注目が高まっているのは、「ホームレス」という境遇が目をひくからだけでなく、作品から響いてくる、この時代を生きる悲しみや切なさが人々の共感を呼ぶからだろう。
(あさよる)
私は「かかし」。私は「立ち尽くしてみる者」です。
2009.2.16付 朝日歌壇より
寒の日にふっと春風木枯しの文語の歌に口語が混じる:(八王子市)相原法則
馬場あき子 評:順調でない天候のこのごろ、寒中にもふいに春風が吹いたりした。そんな春風に誘われ、文語の歌に寛いだ優しい口語が混じる。春風と口語が似合っている。
評の読み方をしくじっているのかなぁ。厳しく吹きつける木枯しを「文語」にたとえ、ふと吹いた春風をやわらかな「口語」にたとえているのではありませんか?
私にはそういう風に読めましたが。
きれいでしょ。
薄緑色の頭胸部。半透明な脚。ビヨウヤナギの葉の上です。
これ、なんだろうなぁ。
アシナガグモの仲間かなぁ。
ヒメグモの仲間かなぁ。
わかりません。
頭は半透明な緑色ですから、眼が目立ちます。眼という器官は、光を吸収します。当たり前ですね。吸収した光から情報を得ているのですから。
で、入っていった光が返ってこないとき、私たちはそれを「黒い」というのです。
ですから、動物の目は必ず黒いのです。
(透明な体のカクレエビも目は黒い。透明人間がもし存在したとして、彼が光で物を見るのなら体は透明でも必ず目は黒いのです。原理的にそうなります。透明人間の視覚について論ぜよ、という試験問題をつくったこともあるんですよ。)
上の写真を撮った後、ぐるっと一回り散歩をして、戻ってきたら、見えなくなっていました。
もうさようならだったかぁ、と思って、よく見たら、私に見つかったのを反省したか、日かげに隠れていました。
これが、2月12日のこと。その後はもう見かけていません。どこかで頑張ってくれていますように。
落葉をガサッ、ガサッと人が歩くような、誰かが掃除でもしているような音がよく聞こえるんです。初めて気づいたときは、気味悪かったんですが、鳥が飛び立つので、そうか、鳥の立てる音か、とは納得していました。
今回、ちゃんと現場を見ました。キジバトが、落葉をさっさっと左右にかきわけていました。おそらく、落葉の下や中に隠れている虫などを捜しているのでしょう。とても規則的な音を立てて落葉をかき分けています。
胴体のあたりが動かずに、首と尾羽を振っていることが、写真としてはぶれてしまったことから分かります。
せっかく冬越しをしている虫なのに、あんまり熱心に食べるなよな、と、虫側に感情移入が強い私は思うのでした。
でも、エサの少ない折、別にキジバトを追い立てたりはしません。
2月10日。この日も暖かい日でした。最高気温が13.7℃までいった日です。
線路際の柵の上をアリが走っていました。これまで、たまにポツンと見かけることはありましたが、この写真は、カメラを固定してこの場所を眺めていると、次から次へと、やってくるのです。組織的にえさ探しに出て来たようでした。
別の場所で別のアリ。
こちらも、数匹が歩き回っていました。
アリが巣穴からえさ探しに出動するようになったのですから
まさしく「啓蟄」ですねぇ。
今年の啓蟄は3月5日ということになっていますが、1カ月ほど早く、虫たちが穴を出始めたようです。
けい‐ちつ【啓蟄】(蟄虫、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意) 二十四節気の一。太陽の黄経が345度の時で、2月の節。太陽暦の3月6日頃に当る。驚蟄。<季語:春>[広辞苑第五版]
この日は最初から、一眼レフではないのですがズームのきくZ3という機種をもっていきました。
木の立っている位置からして、どうしても空を背景にしてしまうので、逆光になり、色彩などが鮮明に出ませんが、それでも、なんとかメジロの蜜吸いらしさの出た写真になったと思います。
ウグイス色ですが、目の周りが白い。
いかにも「メジロ」です。
今日(2/16)あたりは、河津桜がきれいに咲いているというニュースがテレビで流れていましたが、やはり、あちらでもメジロが、蜜を吸っていました。
えらいやっちゃ。テレビにまで出演している。
この写真の、左上と右下とに、2羽のメジロが写っています。
神社の白梅は3、本あるのですが、私に気づいて木を移るときなど、この2羽はいつも一緒でした。つがいかもしれません。鳥だから番(つがい)ですが、擬人化すると、きっと「連れ合い」でしょう。
お元気で。
この季節、姿を見せてくれる虫たちの中で、一番、通常と変わりない姿を見せてくれるのがこのクロヒラタアブです。
ホバリングしながら、椿の花などを訪れるのですが、十分に体が温まった状態になってからお出ましになるということでしょう。
ですから、目に入るときは、完全な運動体制になっているのです。
他の昆虫は、必ずしも体が温まりきっていないところでお目にかかりますので、動きがゆったりしていることも多いのです。
なんだか、すごく親近感がわいてきて、みつけると、気分がいい。
この冬ほど毎日、虫の姿を追い求めたことはなかったので、「例年」ということが分かりませんが、クロヒラタアブは冬にも何とか活動できる数少ない昆虫ということなのでしょう。
また会おうね。
2009.2.8付 朝日歌壇より
パンのみみで一日生きる公田さんを待つ零下となる夜:(加古川市)藤田かのえ
公田さん関係の歌はしばらく様子見にしようかな、と思っていました。どのようにお過ごしか分からないまま掲載するのは失礼なことかな、とも思いましたので。
そうしたら、今日の朝日新聞の朝刊に、結構大きな扱いで掲載されました。アサヒコムでは昨日の掲載です。
秀歌連発のホームレス歌人へ 「連絡とれませんか」:アサヒコム 2009年2月15日20時22分
朝日歌壇に「ホームレス・公田耕一」と名乗る歌人が現れた。昨年末以来ほぼ毎週入選を重ねている。経歴も年齢も不明だが、投稿数に比例して“気になる存在”度は高まるばかりだ。
初投稿で初入選したのは08年12月8日掲載の
〈(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ〉
冒頭は、ダリの時計の絵を連想させる。
4人の選者のうち佐佐木幸綱、永田和宏両氏が「真に迫る、知的な歌」と注目した。投稿には「住所明記」の規定があるが、「住所という存在証明を持たないホームレスという立場は実際にある。排除すべきではない」と、選者の考えが一致した。住所表記は(ホームレス)にすることになった。
入選歌は12月22日掲載の
〈鍵持たぬ生活に慣れ年を越す今さら何を脱ぎ棄(す)てたのか〉
1月5日は
〈パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる〉
ほか一首。19日、
〈日産をリストラになり流れ来たるブラジル人と隣りて眠る〉
26日の
〈親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす〉
は3氏が選んだ。
投稿はがきの消印は「横浜」。本日付の歌壇欄に掲載の歌には、寿町や長者町の地名が詠まれている。
選外の作品からも人物の輪郭が見えてくる。
〈ホームレス襲撃事件と派遣村並ぶ紙面に缶珈琲(コーヒー)零(こぼ)す〉
や
〈美しき星座の下眠りゆくグレコの唄(うた)を聴くは幻〉
野宿の日もあるのか。今の境涯に対する自嘲(じちょう)も見える。
〈百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞〉
朝日歌壇は原則、月曜朝刊掲載。カップ麺(めん)を我慢しても歌を取る姿が浮かぶ。
歌壇係には、ホームレス歌人を思う歌や、「短歌を拠(よりどころ)に生きぬいて」などの励ましが寄せられているが、(ホームレス)では、これらの厚意を届けることができない。
公田さん、何とか連絡がとれませんか。あなたが手にすべき入選一首につきはがき10枚の“投稿謝礼”も宙に浮いているのです。
やっぱりなぁ。初めて取り上げた時に、謝礼があるはずなのだが、渡せているのだろうか?と書きました。受け取っておられないようですね。
詩歌に深い造詣をお持ちの方とお見受けしています。どうか、そのポジションから見える日本社会の姿、人間たちの姿をえぐり出しながら、多少の安定を取り戻されますように。ギリギリの縁に立つお姿は、あまりにも辛い。
米ロの衛星同士が衝突 初の「宇宙交通事故」か:2009年2月12日11時3分
【ワシントン】米主要メディアは11日、米国の衛星携帯電話システム「イリジウム」の衛星と、機能停止したロシアの通信衛星が衝突し、宇宙ごみ(デブリ)がまき散らされたと一斉に報じた。微小なデブリと衛星の衝突は過去にあるが、衛星同士がぶつかる宇宙の「交通事故」は初めてとみられる。
CBSテレビ(電子版)によると、衝突は米東部時間10日正午(日本時間11日午前2時)ごろ、北シベリア上空約790キロで起きた。両衛星とも破壊され、約600のデブリとなって漂っているという。ロシアの衛星は93年に打ち上げられた「コスモス2251号」で、10年ほど前から機能停止していたらしい。
AP通信によると、イリジウム衛星は約560キロ、コスモス2251号は約1トン。
報道によると、米軍は衛星のほか10センチを超えるデブリの軌道を監視しており、国際宇宙ステーション(ISS)など有人の宇宙船に接近していないかどうか調べている。
ISSの高度は約400キロと低いため、今回の衝突の直接の影響は考えにくい。デブリの高度が下がってくると、影響を受ける可能性もあるが、ISSや米スペースシャトルのような有人宇宙船は軌道を変える装置を備えているため、監視網でとらえたデブリなら回避できる。
イリジウムは衛星を利用して世界中どこでも携帯電話が使えるサービスで、予備を含め約80個の衛星が高度約800キロの軌道を回っている。米イリジウム社は、今回の衝突で「携帯電話通信への影響はほぼない」としている。
デブリ問題は近年深刻化しており、一昨年、中国が衛星破壊実験をしたときは「デブリが多数発生する」と国際的に非難された。米航空宇宙局(NASA)によると、10センチを超えるデブリは現在約1万2千個が確認されている。
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◆こんな記事が報道されました。
私の記憶では「イリジウム」社は、初め77個の衛星を打ち上げて、通信網を構築しようとしたのだったと思います。その後、経営がどうのこうので、今のイリジウム社は最初のイリジウム社そのものではなかったと思いますが・・・。
ところで、イリジウム(Ir)という元素の原子番号は77なんですね。そこで、77個の衛星で通信網を、ということで、「イリジウム」と命名したのです。化学屋としては、そういうことか、とニヤッとした思い出があるのです。
◆人工衛星が地球を回るには、秒速8km必要です。とんでもない高速だ、こんな高速で衝突したらものすごい衝突になる、という感覚を持たれるかもしれません。でも、もし、全部が秒速8kmで同じ向きに飛んでいたら、相対的には速度ゼロになります。
軌道の要素はいろいろあるので、たまたま軌道が交差して、今回のような衝突が起こり得るわけですが、その衝突が秒速8kmだったとは限らないことには注意してください。
◆ところで、ヒトという動物の浅知恵!
やるのはいいけれど、いっつも後始末を考えずにやるから、大騒ぎになる。
・人工衛星も始末方法はまだない。
・フロンがそうですね。化学的に安定でいいガスでしたが、廃棄されてオゾンホールをつくった。
・PCBもそうでした。絶縁性の良い油で、電気製品に大量に使われて、でもダイオキシン問題で使えなくなって、今だに未処理のPCBが入ったドラム缶が転がっている。
・原子力の活用も、核廃棄物の処理方法が確立していないのに見切り発車して、いまだに安定的な廃棄法がない。トイレなきマンション、というやつです。
・二酸化炭素もそう。
・メタンハイドレートにいま目をつけてますが、うっかり採掘しそこなって空気中に漏れ始めたら、温暖化を加速しますが、大丈夫かどうか、私はすごく不安です。
・プラスチックもそう。
・・・
◆自分の尻は自分で拭きなさい!
