大田区の白山神社の拝殿です。
週に一回くらいこのあたりを走るので、よく