と地球に言われますよ、そのうち、必ず。
というわけで、どういうことになるのかというと、ヒトという生物種の絶滅が危惧されるわけです。
2009.2.8付 朝日俳壇より
纏ひたるこの世の埃雪だるま:(防府市)荒瀬まゆ美
またまた、詩心薄い理科おじさんのおせっかい。
雲の中で水蒸気が雪として結晶化するには、結晶の「核」が必要です。
ですから、雪の結晶一つ一つの中に、結晶核があります。
雪が降ると、何となく口に含んでみたりしたくなりますが、今度一度、雪を、きれいに洗ったコップに入れて、とかして見てください。濁りが見えることがあります。それが結晶核。
というわけで、雪というものはそもそも「この世の埃」を核として成長した結晶なのでした。
◆北京オリンピックのときも話題になりましたが、人工降雨。あれはというと。
上空に氷点下の水蒸気があるのに、核がないために結晶化できずにいるところへ、ドライアイスや、ヨウ化銀などをまくと、それが結晶核になって雪が生じ、とけながら落ちてきて雨になる、という話なのでした。
2009.2.8付 朝日俳壇より
今年またみかんの色の手となりぬ:(川西市)上村敏夫
稲畑汀子 評:みかんが大好きな作者。沢山食べていつの間にか手がみかん色になってしまった。事実が語られた一句。
よっぽどいっぱい食べたんですねぇ。手が黄色になったとは。
私も実は経験があるのです。幼いころ、大好きなミカンを食べまくっていたら、掌が黄色になりました。親に医者へ連れて行かれましたが、白眼のところを見て、大丈夫、目が白いから黄疸ではありません、との診断で安心しました。
皮膚の薄い子どもに特有なのかと思っていましたが、大人の男性もなるんですねぇ。
http://www.40net.co.jp/~kunie/enshu/zemi.htm
ここに「みかん面白ゼミナール」というのがありまして、「みかん講座11:みかんをたくさん食べるとなぜ手が黄色くなるの?」というのを読みましたところ
「実は手だけが黄色くなるのではなく、足の裏や臓器など脂肪があるところは、黄色くなるんです」という。手は、目につきやすい部分だけに「手だけが黄色くなった」という思いこみがあるようだ。手などが黄色くなる傾向は「赤ちゃんや女性、高齢者に見られやすい」と杉浦さん。脂肪の量やホルモンの関係で、男性の場合は、女性よりみかんを多く食べていても、黄色くなりにくいという。
ところで、黄色くなっても大丈夫なのだろうか。日本大学短期大学部食物栄養学科の西山千秋教授は「全く心配することはない。みかんの色素で黄色くなった、ただそれだけのこと」と意に介さない。みかんを食べるのを一時的に抑えれば、元に戻るという。黄色い手は、みかん好きの証拠。ついでに足の裏も黄色くなるか、試してみよう。
ということでした。
2009.2.8付 朝日俳壇より
受験子の母の母なりふはふはす:(群馬県)酒井せつ子
なんかこう、落ち着かないのでしょうね。おばあちゃんがおろおろしてどうすんのよ、とか娘に言われたりしてね。
2008/08/11
一族をどきどきさせし発表会六十過ぎてピアノを習い:(群馬県)酒井せつ子
佐佐木幸綱 評:作者が主役なのだが、他人事のようにうたってユーモラスな味わい。
2008/09/01
猫のらりくらりしてゐる夏の寺:(群馬県)酒井せつ子
2008/09/08
本当に忘れることもまた涼し:(群馬県)酒井せつ子
2008/10/06
人間が名付け親なり鰯雲:(群馬県)酒井せつ子
2008/12/22
朝焼けの中の子猫を拾ひけり:(群馬県)酒井せつ子
長谷川櫂 評:朝焼けの空のもと、子猫を拾った。ふつうに詠めば、そうなる。「中の」が大胆。
2009/01/19
雪降れば雪を喜び雨降れば雨に感謝す山寺暮らし:(群馬県)酒井せつ子
永田和宏 評:内容は単純だが歌としてそれを読む喜びを感じさせてくれる。
ああ、あの方かぁ、と思い出していただけたでしょうか。
悠然と自然の中にひたっておられる方ですが、孫となるとまた、違うんでしょうね。
2009.2.8付 朝日俳壇より
電柱に雪の速さをはかりをり:(可児市)金子嘉幸
大串章 評:雪が電柱を横切ってゆく。後ろの電柱が動かないので降る雪の速さがよく分かる。「はかりをり」に実感あり。
大串氏の評でいいのだとは思うのですが、私、一瞬、「雪が積もっていく速さ」ではないか、という思いがよぎったのです。
さっき見た時は、電柱のあそこまでだったのが、もう、あんなに積もってしまった。この雪は積もるなぁ、と眺めている、というような。
可児市は岐阜県ですね。どのくらい雪の降るところなのか、存じ上げません。
◆ワタクシ雪は嫌いっ!
すべるでしょ。左脚が滑り始めたら止めるすべなし、ただ、何とかうまく転ぶだけ。
こわごわと、歩幅が10cmもなくなってしまいます。
雪の中の歩き方は「またぎ歩き」ですね。脚を上へ引き上げて、前へ出す。
5cmも積もったら、ワタシまたげない!
雪が降ったら、私は隠居。絶対外になんか出ませんからねっ!
2009.2.8付 朝日俳壇より
白菜を干すとこ猫の好きなとこ:(日向市)甲斐今男
猫の居場所は、春夏秋冬、一番居心地の良いところ。
夏はひんやり風の道、冬はほっこり日溜りに。
無防備にお腹なんか出してひっくり返っていて、いいのかなぁ。
というのが猫。
2009.2.8付 朝日俳壇より
モンローとディマジオの来し遠き冬:(千葉市)甲本照夫
長谷川櫂 評:遠い遠い冬のできごと。新婚旅行で来日した二人は、その後、別れ、時代は移り変わったが、華やかな思い出だけは残っている。
「遠い遠い」ってどのくらい遠いのだろうと、調べてみたら、二人が来日したのは1954年だそうです。私は6歳、いくらなんでも知らないわけだ。
モンローが自殺したのは1962年。私14歳、中学生。覚えています。あれは遠い夏でした。
私たち団塊のガキが色気づいてきた頃でした。
2009.2.8付 朝日俳壇より
水草を頭に鯉の年賀かな:(宇治市)近藤朱蔵
金子兜太 評:当意即妙の楽しさ。
寒鯉の動かざること山の如し:(いわき市)鈴木昭光
大きな鯉のゆったりした動き、あるいは不動、そして、水面の波のゆったりしたひろがり。似合っています。
メダカじゃ、ちょっとな。
2009.2.8付 朝日俳壇より
豆撒けばたちまち拾ふ妻の鬼:(厚木市)田中啓介
金子兜太 評:辛み少々の愛妻俳句。豆撒きの句としても独特。
鬼は角があるから草食性だ、という話に納得してしまった私の意識に映ったこの句の情景をご想像下さい。
何もいいません。
年の数だけ豆を食うのはもうめんどくさい。
豆は胃の中にまとめて撒きました。
身の内の鬼も老いたり年の豆:(神奈川県)中島やさか
身の内の鬼に食べてもらいました。追い出すことはありません。ともに年を重ねる鬼さんです。
昔話の、福の神より貧乏神を応援するじいさんばあさんに感動した一家です。
2009.2.8付 朝日歌壇より
たぶん齢(とし)相応ならむ矍鑠(かくしゃく)にほど遠くして炬燵を愛す:(東京都)志摩華子
私もコタツ好きです。左脚は全然発熱能力がないので、まるで気温と同じくらいに冷たくなって、紫色になってしまいます。冬はつらい。教師現役当時も、冬の体育館での行事、始業式や卒業式はほとんどすべてパス!だって、痛いほどに左脚が冷たくなってしまうんですもの。
コタツのほか。風呂もいいですね。冬の御馳走。
寒いのはつらい、炬燵でぬくぬく、いいことです。春になったらちょっぴりカクシャクをやってください。春よこい、はやくこい。
◆また、余談。
こんな左足の私でも、布団にもぐりこんでミノムシやってると、意外とちゃんと温まるんです。脚が冷えて眠れない、という経験はないんですね。
妻は湯たんぽ使ってます。
女性の冷え性って、万国共通らしいですよ。夫は妻の足温器、という言葉もあるやに聞いております。
2009.2.8付 朝日歌壇より
雪になり損ねた雨が濡らしゆく玉葱畑の青の清しさ:(福山市)武 暁
通常、地上で雨として降るときも、雲の中では雪もしくは氷の粒なんですね。落下途中が冷たいと雪のまま降り、暖かいと溶けて雨になる。
「雪になり損ねた雨」って、言葉としてのイマジネーション喚起力は強いものがありますが・・・。どうも、身も蓋もないことを言ってしまった。ゴメンナサイ。
2008.2.8付 朝日歌壇より
迷ひ無くぐいぐい描く幼子の私の顔は黄緑の鼻:(深谷市)森一枝
「大人の常識」にとらわれていませんからね、幼い人は。大きな紙に思い切って描く絵の面白さ。これ、成長に大事なんですよね。常識は押しつけない方がいい。
紙を折ったり破いたり、音が面白いのか、よくやります。大人は後がめんどくさいから、あまりやらせたくないけれど。でもね、いっぱいやらせてあげてください。
幼い子の描く絵も同じ。何が何だか分からないような絵から、だんだん形や色や、抽象されてくるようになります。それは、子の認識の発達でもあるのです。あのものすごい発達の過程をつぶさに見、一緒に共有することができる、これほどの幸せがどこにありましょうか。
今、この時しかないんです。
楽しんでください。
寝る前の絵本自分で読むようになり失った両膝の重み:(和泉市)星田美紀
高野公彦 評:幼子の成長を喜びつつ湧く一抹の寂しさ。
こちらはもう、ずいぶん大きくなられました。父親の場合だと、胡坐をかいて、その中にすっぽりはまり込むように子を抱いて、絵本を読むのは楽しかったですねぇ。
本好きの私でしたが、子どもの本には全く知識がなくて、ほるぷ出版の絵本シリーズを買いこんで、子どもの本の奥行きを知り、読み聞かせということを知り、ずいぶん読みましたっけ。
子が成長するということは、親との接触の薄れでもあります。でも、思春期ごろは、肌の接触はなくても、心理的な、心の接触が一番大事な時期です。子から手が離れるというのは、思春期が終わる頃のことです。
◆何だか今回、以前の歌が気になって。
2008/03/24
泣き声をやむなくBGMにして玉ねぎ炒める肌寒き午後
高野公彦 評:泣き止まぬ赤子を気にしつつ食事の支度。あゝしんど、と言いたい場面だろう。
2008/03/31
ひとしきり乳飲みしのち「これくらいにしといたろか」という顔をする
永田和宏 評:いっぱいに乳を吸ったあげく「これくらいにしといたろか」とは、わが子ながらあっぱれ。
2008/05/26
乳を吸う口の動きが止まるまで明日着る服考えており
2008/08/11
母があとひとつき足らずで逝くことも知らずに買ったサザンのCD
高野公彦 評:サザンオールスターズの曲を楽しみつつ、ちょっぴり疚しい気分になるのだろう。
2008/08/18
送信後のメール消せどもはじめからなかったことにはならない記憶
佐佐木幸綱 評:後悔先に立たず、の現代版。機械は消せるが記憶は消せないのである。
2008/09/15
抱きしめた背中の皮膚がペラペラとめくれて夏の終わり近づく
2008/10/06
寿司ネタのごとくにネコを背に乗せて本読む母に会いたいも一度
2008/10/20
上りきった先には何があるかなど関係なく子が上る階段
2008/10/27
「百歳まで生きるで、まだまだ死なんよ」と嘘の嫌いな母がついた嘘
2008/11/09
「日ぃみじかなった」と母の口真似をしてみる神無月の夕暮れ
2008/12/01
何年後吾は言うだろう子の髪を洗った頃が幸せだったと
2008/12/14
丸焼きの子豚の頭なでている近所の犬の頭のように
2009/01/26
鍋だけは一人でするもんじゃないなと父が小さく笑う寒い日
永田和宏 評:一人暮らしの父の侘しさを敏感にキャッチ。「小さく笑う」がいかにも巧い。
私、また誤解をやらかしたようですね。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1b52.html
「家族がわいわい言いながらつつく鍋は一家団欒の象徴。楽しいものだったでしょう。
父としては子の世話を焼いたりできますし。それが一人暮らしになって、ふっと洩らすため息と苦い思いの微笑。」などと書いてしまいました。
妻を失った夫の寂しさだったのですね。子は離れていくもの。思い出ではあるけれど、去って行って当たり前。人生、最終的な伴侶は配偶者。配偶者を失うということの欠失感は生きる力そのものを損ないかねない。
鍋などつつくと、湯気の向こう側に妻がいるようで、たまらない気分になる、ということだったのかもしれません。
2008.2.8付 朝日歌壇より
二段ベッドの上で寝ていし子の怒り天井の凹みの跡に残れり:(札幌市)山本紀子
最初、象徴的に天井のしみとか、たわみに、昔の「子の怒り」がしみこんでいる、というような受け取り方をしたのですが、どうも、違うようですね。
具体的に、お子さんが、面白くなくて、うっ屈した思いで、天井を殴ったのか蹴ったのか、そのくぼみがあるのでしょう。
二段ベッドというものの経験がないので、どの程度天井に近いのかはわかりません。
二段ということは、下の段に兄弟も寝ていたのでしょう。兄弟のうっ屈をどう感じておられたのか。
どうかなぁ、今は成人して家を離れたお子さんへの思いだ、と受け取っていいですか?
◆全くつまらない余談。
私、ベッドは苦手です。小学生くらいの頃、秋田への寝台急行(多分、津軽○号)の、3段ベッドで、私が一番下の段に寝かされて、中段に母が寝ていて、夜中。
向いのベッドのご婦人が母を起こして「お宅のお子さんが落ちてます」。
あわてて、母は床に転がったまま眠りこけている私を「拾い上げ」て、ベッドに押し込んだのだそうです。落下防止のベルト2本の間から、転げ落ちて、目も覚まさずに寝たままだった、と、後々、ずいぶんからかわれたものでした。
2008.2.8付 朝日歌壇より
思春期の娘は一度で返事せずこれは食べるの何時に帰るの:(北海道伊達市)今奈奈
お名前を覚えて居りまして、ああ、そうなのか、と。
私は高校教師をしておりましたが、子らが高校生くらいの頃が一番「緊張」してましたね。
子の小学校時代の同窓生を教えたこともあります。あれは、まいった。
その後、子を教えた先生と同僚になったこともあります。
子の同窓生が教師になって、同僚として働いたこともあります。
教師というものは、否応なしに人間関係の網目の中に強く編み込まれるものなのです。
作者もおそらく、生徒とご自分の子と・・・。まったくまぁ、とかいいながら、苦笑いなさっているのでしょう。
俳歌倉データベースを検索したら、以下の歌がヒットしました。全部、このブログの記事に使わせていただいたと思いますが、再掲します。
2008/12/08
全員が古文の訳を書き取っていると思いきや書く振り一名
2008/11/09
夜の雨 まだ雨である安堵さで心を音の受け皿にする
2008/09/22
内地への就職希望の生徒らと額を寄せて文整える
高野公彦 評:生徒たちのために知恵を絞る先生。
2008/08/18
生徒見る目の険しさを同僚の我の顔見る視線で気づく
2009.2.8付 朝日歌壇より
老いし吾施術せし目に雪深し時には雪に色ありて見ゆ:(山形市)三浦トミエ
歌を解釈することが難しいと言った舌の根も乾かないうちに、また困難な歌に挑戦します。
何の手術をなさったのだろう?ということなのです。
それが白内障のような眼の手術だったら・・・ひょっとして、クリアになった視界に映る雪には、本当に「色」が見えるかもしれません。
手術が別の内科的なものだったら、術後のベッドから見る雪に「命の色」を見ておられるかもしれません。
あえて、このブログの読者の方々の想像力を刺激してみたいと思いました。
どのように読めますか?
2008.2.8付 朝日歌壇より
この人が私を守って二十五年愛の言葉はいまだ聞かずも:(越谷市)黒田祐花
作者のお名前を見て、アレっとなりまして。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e130.html
ここで、「受験番号」という題で、黒田さんの歌を紹介しています。
2009/02/02
銀行のカードの暗証番号は合格通知の受験番号
ここで、私はトンチンカンなことを書きました。大の大人をつかまえて「大人になった気分ですね。」なんて書いてしまった。
う~む。この銀行カードの持ち主は誰なんだ?分からなくなってしまいました。
2008年の正月以来、私の関心を惹いた歌や句をテキストにしてありますが、そこから作者のお名前を検索すると、こうなりました。ミニ歌集ですね。
2008/10/13
硝子でもプラスチックでも魔法でもこの美しき柘榴はつくれぬ
2008/11/03
老人の幼稚園だとデイケアにおどけて通う祖母は百歳
2008/11/17
銀座までショートケーキをたべにいく祖母は百歳大島を着て
2008/12/14
25冊の短編集を編んできた銀婚式のあなたと私{高野公彦選}
照れながら息子がつれてきたひとはやさしく話す京のことばで{永田和宏選}
「短編集」かなぁ。いくつもの章からなる「大長編」のような気がするなぁ。
おばあ様から見て、ひ孫の方が結婚しようとなさっているのでしょ。命はつながる、という大長編だと思いますが。
それにしても、歌を解釈するって、恥多いことですねぇ。顔が赤くなります。
2009.2.8付 朝日歌壇より
膨張と収縮ありて湯湯婆(ゆたんぽ)のブラックホールに春の海眠る:(八王子市)武藤オキ
馬場あき子 評:湯湯婆のブラックホールという捉え方は面白い。その中に眠る温かな春の波形は湯湯婆の背の波形からの連想か。
私はなまじ、理系で、ブラックホールというものについて、多少の知識があるものですから、この歌の意味が捉えられなくなっているのかもしれません。
湯たんぽとブラックホール、どうにも、つながりません。
湯たんぽの栓をとったところにぽっかりと開いている黒い口、これがブラックホールの連想なのでしょうか。それは、ちょっとつらいなぁ。
「春の海眠る」というのは、湯たんぽが揺れるときの「ちゃぷん、ちゃぽん」という音と振動のことでしょう。
「波形」からの連想ではないと私は想像します。
◆湯たんぽは揺れても、ちゃぷんで済みますが、平たい容器にいれた液体が揺れると、はねてこぼれやすいですね。皿にいれたスープなんかを運ぼうとすると、揺れてこぼれます。
この頃、地震のときに、石油タンクの中の液体が揺れてタンクを破壊したりすることがあって、これを「スロッシング」というのだということが、大分知られてきたと思います。
皿のスープの揺れを思い浮かべて下さい。あれが石油タンク内で起こったら大変ですね。
湯たんぽが「ちゃぷん」と音を立てるのも、内部でスロッシングが起こっているからです。湯たんぽの中は見えませんが、想像してみてください。
2009.2.8付 朝日歌壇より
父の死を詠んでしまえば現実を認めてしまい過去となりゆく:(筑紫野市)二宮正博
現実を認めたら過去になってしまうのでしょうか?心の中に思い出の中にいてもらっても、やっぱり過去になっていくのではないでしょうか?
どっちにせよ過去のものになっていくのなら、現実と正面から向かい合って、お父様の死をきちんと受け入れることこそが、本当の弔いになるのではないでしょうか?
あなたの死を受け入れ、私はこうやって生きていますよ。と。
苦しいこと、悲しいこと、切ないこと、いろいろありますが、一番大事なのは「出来事との正面衝突」だ、と私は考えています。そらしちゃいけません。それしてしまったら、何も生まれてきません。あの時あの出来事がなかったらな、という過去への仮定法しか生まれてきません。過去への仮定法は全く新しいものを産みません。
どのような事態であれ、正面衝突することから、次のステップが生まれるのです。
正面衝突しましょう。
2009/1/26
悲しみは乗り越えるものではなくてゆっくりと忘れていくものである:(甲府市)網倉てる美
「忘れる」ということは大事なことです。生きていくなかで出会う喜怒哀楽のすべてを覚えているなんて、重たすぎます。とてもそんなに引きずって生きていくことはできません。
哀しみのさなかにある人が、「決して忘れません」と語るのを見るのはつらい。「忘れて」ください。悲しみを希釈してください。それを責めることのできる人なんて誰もいません。
人は忘れながらしか生きることができないものなのです。
2009.2.8付 朝日歌壇より
いまガザを攻めに攻めてる男らが<アウシュビッツ>の同胞なのか:(松戸市)東 洋
戦争の痛みを知る、とはどういうことなのでしょう?
「正義」というものがいかに相対的なものであるのか。
「正義」「大義」があれば戦争は正当化されるのか。
◆手元に新聞の通販の広告があります。
「ブロンズ像 正義の女神 テーミス」
左手に善悪をはかる「裁きの天秤」。
右手には社会を悪徳から守る剣。
目隠しは、公平無私な裁きのしるし。
ギリシャ神話の正義の女神、テーミス像は、
正義と秩序の守護神とされてきました。
こういう解説が書かれています。
どうも、正義って怖いですね。「私は正義である」といわれると、正面切って反論しにくい。
反論すれば、「おまえは不正を許すのか」と問われ、きちっと答えにくい。
正義は、「剣」のごとく、世を二つに切り分ける。すっきりしていて、気分はいいでしょう。
でも、世の中って、二つに切り分けられるものでしょうか?あいまいな部分って全然ないんでしょうか?
本当は、正義って「相対的なもの」ではないでしょうか。
ある側にとっての正義は、他の側には暴虐であるかもしれません。
◆不健康であるより健康である方がいい、と誰しも思っています。今の日本の健康信仰はものすごいですよね。体を害してでも健康でありたい、というような矛盾した出来事が起こっています。
地球に優しくしよう、自然を大切にしよう。
そういわれたら、誰も逆らえませんよね。
現在の文化的な生活は、反自然的で、不健康だ。自然に戻ろう、健康に自然の中を歩こう。と言われたら、それはおかしい、と反論できますか?
でも、ワンダーフォーゲルって、そういうものだったのでしょ?
ワンダーフォーゲルから、ヒトラーユーゲントへは、ほんの一歩、だったのでしょ?
◆朝日新聞の編集委員で、私より一つ年上くらいの加藤千洋さんが、アスパラ・クラブの中でこんな文章を書いています。
いまも「散歩党」があったなら:加藤千洋:09.02.05
長らく「無党派」を自認してきたが、やっと支持してもいいなという党派にめぐり合った。
それは「散歩党」という。
「党首」は一万円札に肖像をのこし、慶応義塾の創立者として知られる、かの福澤諭吉先生だ。
健康な身体をすべての基本と考えた先生は日常生活でもそれを実践した。その一つが毎朝の散歩。慶応義塾でも体育教育を早くから取り入れたという。
散歩といってもただ漫然と、ではなかった。夏は朝4時半、冬は5時半に起床。ただちに銅鑼(どら)を鳴らし、「党員」を招集。
ちなみに当時の住まいは東京・三田の慶応大学キャンパスにあった。党員は慶応義塾の学生たちだ。福澤先生を先頭に、まだ明けやらぬ早朝の東京を闊歩(かっぽ)した人々が、これすなわち「散歩党」の同志たちだったのだ。
・・・(中略)
「散歩党」は先生の没後、自然消滅してしまったようだが、再建する方は現れないか。いまなら名称は「ウオーキング党」とでもいうのだろうか。
ちょっと、安易に過ぎませんか?
本当に「健康な身体はすべての基本」ですか?
身体障害者というポジションから眺めると、「それってウソでしょ」といえます。
健康な身体をたたえて、障害者を虐殺しましたね、ナチスは。ゲルマン民族の優秀な遺伝子を守るためでしょう。そして、ユダヤ人虐殺も。
日本では虐殺まではいかなかったにしても、障害者は実質的な座敷牢閉じ込め状態、存在そのものが非国民にされたのでした。
「散歩党」って恐ろしいなぁ。徒党を組んで正義の散歩、肩で風を切って早朝の東京を闊歩する。
いやですよ、今の私のように、歩くことがきつくなってきたら、散歩党から締め出されるんでしょ。
健康=傲慢、と私のポジションからは見えます。
◆もう一回。
正義ってこわいな。
2009.2.8付 朝日歌壇より
魚焦げる鍋吹きこぼれるチャイム鳴る二匹の猫と病妻が呼ぶ:(さいたま市)石塚義夫
永田和宏 評:病気の妻に代わっての家事労働。てんてこ舞いの様子がほほ笑ましい。妻はこんなに忙しかったのかとの思いも。
笑いを含んだ歌ですから、おそらく、突然の発熱か何かで寝込まれてしまったけれど、重い病気ではないと想像します。
猫が不満を発して、私は不満だぁ~、と鳴くと、結構迫力ありますよね。
タイミングの悪い時に限って、チャイムが鳴り、電話が鳴るんです、必ず。
やかんに湯を沸かしながら、自分の朝食を準備していたら、沸騰が始まり湯気がもうもう。
妻「お湯沸いてるわよ」
私「知らんのか。お湯というものは煮込めば煮込むほどうまくなるんだ!」
2009.2.8付 朝日歌壇より
ゆうらりと横揺れのまま駅に着く荒川線の一輛電車:(東京都)久保田仁
永田和宏 評:日常のなんでもない一齣をゆっくりと捉えた。
東京以外の方のために註をつけておきます。荒川線は都電というやつで、いわゆる「チンチン電車」です。
今は新型車両が走っています。昭和初期の東京市電をイメージした新型車両も走ります。
というわけで、東京にわずかに残った路面電車の姿をイメージしながらもう一回、歌を味わってみてください。
◆昔話:高校教師の研修会「全国教研」というやつで、土佐に行ったとき。
土佐には「とでん」が走っていました。「土佐電鉄」略して「土電」です。
行先表示で「ごめん」と謝りながら走っていました。「後免」線に乗った時の話です。
2009.2.8付 朝日歌壇・俳壇より
元気いい双子生まれて過疎の村大事件だと喜びにわく:(沼津市)岩城英雄
大寒の赤児全身脈拍:(横浜市)我妻幸男
金子兜太 評:この「赤児」まさに命の塊。
一月の一日の乳吸ひにけり:(福岡市)加藤秀則{金子兜太、長谷川櫂 選}
長谷川櫂 評:元日の赤ん坊。「一月の一日の乳」が力強い。命の乳である。
何とまぁ、言葉はありませんね。赤ちゃんというものは、本当に輝くものです。(以前、病院の待合室で、赤ちゃんの命のエネルギーが輝いた話を、書いたように思います。)
生まれて、無力に見える赤ちゃんが、歩き、しゃべり。ものすごい速さで成長していきます。翻って、10年前の私、だめだぁ、なんもかわってないな。枯れていく。
手元に、朝日新聞2月5日付紙面の、新聞広告があります。「ノリタケ」の広告です。私は別にノリタケの広告をしたいわけではないのですが、その広告文を引用します。
回転しないミキサー
現代アートのように美しい、この螺旋状のメタル。実はこれ、回転しないミキサーなのです。飲料や乳製品などを製造するパイプの中に固定され、原料をなめらかに混ぜ合わせる役割をします。閉じたパイプの中でかき混ぜるから、安全で衛生的。たとえばビールをつくる工程で、炭酸ガスを混ぜ合わせ、クリーミィな泡とおいしいのどごしを生み出す、
これも、ノリタケの技術のひとつです。
こういう形をしたステンレス製のものの写真が広告には掲載されています。
多分、この広告写真と広告文を読んで、何を言っているのかが分かる人はほとんどいないでしょう、工学系の人なら別として。私は理学系ですが、この装置の原理はおそらく40年近く昔に耳にして感動し、自分の化学教師としてのキャリアの中でも、手動でこの原理を使いました。
どういう話なのか、簡単に御紹介します。
長方形の板を180度ひねったものが基本です。右にひねるか左にひねるかの違いはあります。これを、上の図の直線部分が直交するように管の中に配置するのです。そうして、管の中に液体を流すと、流れがひねられること、次のエレメントに入る時に半分に分割されること、これが液体を撹拌することになるのです。
撹拌するというと、ビーカーの中をガラス棒でかき回すようなイメージが強いと思いますが、液体が全体として一緒に回ってしまうと、意外と混じらないものなのです。特に粘っこいものは混じりにくいですね。あるいは、異なる種類の粉末を均一に混ぜようとしても、なかなか混じりません。
このスタティック・ミキサーの一番基本的な働きは、ひねって、半分にする、というところにあります。
パイ生地をこねるときに、二つに折って伸ばし、また二つに折って伸ばし、ということを繰り返しますね。10回やれば、1024枚になります。この操作で、パイの重なり合った薄い皮ができるわけです。
パン生地をこねる、ピザパイの生地をこねる、みんな、二つに折っては押し伸ばし、という基本動作で均一にこねていきます。
スタティック・ミキサーも、混じりにくい液体を二つに割って、二つに割って・・・と繰り返して細分し、均一に混ぜるのです。
この他に、ひねりが入るので、液体内部の混合も起こります。
というわけで、管の中にこのスタティック・ミキサーを設置して、混合したい液体を流すだけで混ざり合うというわけでした。
http://www.noritake.co.jp/eeg/kakouki/about_staticmixer/index.html
↑このページに解説があり、混ざっていく様子の動画も見られます。(インターネット・エクスプローラー用になっていて、ファイア・フォックスでは見られませんでした。念のため。)
面白いもの好きの方にはお勧めです。ど~ぞ。
◆化学実験で、粉末を均一に混ぜたいことがあります。板の上に置いて匙でかき回してもなかなかうまく混じりません。
そういうときは、ひと山にまとめ、4つに切ります。右上の部分を左下へ、左上の部分を右下へ、ざっとでいいですから、移動させて、またひと山にまとめます。
そうしたら、また4つに切って、混ぜます。・・・。これを繰り返すと、結構すんなりと混じるのですね。
硫黄粉末と亜鉛粉末、硫黄粉末と銅粉末、酸化鉄粉末とアルミニウム粉末など、いろいろ混ぜたいことがありました。密度が異なると、なかなかうまく混じりません。こういうときは上に書いたような、分けては混ぜ、分けては混ぜ、という方法が有効です。おためしあれ。
シジュウカラです。
しじゅう‐から【四十雀】スズメ目シジュウカラ科の鳥。小形で、頭頂・のどなどは黒、背は緑黄、頬と胸腹とは白。胸腹の中央に縦の黒色帯が1本ある。日本の林地の鳥の代表。ユーラシア大陸に広く分布。<季語:夏>[広辞苑第五版]
何で夏の季語なのかなぁ。この冬の季節、元気に活動しているのは鳥ばっかり。その結果、鳥のウンチばっかり目立つ季節です。シジュウカラもいっぱい来ているのになぁ。冬のシジュウカラを詠んだら「季違い」になっちゃうのかなぁ?不自由なことですねぇ、自由に詠めばいいのにね。
立春に切り込む声やシジュウカラ:崩彦
いつも、マクロレンズをつけたまま散歩していますので、このくらいの写真しか撮れません。レフじゃない中級機でも、ズームのあるのを持ち歩いていればもう少しアップにできるのですが、基本的に私の興味が虫なものですから。
「から」という名がついていたら、「雀」という字をあてることになります。別に「アラフォー」の方が、「さあ、40から頑張ろう!」ではありません。
日が差せば部屋の中は温室効果で暖房が不要なほど暖かいのですが、こういう日は、寒い。
別にハドソン川に不時着水した飛行機の話ではありません。もっとくだらない話です。途中、話がマニアックになるかもしれません、つまらなかったら読み飛ばしてください。
◆こんな記事が載っていました。
ゲーム「桃鉄」設定に不満、威力業務妨害容疑で男逮捕:アサヒコム2009年2月2日11時46分
ゲーム制作会社「ハドソン」(東京都港区)に爆弾を送りつけるなどとの内容のメールを送ったとして、警視庁は○○○○を威力業務妨害の疑いで逮捕したと2日発表した。携帯電話のゲーム「桃太郎電鉄iモード」の基本設定が気に入らなかったのが理由だという。(後略)
◆この事件はどうでもいいんです、私には。「ハドソン」という名前が私のパソコン歴の最初にあるものですから、「何ということを!」という気持ちにさせられたのです。
ついこの間、朝日新聞の「キミの名は」にハドソンの由来が載っていて懐かしかく思い出したばかりでした。
[キミの名は]ハドソン:郷土愛こもる手書きのハチ(朝日新聞 2009/01/24)
「桃太郎電鉄」や「ボンバーマン」など、累計出荷本数が1千万本を超える人気作を擁する日本を代表するゲームソフトメーカーである。だが、社名のおかげで、「本社はやはりニューヨークのハドソン川のほとりですか?」と、外資系企業に間違われることが多いそうだ。
創業は73年。通信機器と美術写真の販売を目的に、工藤裕司氏が弟とアマチュア無線ショップを札幌市に開いたのが始まりだった。
実は「ハドソン」は蒸気機関車の呼び名だ。函館線では急行「ニセコ」を牽引していた「C62形」は、「ハドソン形」とも呼ばれ、ニセコ出身の工藤氏にはあこがれの蒸気機関車だった。大のSL好きだった工藤氏は、子どものころから「もしも会社をつくったら『ハドソン』にしよう」と心に決めていたそうだ。旧国鉄の花形蒸気機関車だったが、偶然にもハドソン創業と前後して引退している。
社名のロゴのハチには「ハチスケ」という名が付いている。同社のゲームにも登場する人気キャラクターである。これは工藤氏の手書きのイラストをそのまま採用したものだ。創業時の店「CQハドソン」の無線コールサインは「JA8YOI」。北海道エリアを意味する「JA8」の「8」からハチスケが生まれたのだ。工藤氏が会社を離れた現在も、同社の社名とロゴには北海道への郷土愛が詰まっているようだ。
◆こんな記事もあったんですよ。
牛が歌手デビュー? 3頭がユニット、鳴き声が着うたに:朝日新聞 2009年1月13日
丑(うし)年にあやかり、乳牛が歌手デビュー?
北海道の牧場で飼育されている乳牛3頭が音楽ユニット「U-SHI」を結成し、その歌声が携帯電話の着うたとして全国に配信され、話題を呼んでいる。有名な楽曲にあわせて高音や低音の鳴き声が響き、ハーモニーを奏でる。
牧場主も驚くできばえで、製作会社は「モー烈に盛り上げたい」と意気込む。ダウンロード数が増えれば、CDデビューも検討するという。
U-SHIは、北海道恵庭市のむらかみ牧場(村上隆彦代表)で飼育される3頭の乳牛。美しい鳴き声と愛くるしさを基準に、同牧場の約130頭から選ばれた。「スカウト」したのは、北海道発祥のゲームソフト会社「ハドソン」(東京都港区)。「丑年に牛業界を代表する超ビッグアーティストが衝撃のデビュー」と売り込んでいる。
「着信★うし♪」として配信されているのは、年末年始にちなんだ「お正月」「一月一日」「春の海」、コンサートの定番「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」の計5曲。3頭の「歌声」がリズムと音程に合わせて編集され、高音と低音を織り交ぜたハーモニーを奏でている。
昨年12月、同社のスタッフが牧場に録音機材を持ち込み、1日がかりで親牛、子牛からバリエーションに富む鳴き声を「レコーディング」した。冷たい風が吹いて親牛が鳴かず、難航したという。
U-SHIの「育ての親」の村上代表は、編集された3頭の「美声」を聞いてにっこり。「普段はうるさいけど、組み合わせると違う風に聞こえる」と驚いている。
U-SHIの歌声は、「着うた」「着うたフル」でiモードなどから配信されている。
◆私がハドソンにこだわっているのは、ゲーム製作会社としてではないのです。
実は、ハドソンは、パソコン(マイコン)初期の時代に、強力なBASICを開発・販売していたのです。
その名も「Hu-BASIC」(ヒュー・ベイシック)といいます。
ワンボードのマイクロコンピューター、NECのTK-80の時代。さすがにまだ私は手を出していませんでした。プログラム電卓YHP-25mini で遊んでいました。(たった49ステップのマシン語的プログラムを作って。)
やがて、シャープのMZ-80が出て、ほしくなってきました。アップルⅡにBASICが搭載されたというので、あこがれました。
当時のNECのPC-8001は、CPUがZ-80互換で、クロックが4MHzです。信じられますか?メモリは32kBとかね。
N-BASICというのが走ったのですが、正直のところ、魅力は感じませんでした。(後のN88-BASICにも魅力は感じませんでした。)
◆シャープのCZ-800(=X1)というパソコンが出ました。カセットテープで色々な言語が楽しめたのです。ついに、私のパソコン歴が始まったのでした。その中にHu-BASICもありました。PASCAL、LOGO、Cなども楽しめました。
Hu-BASICでは、画面に点を打つ座標として、画面の左上隅を(0,0)にする物理座標の他に、任意の場所を原点とし、縦横の座標を任意に設定できる、論理座標が使えたのです。グラフ用紙に向かって、自分が描きたいグラフを描く、あの感触です。嬉しかったなぁ。
ジャンプする時や、サブルーチンを呼ぶときも、行番号ではなく、ラベルが使えたのです。
プログラムを考える上で、圧倒的な使いやすさでした。遅かったけれど、フラクタルグラフィックスもやったのですよ。
◆後継機の「X1-turbo」も使いました。
その時、おまけについていたクリスタルガラスのペン置きです。
5inchフロッピーで、10種類くらいかなぁ、言語を買いこんできて、楽しみました。ちゃちなゲームよりはるかに面白いものです、言語を探検するのは。
マニアたちが、OSを作ろうという企画もあって、シャープOS略して「SOS」をつくる企画が雑誌で進行したりもした、そういう時代でした。
その後、いろいろな、パソコンや、言語を使ってきましたが、Hu-BASICはいまだに、懐かしく、最高の言語だったと思いだされます。
(ちなみに現在は、CとBASICで時々遊んでいます。)
◆ハドソンじゃないですが、思い出。
ある高校で、入試の受付から、業務一切、入試後の後始末事務、まで、AWKという言語ですべてのプログラムを私が一人で書きおろして、やり抜いたことがあります。あれは楽しかったなぁ。
ハドソンを貶めるようなことをする奴は、許せません。
ハドソンが今後も活躍しまうように。
電柱に貼り付けてあるプレートなんですが、妙に「顔」っぽく見えませんか?
キティちゃん風に見えないこともない。
どうも、鋭敏な嗅覚を失った、社会性の強いヒトという動物の特性なのかなぁ、私たち視覚に頼りますよね。
「顔」というパターンの基本は「目と口」でしょうか。ですから、3つの点があれば顔に見立てることができるんですね、我々のパターン認識は。
これなんかいかがですか?
イヌホウズキの実に黒い斑点ができただけなんですが、顔に見えるでしょ。
この場合は、目と鼻ですかね、パターンとしては。
ずいぶん前に撮った、「顔パターン」の写真を引っ張り出してきましたので、ご覧ください。
これは、布地の模様です。別に顔を描いた模様ではないのですが、にこにこ顔ですね。
ビックリ顔に見えませんか?同じようなパターンの繰り返しの中から切り出したものです。
これは、ちょっと尾籠かな。かつて勤務していた学校の男子トイレにいた「パンダ」。
どうみてもパンダでしょ。
もうひとつ。
天井の蛍光灯がちょうど「口」の位置になるように撮ってみました。
目と口、私達の認識パターンの面白さであると同時に、写真に「霊」が写ったなどと騒ぐ原因でもあります。
ランダムな模様をただランダムに受け止めることができなくて、なにかのパターンにあてはめ、見立てて、安心なり、物語なりを得ようとする傾向が私たちの中にある、ということを認識しておくことは悪くないでしょう。
◆昨日の朝日新聞にこんなコラムがありました。
月並みに(2/8)
夜の飛行機雲
凍て付くというほどではないが、冷たく冴え渡った先日の夜半のことだった。たばこを吸おうと、マンションの庭に出た。正面の空に輝くオリオン座の横に、中天から白く細い帯のようなものが長く垂れ下がっている。
最初は何だか、まったく分からなかった。美しくはあるが少々不気味な気配もある。と、幅が広くなり、色も薄くなり始めた。ふと、思い至る。飛行機雲?でも、青空には似合うが、夜に?
気象庁の専門家に尋ねてみる。夜でも気象条件さえ整えば、飛行機雲は生まれ、月が明るければ見えるという。何となく、また出会いたくて、その後も、冬の星座を見上げることが重なるにつれ、こんな文章を思い出した。
フロイトと共に、20世紀を代表する心理学者、ユングのキーワードの一つとして「コンステレーション」(星座)というものがあるという。古代の人は、無数の無秩序な星の中からいくつかの星をつないで星座をつくっていった。それと同じように、人びとが生きている意味を得心するには、自分で自分の人生と家族の生き方について、偶然にみえる様々な出来事や人との出会いをつないで「星座」(物語)をつくる必要がある、ということだった。
亡くなった臨床心理学者の河合隼雄さんと、ノンフィクション作家の柳田邦夫さんの対談を収めた『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』(講談社)の中に出てくる。
思えば、この世は、人とはもちろんだが、自然とであれ、人がつくった芸術や物とであれ、偶然の出会いに満ちている。お互い、そういう関係に支えられ、心揺さぶられ、勇気づけられながら、人は生きていかざるを得ない。その関係性に、気づき、物語を編んでいく。そいう考えれば、この世に必要のない人間や物事などない。すべてを、個人の能力や努力に帰す自己責任論の何と息苦しいことか。
そんなことを、考えさせて消えた夜の飛行機雲との数分の出会いも、思えば不思議なんです。素晴らしくね。(編集委員・四ノ原恒憲)
突然、自己責任論に飛ぶところは論理の飛躍ですが、私たちが物語を欲している、ということは確かなようです。それをまたマスメディアなどは利用して物語作りに大忙し。乗せられないようにしませんか。スポーツをスポーツとして楽しまないで「成功物語」に仕立てるのは不快です。社会的に危険です。「いい気持ち」にさせる物語を聞かされたら、疑いましょう。
ファシズムや戦争は「怖い顔」してやってくるわけではありません。快く、気持よくやってくるものです。
無秩序、偶然、ランダム、を物語(星座)に頼らず、そのままに背負って耐えるタフネスを養いませんか。簡単に物語に帰結させずに、背負っていきましょうよ。
玄関で座っています。
猫が香箱を作る、といいますが、何でなのでしょうね?
ウィキペディア風に言うと「姿勢を低くして座っている状態で、かつ前足を内側に折り曲げて足先を隠して座っている姿を、香箱と呼びます。」だそうです。
「猫 香箱」でグーグル検索をかけると、ガラス板の上で香箱を作っている猫の腹側の写真というものが見られます。
ほんわりしたいい姿です。
実は、我が家の初代の猫は「とんたん」といって17歳で亡くなりまして、その時に、線香立てを買ったのです。
おしゃれでしょ。
しっぽがくるっと巻いていて、線香を立てられるのです。
余りに強い甘い香りは苦手でして、むしろ抹香臭いほうが気分が静まって好きです。玄関内に虫がいなくなった季節、香の香りを楽しんでいます。(虫は煙に弱いので)。
新たな仲間も加わって、ゆっくり香を楽しむことができるようになりました。
「バラセメント」というのは、よくは知りませんが、袋詰めではない「バラ」の「セメント」ということでしょう。内容物は普通のセメントのはずです。
セメントの粉、一粒一粒は、水より密度が大きい粉です。ところが、粉末全体としては、たくさんの空気を含んでいるために、密度が(ここでは比重となっていますが)1になっています。水と同じ密度です。
最大積載容積が13.0立方mで、最大積載量が13000kgです。
13000kgは13tですね。
ですから、密度は
13t/13立方m=1[t/立方m]となります。
ところで、1t=1000kg=1000000g です。
1立方m=100cm×100cm×100cm です。
そこで
1[t/立方m] = 100,0000g/100,0000立方cm=1[g/立方cm]
なんですね。
トンと立方メートルで計算した密度の値は、そのまま、g/立方cmでの密度の値として読むことができるのです。
今度、タンクローリーなど見かけたら、この計算してみてください。正確である必要はありません。1より大きいか小さいかだけでも結構面白いことになります。
えっ、この物質水より密度が小さいの?とか、意外なことになるんですよ。
お勧めします。(運転中の方は注意力をそらさないようにしてください。)
ビヨウヤナギというと、あの美しい黄色い花が思い浮かびますが、冬のビヨウヤナギもなかなかの役者です。
どういうわけか、並列葉芽になっているところが1カ所ありました。
大方は、単独で伸びるんです。そして、葉序は対生で、90度ずつずれるんです。
なんでかなぁ?並んでます。かわいいけど。
こちらは、この前ご紹介した、葉芽が3枚ワンセットになっていて、120度の角度で開き、前の葉に対しては60度ずれるという、変わり者。
この小枝だけでの突然変異のようです。
この枝、うっかり切らないでね、見続けたいから、と妻に見せたら、変だ、面白い、と気に入ってくれたようで、できればこれから、茂り、咲き、実る時期まで見つづけたいと思っています。
◆浅間山の噴火について、「水蒸気爆発」という記事がありました。
浅間山噴火は水蒸気爆発 マグマはわずか 東大地震研:(アサヒコム、2009年2月4日0時31分)
東京や房総半島にも火山灰が降った2日の浅間山の噴火は、マグマではなく、熱で膨張した水蒸気が噴出し、火口に堆積(たいせき)していた古い溶岩などを吹き飛ばした現象だったことが分かった。火口の「ふた」が吹き飛んだ格好で、今後の噴火でマグマが噴出する可能性もあるという。
東京大学地震研究所が火口から約8キロで採取した火山灰を解析。新しいマグマの噴出を意味するガラス成分は数%以下でほとんど含まれていなかった。マグマではなく水蒸気爆発に近いと判断した。
浅間山は火口下に水蒸気などが充満した「ガスだまり」があり、さらにその下に「マグマだまり」がある。今回はマグマの熱で「ガスだまり」が膨張し、04年の噴火の堆積物を吹き飛ばしたらしい。高感度カメラの画像で赤く見えたのは、高温に熱せられた噴出物や火山ガスだった。
地震研の中田節也教授は「2日の噴火は10分程度と時間も長く、火口で岩石が『うがい』をするような状況で、石がぶつかり合って細かい火山灰が発生した」と話す。
この場合の水蒸気爆発とは、高温のマグマに水が接触して、水蒸気を発生し、その圧力で爆発的に堆積物が吹き飛ばされた、ということのようです。
「水蒸気爆発」という言葉は、結構、便利に使われていて、意味があいまいなことがあります。一応、高温物体と水の接触で急激な水蒸気の発生が起こる、ということが基本的な意味です。
◆ところが、私が少年のころ、初めてこの「水蒸気爆発」という言葉を知った時は、ちょっと別な意味でした。
ガラス玉に水を封入する。このガラス玉を熱していくと、中で圧力が上がり、100℃では沸騰できずに100℃を超えた液体の水ができる。なお加熱を続けると、ガラス玉が内圧に耐えきれなくなって割れる。すると中の、高圧で100℃を超えた液体の水が一瞬にして1気圧になり、100℃を超えた液体の水は存在し得ないので、一瞬にしてすべてが気体になる。この急激な体積膨張が「爆発」になる。
こういう話を聞かされて、納得しました。地下のボイラーなどでこのタイプの水蒸気爆発が起きると、ビルが吹っ飛ぶくらいの爆発になる、とも聞かされて、驚いたものです。
◆上に引いたガラス玉の話と同じ事故が、実は、最近たくさん起こっているようなのです。
それは、湯たんぽの事故、圧力鍋の事故です。
●まずは、湯たんぽの事故
① 平成19年1月3日(北海道):ゆたんぽのふたをしたままガスこんろにかけ寝込んでしまったところ、破裂してアパートの部屋の窓ガラスが割れた。
② 平成19年12月6日(兵庫県)、平成20年1月5日(福井県):金をはずさずに電磁調理器でゆたんぽを暖めていたところ、破裂して調理器などが破損した。
③ 平成20年1月27日(長野県):ゆたんぽのふたをしたまま石油ストーブの上に乗せて加熱し放置していたところ、破裂してガラス、引き戸、テレビなどが破損した。
●何が起こっているのか、説明します。 グラフを見てください。このグラフは水の状態図というものの一部です。(データは理科年表からとり、グラフ化しました。)横軸は摂氏温度「℃」、縦軸は気圧「気圧」です。(学術的にはパスカルという単位を使いますが、分かりにくいので「気圧」単位としました。)
このグラフの曲線の左上側の領域では水は液体として存在し、曲線の右下側の領域では水は気体として存在します。そのような存在状態をグラフ化したので、状態図というのです。
グラフ中のA点は、20℃、1気圧です。通常の生活環境です。
この20℃の水を、1気圧下で加熱していくと、温度が上がっていき、曲線にB点でぶつかります。ここが沸点です。1気圧のもとでは100℃です。もし、1気圧のままで加熱を続ければ、水に対して与えられた熱エネルギーは、沸騰によって液体が気体に変わるときの熱として運び去られ、液体の水がなくなるまで沸騰が持続します。
すべてが気体の水になった後も加熱を続けると、今度は気体の水の温度が上昇し、点Cの方へと進んでいきます。これはごく普通のこと。
もし、湯たんぽを蓋をしたまま加熱するとどうなるか。中で水蒸気=気体の水、が発生しても逃げ場がありませんから、圧力が上がります。圧力が上がると、沸点も上がりますので、グラフの曲線にそって温度上昇にとともに圧力も上昇していきます。
例えば、点Dのところの圧力で湯たんぽが耐えられなくなったとしましょう。(多分もっと高圧まで耐えます。このグラフでは後でお話しする圧力鍋との関連で、Dを2気圧のところに設定しました。Dが曲線上のもっと高圧側であっても話の筋書きは同じです。)
点Dでの圧力に湯たんぽが耐えられなくなって、湯たんぽが割れました。
2気圧の水蒸気がシューっと噴出するだけだ、と思われるのではないでしょうか。
違うんですね。湯たんぽが割れたので、湯たんぽの中が1気圧になってしまいます。すると、1気圧のもとで120℃の液体の水というものは存在し得ませんから、水全部が一瞬にして気体になってしまうんですね。点Eへ移るわけです。
これは大変な体積膨張を伴うわけでして、爆発になります。
上に引いた、事故例でも、水蒸気が噴出したという生易しいものではなく、窓ガラスが破れたり、テレビが破損したりしていますね。まさに爆発事故になったのです。
爆発というと、ガス爆発とか、火薬の爆発とか、そういうものを考える方が多いと思いますが、そもそも爆発とは「短時間における急激な膨張」のことなんです。ですから、火薬やガスがなくても、液体の水が一瞬にして気体になるということで十分爆発になるのです。
これも、水蒸気爆発というものの一つの形態です。
水蒸気の噴出とはケタ違いの出来事なのだということを認識してほしいのです。
湯たんぽにひびが入っても、水蒸気が噴き出す程度だろう、というわけにはいかないのですね。
●次は圧力鍋。
我が家でも、もう30年以上圧力鍋を使っています。使い方さえ正しければ便利な調理器具です。我が家のはラゴスティーナの鍋です。
フタに圧力調整用の弁があって、内部が2気圧程度になると、水蒸気を逃がして内圧をほぼ2気圧に維持します。すると、内部では120℃くらいでの沸騰が続くので、普通のオープンな鍋ではできない調理ができるというわけです。
上のグラフは、2気圧で約120℃ということが分かるようにました。
圧力鍋のフタには、もう一つ安全弁があります。もし、水蒸気を逃がして圧力を一定に保つ調圧弁が何かの不具合で正常に働かなくなった時の安全装置です。硬めのゴムか何かでできた弁がはめてあって、限界を超えるとこの弁が弾き飛ばされます。
一度だけ、この弁が作動してしまったことがあります。粘っこいものを煮てしまい、圧力を逃す弁が詰まってしまったのです。
安全弁が吹き飛び、その結果、鍋の中が一瞬で1気圧になり、鍋の中の水分が一瞬で全部気体になり、粘っこい煮物が全部噴出しました。すごかったです。でも、爆発には至りませんでした。それが安全弁というものの働きです。
●さて、圧力鍋の事故です。
【ここがポイント! 暮らしの安全】取扱説明書を読もう(1)朝日新聞2008年08月27日
・・・
ここ数年、炊飯器を使った新しい調理方法を紹介した書籍が出版されている。介護食や単身世帯向けの食事を中心に、煮物や肉料理などの本格的な調理が紹介されている。
都は先日、これらの方法で調理すると、場合によって高温の蒸気などが噴き出す危険があると発表した。
ある消費者が書籍を参考に炊飯器を使ったところ炊飯器の中身が飛び出し、やけどを負った事例があった。そこで都が圧力式炊飯器を使って実際にテストした。その結果、蒸気口をふさぎやすい豆料理やポリエチレン製の袋に食材を入れる調理、アク取りシートを使用する調理では、蒸気が蒸気口や炊飯器のすき間から急に噴出したり、炊飯器のふたを開けたときに中身が飛び出したりする危険性があることがわかった。
メーカーの取説には、圧力式炊飯器の蒸気口をふさぐような調理は内圧が高まって危険であるので、調理しないようにと記されている。
・・・
この記事の中で触れている東京都の調査も見てみました。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2008/07/60i7f100.htm
平成20年7月15日:生活文化スポーツ局
過去約10年間に全国の消費生活センターに寄せられた相談情報によると、近年、圧力式炊飯器の使用中に「フタが突然開き、飛散した内容物によってやけどした」等の相談が増加しています。相談の中には市販の書籍を参考に炊飯以外の調理を行ってやけどしたものもあり、圧力式炊飯器を炊飯以外の調理に利用することが事故の遠因となることが考えられました。
そこで、東京都では、圧力式炊飯器等の安全な使用方法に関する調査を行い、結果を消費者に情報提供し、事故の未然防止を図ることとしました。
1 調査結果
(1) 取扱説明書と炊飯器調理を紹介した書籍の調査
圧力式炊飯器の取扱説明書には「炊飯中はフタが開かない」や「フタの蒸気口をふさぐ恐れのある道具の使用を避けること」が記載されていた。
その一方で、炊飯以外の調理方法を紹介した書籍があり、それらの中には「途中でフタを開けて様子をみる」等、圧力式炊飯器の禁止事項に該当する記述が見受けられた。
(2) 再現テスト
圧力式炊飯器で、1) 豆の調理事例、2) アクとりシートを使用する事例、3) ポリエチレン袋を使用する事例の再現テストを実施した。その結果、炊飯器の蒸気口がふさがれ、内容物が飛び散ったり、高温の蒸気がふきだした場合があった。
・・・(後略)
・「炊飯中にフタを開けて様子をみるよう指示している書籍が4冊あった」そうです。
もってのほかです!
調理というものはすぐれて「理科的」なものなのです。化学も知らない、物理も知らない、で責任ある調理法が開発できますか!
加圧調理中にフタを開けるなんて、初歩の初歩の大間違い。よく恥ずかしげもなくそんなことが書けるものです。
・ポリエチレンというものは純粋な物質のようなくっきりした融点がありませんが、おおよそ、110℃~130℃くらいでとろけてしまうものなのです。加圧調理中は100℃を超えるのですから、調理対象は粘っこくなくても、ポリエチレンがねっとりべっとり、圧力調整弁をふさいでしまう可能性はとても大きい。
情けないですねぇ。自衛しましょう。料理研究家と自称しておられる方々の本を信じないこと!やはり基本的にメーカーの取扱説明を読んで理解し、禁止事項は守ること、です。
水蒸気爆発は、遠い火山での出来事ではありません!家の中の台所で起こりうる事故です。
圧力を異常に高めないようにさえすればよいのです。
ぜひ、ご自分の身はご自分で守ってください。
◆私のホームページ「案山子庵雑記」で、原発での事故に触れて、この水蒸気爆発を扱った記事を書きました。関心がありましたら、お読みください。
2008.12.8付 朝日歌壇より
寒い朝母が作ってくれたっけ布切れ少し焦げた温石(おんじゃく):(奈良市)古味直香
高野公彦 評:珍しい温石の歌。
温石って知りませんでした。湯たんぽみたいなものですね。石たんぽとでもいうべきものなのでしょう。広辞苑を引いたらさすがに出ていました。
おん‐じゃく【温石】
①焼いた軽石を布などに包んで身体を温めるもの。また塩を固めて焼いたもの、瓦などに塩をまぶして焼いたものを用いる。<季語:冬>
②(温石はぼろで包んだことから) ぼろを着た人をあざけっていう語。
おんじゃく‐いし【温石石】長野県高遠タカトオの山中から産する温石に適するという黒石。
おんじゃく‐めん【温石綿】蛇紋石の一種。クリソタイル。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%9F%B3
ウィキペディアにも解説がありました。
温石(おんじゃく)とは、平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具。
概要:防寒だけでなく治療の効果も期待され、温める石は滑石・蝋石・蛇紋岩・角閃岩等が好まれた。懐炉の原型にあたると考えられる。
漢方医学の世界においては、熱熨法(今日では温罨法と呼ばれるのが一般的である)に用いられた。温石を用いる方法を「蔵身法」と呼び、今日の岩盤浴も原理的にはこれに近いと言える。
また、「懐石料理」の語源としては、禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐため温石を懐中に入れたことから、茶の席で出す一時の空腹しのぎ程度の軽い料理、あるいは客人をもてなす料理をそう呼んだという説がある。
なお、以下にみるように、温石の出土例では、小孔(小さい穴)が穿かれたものが多いが、これは火鉢などで石を温めたとき、その石でヤケドをしないよう、直接、手などにふれないための工夫と考えられる。つまり、針金状のものを孔に刺し入れるか、火箸を孔に引っかけるかして、温まった石を引き寄せ、布などにくるんだものであろう。
古いんですね。無知でした。
これは、これからの話の前段でして。
◆とある、新聞挟みこみ広告の見出し。今年の1月15日でした。
老け顔の原因”顔のコリ”を温めてほぐす。
40代からの「温石(ホットストーン)」エイジング。
揚げ足をとるわけですが、このビューティーサロンへ行ってはいけませんよ~!!
「温石」エステを受けると、顔が「加齢」してしまいますよ~。
エイジングって、ag(e)ing と書きますが、これは加齢、老化、熟成などという意味ですよ。
校正ミスですね、ひどすぎるけど。書いた方も、校正した方も、言葉を知らない人たちだ。
「アンチ・エイジング」でしょ!!
温かい石でマッサージでもすれば、まぁ、血のめぐりがよくなって気持ちはいいでしょう。でもねぇ、若返ったりはしないのです。それは自然の摂理に反する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0
またウィキペディアから引用
老化というと、人生、人の一生のライフスパンの後半をさしていうもので、その前半は、その場合「成長」ということになるが、厳密には、エイジングはそのままの英語で言えば、age(年齢、齢)を重ねていくこと、つまり「加齢」(かれい)である。この意味に固執するなら、人間は誕生の瞬間からその人生の最後の時まで、細胞組織レベルでは常に古い細胞組織は、死んで常に新しいものと入れ替わっていくわけで、幼児、子供の段階からすでにエイジングは始まっているということもできる。つまり、「人生とは、死に向かう一方通行の歩みである。」
高齢社会の進展とともに、エイジングへの関心は急速に膨れ上がり、翻訳書を含めて、エイジングを扱った書物はうなぎ上りに増えている。用語が一定しないため、翻訳の中には原題が「Aging」で邦題が「老化」というものも少なくない。
また老化に抵抗、対抗するという意味で、アンチエイジングという言葉も近年、とみに使われるようになってきた。 加齢関連性の疾患を予防したり治療する医療は、抗老化医学と呼ばれる。
時の流れに逆らうようなことをしようとする、その驕りがまわりまわって、現在の環境問題までつながるんです。
老いて、皺を刻むことのどこがいけませんか?60、70になって、皺ひとつないつるつるの顔してたら、そりゃ、化け物に違いない。
きれいに老いてこそ人生、でしょ。
◆こんな話もありました。よくある話です。
[ひととき]傷つく「おばあちゃん」(朝日新聞 2009/2/3)
夕暮れ時、夫が作ってくれた白菜を両手いっぱいに抱えて庭先を歩いていた。見知らぬ若者が私の顔を見るなり、「おばあちゃん、重そうですね」。さらに「おばあちゃん、何をしているのですか」。
初めて他人に「おばあちゃん」と呼ばれた。ムッとして「私のこと、おばあちゃんだって。あんたのおばあちゃんじゃないわよ」。心の中で叫んでいた。
日頃、活力をもらう孫にはその可愛さに満面の笑みで、私自身、「おばあちゃん」を連発しているのに何とも不思議である。相手は軽い気持ちで親しみを込めたつもりでも、ちょっととまどい傷ついた。
青年が去った後、玄関の姿見の前に立ってみた。少し肩の落ちた女性は、赤いセーターこそ着てはいるものの、まさにおばあさん。70歳を前にしては仕方ないか。そう納得しようとしたものの、何となく面白くない。夫に話すと、「そうさ、誰が見てもおばあさんに違いない。お姉さんとは言わないよ。でも、せめておばさんくらいに言っておけばよかったのにね」。
そういえば最近、うっかりしていたでは済まされないような失敗が目立つ。年取ったせいかとちょっと気がかりだ。そんな様子を見た夫から「しっかりしてくださいよ」などと言われると、やっぱりこれにも案外傷ついているのだ。
(主婦 68歳)
68歳でしょ、押しも押されもせぬ立派な「おばあちゃん」じゃないですか。
私は60歳ですが、おじいちゃんです。孫はいませんが、おじいちゃんです。体も衰えました、記憶力も減退しました、生え際も撤退中です、運転能力だってガタ落ちです・・・
これを、おじいちゃんと呼ばずして、いったいなんというのでしょう?
元気がすべてじゃないんです、っ。衰えること、老いること、それは若い人にはまねのできない「財産」なんです、っ。
それを生かさずして、何の人生ですか。
社会的役割としての「おばあちゃん、おじいちゃん」というものもあります。
敬うべき、優しく扱うべき、慕うべき「年長者」の存在しない社会などというものがもしあったら、なんと薄っぺらで、つまらない社会でしょう。
積極的に社会的役割としての「おばあちゃん、おじいちゃん」を引き受けて、若い世代、幼い世代を育てましょうよ。でなけりゃ長く生きた甲斐がない。
私は全然傷つきません。
3,4歳くらいの双子の女の子を連れたお母さんと、エレベーターで一緒になりました。「おじちゃんが来た」と二人で声を揃えてごあいさつしてくれました。私が「おじいちゃんでしょ」と言ったら、少し恥ずかしそうにしていました。でも、エレベーターを降りたとき、後ろから「おじちゃんバイバ~イ」と叫んでくれたので、私も大声でバイバ~イと返事をしました。
こういう応答は、やっぱりじいちゃんの仕事ですよね。
じいちゃんは楽しいですぞ、おばあさま。
アサヒコムの1月31日にこんな記事が載りまして、同じ記事が、昨日4日、紙の新聞の方にも載りました。で、ちょっと、ご紹介。
小説「檸檬」の店、「八百卯」が閉店:2009年1月31日19時39分
「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった」――。梶井基次郎(1901~32)の小説「檸檬(れもん)」で、主人公がレモンを買った店のモデルとなった京都市中京区寺町二条の老舗(しにせ)果物店「八百卯(やおう)」が、25日に閉店した。小説の主人公が爆弾に見立てたレモンを置いた同市内の書店「丸善」も05年に店を閉めており、相次ぐ閉店を惜しむファンが次々と八百卯の店先を訪れている。
1879(明治12)年創業の八百卯は、25年に発表された「檸檬」をきっかけに、「檸檬の店」として親しまれてきた。昨秋、4代目当主の村井義弘さんががんで急逝。関係者によると、親族が店を手伝っていたが、「責任者を立てられないのが現状。いいかげんな商売はできない」と閉店を決断した。
この関係者は「後々のことを考え、やむを得ずこういう形になった。お客様には感謝の気持ちでいっぱいです」と話す。
シャッターには「檸檬の店で永きに渉(わた)り皆様のご愛顧を得て営業致して参りました」などと書かれた紙が張られている。店には連日問い合わせの電話があるといい、閉店の張り紙に見入る家族連れや、携帯電話で店の写真を撮る若い女性の姿も見られる。
梶井基次郎の「檸檬」。高校時代にどっぷり浸りましたね。
「桜の樹の下には」には、かぶれましたね。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。」この出だしにしびれて、今だにしびれっぱなしですからね。
全集も買って読んだなぁ。
気に入った作者に浸りきって、自分を失ってもいい、その人になりきる程に傾倒すればいい。その後に現れてくるものがあれば、それが「自分」なんだし、そのまま呑みこまれっぱなしでなにも出てこないなら、それはそれで、「自分」というものがそれまでのもの、ということだ。と、見得を切ってみたのも、そのころでしたか。
「自分探し」なんてくだらないことです。初めから「自分」があるわけじゃない。飲みこまれ、圧倒され、つぶされ、くだけ、そうやって「自分」ができてくるのです。「本当の自分を探して」などと、いっていると、現実から逃げだしてしまうことになり、自分なんて育ってきませんよ~。
◆ところで、私の個人データベースで、「檸檬」のキーワードで検索をかけたら、もう二つヒットしました。お目にかけます。上の記事は、檸檬を買った店の閉店ですが、今度は丸善の閉店。
閉店惜しみ置きレモン 小説「檸檬」ゆかりの京都・丸善:2005年10月02日13時22分
10日に閉店する書店「丸善」京都河原町店で、売り場の本の上にレモンを置いて立ち去る客が相次いでいる。作家梶井基次郎(1901~32)の短編小説「檸檬(れもん)」の主人公が京都の丸善の本の上に、近くの果物屋で買ったレモンを置いたのをまねて客がそっと置いていくらしい。
これまでも年に数回、レモンが置いてあった。それが閉店が決まった今春から徐々に増えはじめ、現在11個。いずれも、レジの店員から見えない所に置かれていたという。
店では忘れ物としてバスケットに集めて、「檸檬」の文庫本のわきに置いている。文庫本もここ数日、1日60冊も売れており、急きょ1000冊を追加注文した。
丸善が京都に出店したのは1872年で、小説の舞台になった旧店舗は現在地から約400メートル北西にあった。丸善は京都市内の別の場所で店を復活させたいとしているが、適当な店舗はまだ見つかっていない。伊藤博店長は「京都の店をこんなに愛してもらって、心底うれしい」と話している。
ご覧のように、2005年のことでした。檸檬を買った店、置いた店、両方とも無くなってしまったんですね。さすがに、寂しいことです。
[キミの名は]丸善(2008/2/2)
梶井基次郎の代表作『檸檬(れもん)』の舞台は京都の丸善だった。夏目漱石が使った万年筆は丸善で購入したものだ。丸善の名には、明治、大正の文化の香りが漂う。
1869(明治2)年、横浜で輸入商社として出発した。最初の名は「地球」からとった球屋(まるや)商社だったが、誤読されるので丸屋商社とした。
創業時の社長は名義上、「丸屋善八」だった。これは実際の創業者である早矢仕(はやし)有的(ゆうてき)が考えた架空の人物で、若き日の早矢仕に資金援助をした高折善六の恩を忘れまいと、善の1字をつけたという。
「丸屋善八」が省略されて顧客から「丸善」と呼ばれ、1880年には丸善商社と改称した。
早矢仕が外国人にふるまったのが、あり合わせの肉や野菜のゴッタ煮で、これが「早矢仕さんのライス」と呼ばれ、やがてハヤシライスになったという説がある。東京・丸善丸の内本店などのカフェのメニューにある。
というわけで、ウンチクが増えたでしょ。いっぱい、傾けてください。何を?盃を?
横軸に1年分をとってしまっていますので、空白の多いグラフです。
黒い線が、30年間を平均した「平年気温」です。
東京では、2月2日までが、谷底で、2月3日から上昇を始めました。
谷底の値は、最高気温の方は9.3℃、最低気温は1.7℃でした。
2月3日は、それぞれ、0.1℃高くなりました。
これからは、徐々にではありますが、確実に気温は上昇します。
すでに、日の出も一番遅い時期をぬけていますし、これから「春」が進みます。
去年も1月16日に、この話題を取り上げ、各地の気温の谷底を見ることのできる表など作りました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_f9d1.html
ここをご覧ください。
このグラフは、毎日の気温と平年値の差を、移動平均をとってならしながら見ているグラフです。
今年も、暖かい年として始まった、ということが分かります。
最高気温の方はまだしも、最低気温はまるっきり平年値を上回りっぱなしです。東京は冷えなくなった、ということですね。コンクリート製の都会は冷めにくいのでしょう。温暖化もあるかもしれません。
子どもの頃、浴室のガラスに「窓霜」がよくつきました。ガラスの表面に、きれいな氷が張って楽しかったものです。寒かったけど。
結婚してからも、水道が凍る、雨戸が凍りついて開かない、車のドアのキーが差し込めなくて、お湯を沸かして注ぎかけて、やっとドアが開いた・・・などありました。
子らは、霜柱を踏みに飛び出していきました。
この頃、そういうのって、ないなぁ。
2009.2.2付 朝日俳壇より
美容師に言ひあてられし落葉焚:(大村市)福田洋子
稲畑汀子 評:美容室で頭を結ってもらう作者。家で落ち葉を掃き集め焚火をしたことが頭の匂いで知られた。恪勤な主婦の一日が想像される。
焚き火をすると煙の匂いが体につくんですよねぇ。わかります。
理容師さんや美容師さんはお客さんの頭で、いろいろなことが分かるのです。
頭皮の日焼け具合で、夏の行楽に行ったかどうかがわかるんですよ。
まあ、落葉焚きなんかしたら、人間の燻製ですわねぇ。
(私、もう、30何年か床屋さんに行ったことがありません。剃刀の刃で髪を削り落す道具で、妻に手伝ってもらいながら自分でやってます。)
◆ところで、稲畑氏の評に「恪勤」という言葉がありますが、これ知りませんでした。たぶん「かくきん」と読みます。
ネットで調べたら、四字熟語として載っていました。安全なサイトで引用します。
http://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0407.html
精励賀恪勤(せいれいかくきん)
力を尽くしてつとめ励む
力を尽くしてつとめ励む。およそ、仕事についている者のあるべき態度だ。
「精励」は、十分に励む。『御漢書(ごかんじょ)』(後漢時代の歴史)に、「学者精励すれば、遠近同(とも)に慕(した)う」とあるのは、学者(学ぶ人)は学問に力いっぱい励めば、評判が聞こえて遠近の人々が慕い寄る、ということ。
「恪勤」の「恪」は、つつしむ意。つつしみ勤める。唐の時代、官吏の昇進の基準の一つに「恪勤解(おこた)らず」があった。職務大切に怠(なま)けず勤める態度をいう。
この反対は、怠惰・怠慢である。どんな職業であれ、精励恪勤でなければ”出世”は覚束(おぼつか)ないだろう。
近い言葉に「謹嚴実直(きんげんじっちょく)」がある。こちらの方は、前に掲げた「品行方正」と同じく、人柄についていう。全国漢文教育学会長
石川 忠久
私は「漢文」という授業があった世代なのですが、知らなかった。
2009.2.2付 朝日俳壇より
凍鶴にならんとしてはよろめけり:(さいたま市)川辺了
長谷川櫂 評:氷のようにじっと立っている冬の鶴。ところが、すぐよろめいてしまうのだ。鶴のよろめきとはおもしろい。
鶴がよろめくんですかぁ?なんだか、妙な気分です。
自分が凍鶴のごとくに身を縮めて立ちすくんでも、どうも鶴のようにはいかない、よろめいてしまうなぁ、という風に私には読めるんですが・・・。
◆ところで、表面に氷が張るほどの冷たい水に立っていて、鶴は大丈夫なのでしょうか?体温を失ってしまわないのでしょうか?
脚の血管の血液は冷え切っています。その血液がそのまま体に戻ってきたらさすがにたまりません。
体から脚へ向かう血管は脚から帰ってくる血管と絡み合って、熱を交換するのです。ですから、脚へ向かう血液は冷やされ、体に戻ってくる血液は温められて帰ってくるのです。
ですから、体は冷え切らないのですね。向流熱交換といいます。
FF式ガスストーブなどもこういう熱交換を行っています。
この話、私のホームページで詳しく議論しています。下のページの後半に生物的な話が載っています。興味がおありでしたらどうぞ。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/chemistry/Seperation/Coolant.htm
2009.2.2付 朝日俳壇より
寒の月ほんの小さな肺活量:(広島市)石川まゆみ
寒の月が出ているのですから、冷え込んだ夜でしょう。思いっきりいっぱい息を吸って、思いっきり吐き出す、という気分じゃないですわね。
う~サム、と肩を縮めて、てのひら合わせて、小さく息を吹き込んでこすり合わせる、そんな感じかなぁ。
立春になりました。少しだけ、胸をひらいて息を大きくしてください。
2009.2.2付 朝日俳壇より
己が葱と写りし皺や物産展:(東京都)矢作十志夫
金子兜太 評:自分の皺面と葱が、容器のガラスに映っている。その親しさ。
さて、また分からなくなってしまった。詞書があるのかなぁ。「容器のガラス」に映るんですかぁ?
私はちょっと別な解釈をしたいなぁ。
物産展でしょ、自分が作った葱と自分の皺が一緒に写った写真が、生産者紹介、とかいって貼ってあるなんて言うのはどうでしょう?
いやだめです。わかりません。
2009.2.2付 朝日歌壇より
正月の客の手を借り断酒解く誓ひは破らるるものととぼけて:(多摩市)手塚主馬
かつての勤務校で、アルコール中毒で断酒していた先生に、歓送迎会で、つい一杯勧めてしまって、アルコールを復活させてしまった、という出来事がありました。その勧めてしまった方は、激しく後悔しておられました。その中毒だった先生は、何年か後に肝臓が原因で亡くなられました。
酒をやめようと思ったのなら、「誓いは破らぬもの」です。とぼけてはいられなくなったら、笑いごとではありませんので。私は、渋面でこの歌をよみました。
教え子と酒酌み交わし振り返る教師の歩み二十三年:(岩手県)田浦将
私は31年ほど教職にありましたが、「同窓会的なるもの」の一切を拒否してきましたので、こういうシーンはありません。
「かつて生徒と教師であった」ということにおいて成立する人間関係など信頼するに値しない、というのが信条なんですね。別の言葉で言うと「人間嫌いの教師」という矛盾を抱えて生きてきたわけです。
孤立を求めて連帯を恐れる。何かのグループづくりに参加しても、会が安定してくると、その安定感が嫌で飛び出してしまう、ということも何度もやりましたっけ。
なんというか、傍から見たらさびしい人間でしょうね。本人は、気楽でいいんですがね。
2009.2.2付 朝日歌壇より
注連縄も餅も飾らず正月もただただ生きむ妻逝きてから:(福岡県)手柴俊光
佐佐木幸綱 評:何事もめんどうくさくなったのか。妻に頼りきりだったのか。「ただただ生きむ」が哀しい。
かつて、大学闘争のころ、私がものした文章にこんな一文があります。
「平面的状況の中で私はうたえる。斜面的状況や階段的状況の中では私はうたはうたえない」
左足が不自由な障害者として、行動の可逆性が確保できる「平面的状況」では、歩く、ということ以外に「うたう」という余分な行動を一緒に行うことができる。しかし、斜面や階段では、そこに立ち、歩くということだけで、全能力を傾注しなければ身の安全も確保はできない、そのような中では「うた」はうたえない。
象徴的に書いたものです。「うた」があれば人生は豊かになるでしょう、「うた」は、ないよりあった方がいい。
でも、全力を傾注しなければならない状況では、なくても済む「うた」を歌っていることはできないのです。
夫婦として、二人の人生を送っている時は「平面的」状況でしたでしょう。世の習いとしての年越し行事は「うた」です。「うた」も二人でうたえたでしょう。でも、奥さまを亡くしてからの人生は「斜面」であり「階段」なのです。生きることそのものに全力を注がなければならない。そんな状況で「うた」などうたってはいられないのです。年越し行事など、もういい、とにかく生きるんだ、ということでしょう。
佐佐木氏の評は私の目には、ちょっと甘いと見えます。
2009.2.2付 朝日歌壇・俳壇より
幾度も同じ話をする父に同じところで笑ってあげる:(福岡市)松尾あのん
これって、かなしいですね。過去の記憶の中に生きている人。その記憶も変容し、願望が事実のように作り直されたり、自分なりの伝説があたかも記憶のように語られたり。
そして、それが、自分の親であるということ。つらいな。
◆話の向きを変えます。
作者のお名前は珍しいので、前にもひかなかったっけ?と調べてみましたら、やっぱりありました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-f233.html
ここで、「紅」と題して、2009.1.19付の朝日歌壇から下の歌を引用しました。
生きてゐること面倒と思へども初鏡して濃き紅を点す:(福岡市)松尾あのん
合わせて読むと、また・・・年齢というものがつらいですね。
2009.2.2付 朝日俳壇にこんな俳句がありました。
寒紅を差して一人を生きぬかん:(高松市)真鍋孝子
やはり、女性にとって「紅」というものは特別な意味合いがあるものなのですね。 女性って、美しくて、たくましいな、とつくづく思います。
こんな歌もありましたよ。
失職の吾に明るい母の声頑張らなくても春はきますよ:(アメリカ)ソーラー泰子
特別なタイプの女性がいらっしゃいまして、強烈な励ましを与えてくれるのです。そういう人に、なんとかなるわよ、おやんなさい、とかいわれると、そうかぁ、いくかぁという気にさせられてしまうんですね。男性にはそういうタイプってあまりないな。
存在そのものがエネルギーを放射しているような人、っているもんです。
2009.2.2付 朝日歌壇より
ネクタイを締めなくてよい週末はちょっと長めのあの人の首:(京都市)敷田八千代
ネクタイがないと首が長めに見えますか。知らなんだ。細かいところに気づいてしまう、それが「あの人」への気持ちなんでしょうね。
ネクタイを締めてしまえばパパでなし不可思議の人へ手を振る二歳:(橿原市)福田示知恵
馬場あき子 評:「ネクタイを締め」て「パパ」ではなくなってゆく今日の男性像にはたしかに不可思議な哀愁が湧く。幼子はそれを知りはじめているのだろうか。
私の場合、基本的にネクタイをしない人、だものですから、ネクタイを締めた私を見ると子らは「結婚式か」などと聞きましたね。
2歳という年齢の頃を正確には思い出せませんが、父親の私がふだんのメガネではなく運転用にサングラスをかけたらびっくりしてしまった、ということもあります。
ネクタイをすると、いつものパパではなくなる、ということには当然子は気づくでしょう。それが「哀愁」を知りはじめた、というほどのものかどうかは分かりませんね。
2009.2.2付 朝日歌壇より
銀行のカードの暗証番号は合格通知の受験番号:(越谷市)黒田祐花
大学でしょうか?銀行のカードを作ったということは、親元を離れるのかな?それとも、「小遣い」からの卒業なのかな?
大人になった気分ですね。
◆今朝、環八を走っていたら、とある女子中高の入試らしく、学校の門の前に「塾関係者」の行列が出来ていました。あれはみっともないなぁ。あんなもんで励まされるようじゃぁ前途は険しいぞ。などと、へそ曲がり案山子は思うのでした。
40年以上も前、大学入試のとき、何かの本に、焦ったりしないように、毎日同じ経路で受験会場に行きましょう、などと書いてあったのにむかっ腹を立てて、毎日違うルートで受験会場へ行きましたっけ。へそ曲がりの気質は結局変わっていませんね。
2009.2.2付 朝日歌壇より
亡きひとのこえふる水に木に土に ゆきひらとなりはなびらとなり:(福島市)美原凍子
高野公彦 評:亡き人を恋う、悲しくて美しい歌。
視覚的な歌です。絵のようです。遠くから眺めても美しく、ズームアップして視界いっぱいが、白く舞うもので埋め尽くされても美しい。
それは、声の降る姿です。
◆昨日の節分、(草食性の)鬼さんたちに豆をたくさんプレゼントしていただけたでしょうか?
我が家でも、「恵方巻」というのを食しました。これ、関西の方の習慣ですね。コンビニ業界かなんかが全国的に仕掛けたようですが。
妻は関西人ですが、私は東京育ちですが、両親が秋田生まれなので、なんとなくそっちのほうの生活習慣がしこまれています。
結婚して初めて、この恵方巻という習慣を知りました。太巻きを一本、その年の恵方の方角を向いて、口を利かずに食べつくす、と妻に教わりました。おしゃべりすると、運が逃げるんですって。当時は、関東ではあまりこういう行事はやってませんでした。
◆崩彦俳歌倉で「ひなたぼこ」を書きましたが、あの時書き忘れがありました。
長谷川氏の評に、「放り出されたように『長々と横になる』猫」という表現があります。
この『長々と横になる』ということを、「ながまる=長まる」と表現するのは秋田の方言ですか?
一応、広辞苑などにはのっています。
なが‐ま・る【長まる】自四:長くなる。体を伸ばしてながながと横になる。[広辞苑第五版]
でも、妻はこの表現を知らなかったようなのです。
いかにも「ながくのびて、よこになって、疲れをいやす、くつろぐ」という感じが出ていて好きな言葉です。
これは秋田の方言で好きだな、というのが「うるかす」。水につけておくということです。洗濯物でも、食器でも、洗う前にうるかしておくと、本当に楽ですよ~。
ちょっと、思い起こしたこと雑事を補充しました。
東京は雲の多い肌寒い日です。
雲間からチラっと顔をのぞかせたお日さま。
パワー不足気味です。何か、春らしいものはないかしら、と家の周りを一周。
線路向こうのお家に、白梅が咲き始めました。
まだちらほらです。
花ではないですからねぇ、虫はいません。
ゆっくり、ゆっくり、花芽が伸びています。
フチベニベンケイ。
今日顔を見せてくれた昆虫はこのヒメフンバエだけ。
しかもこのワンショットのみ。さびしいですねぇ。
白く可愛い花、かぐわしい香りを楽しませてくれて、しかも、オオスカシバを育ててくれます。もう少し、オオスカシバの数をコントロールしてあげないと大きく育ちにくいかもしれません。今年はどうしようかなぁ。
とコダカラソウたちが言っています。
2009.2.2付 朝日歌壇より
今はまだ口実にしてる「寒いから」自然に繋ごう春になったら:(名古屋市)山口朋美
読んでしばらくの間、なんのことか分からずにいたのです。何がどうなっているのかな?
しばらく繰り返し口ずさんでいて、ああそうかぁ、と突然納得。
「手をつなごう」だったんですね。
「寒いから」と口実にしてコートの中にしまいこんでいる手を、春になったらポケットから出して、「自然に繋ごう」ということだったんだぁ。にこにこしてしまいました。早く春が来ますように。
こんな話もあります。
[コミュニケーション 十五章]⑬温かくなると寛大に(2008/12/15 朝日新聞)
「温かい言葉」「冷たい人」。温度に関する形容詞はしばしば対人的な評価を表すのに使われる。最近の研究によると、これはどうやら単なる比喩というわけではないらしい。
ある実験の参加者は、実験室に向かうエレベーター内で、女性アシスタントが参加者の名前を書き込む間、彼女のコップを持っているように頼まれる。中身はホットあるいはアイスのコーヒーだ。これが実験の一部だとは知る由もない。
実験室に着くと、ある人物に関する記述を読んで、その性格を評定するという実験に参加する。すると、先ほど温かいカップを持たされた人は、冷たいカップを持たされた人より、対象人物が寛大である、思いやりがあるなどと評価する傾向が強まるというのである。参加者は先ほどのカップのことなど全く気にとめていない。
脳内には、物理的な温度と、信頼や共感といった対人的な「温かさ」の双方に対して同じように反応する部位がある。物理的な温かさは、他人に対する評価や態度にも影響を与える。スキンシップが重要と言われるゆえんだ。
やっぱり、二人して温め合う手がいいですね。
◆全くの別件:このややこしい字「繋」。私、小学校の時から書けました。なぜかというと、私の通っていた小学校の名前が「駒繋小学校」だったからです。
帰り際一言かわした次の日の今日はあなたが近く感じる:(赤穂市)内波可菜
高野公彦 評:可菜さんは十代前半だろうか。恋の始まりのような雰囲気の作。
省略しましたが、高野氏らしい評の中の註がありまして、前に「土に戻らぬ物」で紹介した内波さんと親子でいらっしゃるようです。
必須事項ではないのですが、葉書に年齢なども書いてあるのでしょうか、それともないのか。
「十代前半だろうか」と書かれていますが、そんな「幼い恋」である必要はないように思えますが。
高校でも、大学でも、職場でもいいように思います。さして気にもしていなかった人、あるいは、気にはしていたけれど言葉を交わすチャンスがなかった人と、ふと「一言」かわした。そうすると、人間関係の距離感が翌日から変わってしまった。
どうでしょう?私は20代でいいと感じていますが。
2009.2.2付 朝日歌壇より
百均のようなこの国つぎつぎと土に戻らぬ物産み、捨てて:(赤穂市)内波志保{高野公彦選}
耕して食べて死んで土になるブータンの人皆笑いつつ:(赤穂市)内波志保 {馬場あき子選}
土にどっしりと足がついた生き方をする人は穏やかで快活なのです。
物も作らず、情報を行き来させるだけで「もうけ」が発生したり、情報のすき間から、「もうけ」をつくったり。そんなことにうつつを抜かしているから、トゲトゲしい、空しい顔つきの人間ばかり生まれるのです。
大体、経済人の言語センスを疑うよな。「目論見書」ですって。目論見というのは悪事をたくらむことですよ。得ですよ、儲かりますよ、と「目論む」わけですね。
「証券保管振替機構」が「ほふり」ですって。言語感覚ないなぁ。
ほふ・る【屠る】(鳥獣などの)体を切りさく。きり殺す。はふる。[広辞苑第五版]
私は「ほふり」なんて聞くと、ぞっとしますがね。
品のない社会になりました。
2009.2.2付 朝日歌壇より
ガザ悲しガザより他を知らぬ児ら撃たれ死にたり両脚伸べて:(大阪市)村山香代子
永田和宏 評:ガザを詠った歌は数多く寄せられたが、新聞紙面をなぞっただけの歌が多かった。なかで村山さんの歌は、「ガザより他を知らぬ児ら」という視点が秀抜。ガザに生まれただけで何の罪もないのに殺されなければならない幼い命。しかしなおガザで生きるしかない哀しさ。そんな悲劇に私達の想像力はどこまで有効かと迫る歌だ。
戦争を知らない子らと戦争しか知らない子らの住むこの地球:(浜松市)石川治子{馬場あき子選}
なんで、わざわざ、憎しみを増殖拡大せねばならないのか。動物として、同一の種でしかない、ホモサピエンスが、ひたすら「差」ばかり言いたてる。
一緒に暮らしてみれば、誰もが、「同じ人間だ」と認識できるのに。
なんでそう「差」ばっかりなんですか?なんで「非寛容」なんですか?
人間って、そんなに「心貧しい生き物」なんですか?
哀しい。
2009.2.2付 朝日歌壇より
一日を歩きて暮らすわが身には雨はしたたか無援にも降る:(ホームレス)公田耕一
「無援」という言葉に長らくお目にかかりませんでした。私達の世代にとっては高橋和巳の「孤立無援の思想」という本は忘れられない本です。
これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の
自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。
結局のところ、人は孤立無援のままに死ぬのです。決して連れ立ってゆくなどということはありません。城山三郎さんの「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」という言葉もありますが、加えて「ひとりぼっちで行く」のです。
無援かぁ。虚飾を全部はぎ取ってしまえば、人はみな無援というべきでしょう。
昔、「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉がはやりました。でも、あんまり好きじゃないな、それって。「孤立を求めて連帯を恐れず」のほうが好きだな。いやもっと突き進んで「孤立を求めて連帯を嫌う」という生き方をしてしまったものな。
2009.2.2付 朝日歌壇より
人間は雇用調整 りんご、猿は需要調整、個体数調整:(青森県)向山敦子
高野公彦 評:雇用者の数を、あるいは林檎の生産量を、野生の猿の個体数を、自分たちに都合よく「調整」する社会の現状を衝く。
人間の思い上がりですね。なんでも人間のほしいままに出来るつもりでいる。それが、いまの環境問題などの根っこなのに。
猿を駆除し、イノシシを駆除し、鹿を駆除し、・・・、あげくの果てに人間は自分自身を駆除してしまいそうだ。
ヒトが絶滅する時は、せめて、放射能汚染などを継ぐ生き物に残さないように、クリーンに消え去りたいものです。
車のフロントガラスが雨に濡れています。持っていたのはコンパクトデジカメのみ。
ガラス越しに撮った白山神社の白梅。
デフォルメというには、ちょっと安易だなぁ。
運転席から右のフェンダーミラーをガラス越しに撮影。フラッシュが光るモードです。
何がどう写っているのかよく分かりません。
フェンダーミラーに反射したフラッシュの光が窓の水滴を照らしているのかな?
他の車のブレーキランプもパラパラと写り込んで、何だか訳の分からない写真になりましたが、それが面白い、ということでお目にかけます。
(ちなみに、私はドアミラーが嫌いで工場オプションでフェンダーミラーにしてもらったのです。だって、視線を振るだけで済むのが楽じゃないですか。ドアミラーだと顔ごと動かさなくちゃならない。大方のタクシーはフェンダーミラーですよ、やっぱり楽なんだと思うな。)
水滴越しに撮った電柱です。
それぞれの水滴が不完全な形ですが凸レンズになって、倒立実像を結んでいます。
電柱広告が写っていることが分かる水滴もありますね。
雨の日の、車窓からの眺めでした。
門扉にクサカゲロウの成虫がとまっていました。1月28日です。
本当は頭を上にして垂直方向に体を向けていたのですが、パソコン画面に入りやすいように90度回してあります。
通常、夏をはさんで、5月ころから9月くらいが季節だと思いますが・・・。今頃、成虫とお目にかかるとは、どうしたことでしょう?
きれいですね。淡い緑色で、はかなげな感じです。でも肉食性です。幼虫成虫、ともにアブラムシを食べます。
胸のあたりを見てください。
小さい昆虫ではありますが、結構たくましくがっしりしているのです。
この口は肉食性の口です。
複眼がまたおもしろいというか、ふしぎというか。
このくらいに近づくと、個眼の六角形を反映した反射が見えるのが普通ですが、全然そうならない。
滑らかな感じがするのと、色の広がりが面白いですね。
アブラムシもほとんどいない季節ですが、どうか生き延びてくれますように。
2009.2.2付 朝日歌壇・俳壇より
障子戸に冬木の影の淡ければま白き猫は半眼のまま:(福島市)美原凍子
日向ぼこ時には犬に吠えてみる:(町田市)服部じゅん
金子兜太 評:楽し。
犬の方がいい迷惑ですねぇ。
捨てられてある如猫の日向ぼこ:(川口市)牧野文子
長谷川櫂 評:放り出されたように長々と横になる猫。「捨てられてある」ことの自由さ。
上の句の、猫を「かかし」に置き換えて読んでみてください。
我が冬の日々、の姿そのものです。
冬の案山子なんて、昼行燈どころじゃない。用もなし。
詩一つ生まれて日向ぼこを立つ:(飯塚市)千代田景石
さて、ぬくぬくぬくもっていたら、一句生まれたのですね。日向ぼっこですから、ウム、とか唸ってノートと鉛筆をとりに行くのも、さして、敷居の高いことではない。
ところが・・・
暖かき寝床の一句忘れけり:(北九州市)園昭一
長谷川櫂 評:朝、布団の中で夢うつつのうちに生まれた一句。書きとめる間もなく忘れてしまった。さらりと詠んでいる。
布団の中となると、話が違う。布団に埋もれてぬくもっているときに、夢と現のはざまで、句が生まれた。でも、布団から出て、書きとめるのはおっくうだなぁ。
忘れないようにしよう、こうなってこうなってああなって。一生懸命記憶に刻み込んだはずなのに。起きてみると、「句がない」。句をひねったこと自体は覚えているのに、句の中身が出てこない。忘れてしまった句ほど、すばらしい。ああ惜しいことをした。という感覚は覚えがあります。
去年の朝日新聞にこんなコラムがありました。
[絵本の記憶]鬼には食われない:チチ松村(ミュージシャン)(2008/12/5)
「つの」(今泉忠明 指導/アニマルズ・アンド・アース、岩合写真事務所、大高動物写真事務所 写真/フレーベル館)
今回はちょっと変化球で「写真本」のハナシです。いつものように、大阪の街を自転車でぶらぶらしていると、マンションの前の道に、本が詰められた段ボール箱を見つけました。「あれっ?こんなところに本が捨ててあるのかな?」と思い、近寄ってよくよく見ると、一冊百円と書いてあります。その中に、『つの』という本がありました。手にとって開いてみると、色々な動物のつのの写真と文章が載っています。・・・(中略)・・・
この本を読んで感心したことは、つのを持つ動物は全部「草食動物」だということ。つまり、つのが生えた鬼も「草食」。僕はそれから「人が鬼に食われることはないんだ!」と信じています。
これは大発見ですね。嬉しくなりました。シカ、キリン、サイ、オリックス・・・。恐竜のことを考えても、あの立派な3本の角を振りかざすトリケラトプスも草食ですねぇ。
ナルホド、鬼は草食なんだ!!!
ということは、「鬼は外!」と叫んで豆をまくと、鬼は喜んで豆を集めて帰って家族みんなで豆を食べるんですよきっと。
ひょっとして、節分の豆まきという行事は、鬼が仕掛けたのかな?
どこかのチョコレート屋さんが仕掛けたバレンタイン・チョコレート騒動。一年で一番チョコレートが売れる月なのでしょ?2月は。
鬼族の中の頭のいいのが、この寒い時期、一番食料が窮乏する時期に、「鬼をやっつけましょう!」と、ヒト族に節分の豆まきを仕掛けたんですよきっと。
「鬼さんこちら♪豆どうぞ♪」と豆をまいてあげましょう。
さて、雑食性のサルの仲間としてのヒトに角はあるのかな?「角隠し」をするということは、女性はきっと草食性なんだな。
◆2009.2.2付 朝日歌壇より
節分の夜はやさしく鬼たちを招き入れたき独居老人:(大分市)長尾素明
佐佐木幸綱 評:鬼でもいい。しばらく一緒にいたい気分である。「やさしく」に孤独がにじむ。
年をとると、ヒトも肉食性がだんだん薄れてきて、植物食の鬼に近くなるんですな。
だんだん鬼に近くなる。善哉。
やがては、鬼の籍に入る身ですから。
葉の上に糸が張られていますね。クモが住んでいたのか、毛虫・芋虫が歩きまわっていたのか、わかりません。
そして、ハエは口を伸ばして、舐めてますね。
何か、ハエの食欲をそそるものが落ちていたのでしょうか。
翌、27日。
これは、電柱を引っ張るワイヤの黄色いカバーの上です。
昨日のと同じ個体かな?場所はすぐそばです。ちょっとピントが甘かったのが残念ですが。
見ていたら、何か動いているので、シャッターを切ったら・・・
翅の掃除でもしていたのでしょうか。
こんな恰好が撮れてしまいました。
あんまり見せたくはないスタイルだったろうな。
何だか、交差点の交通手信号のような、ウィンカーが使えなくなった時の「左折します」という手信号のような。
面白い瞬間でした。
これを見て、まるで芋虫のよう、と思ったのですね。
近づいてみると
何を食べたんでしょうね?
小さな種がいっぱい入っています。
こちらは少し大きめの種。
鳥たちは、実を噛みつぶしません。
砂のうがあるとはいっても、哺乳類が歯と顎ですりつぶすような食べ方をするのとは違うのでしょう、種は残ります。鳥の腸の中を通過して表面が消化されることで、発芽率が高くなるという種もあります。
こうやって、鳥が運んできた種が庭に意外な植物をもたらします。だから双葉をやたらと摘んでしまうことができません。(庭を手入れしないことの言い訳。)
これはキョウチクトウの葉の上。
何かが、手足を踏ん張っているような雰囲気。
色といい、形といい、中身といい、バリエーション豊かです。
さて、どんな植物が運ばれてきたのやら。
は~るよこい、は~やくこい。ですね。
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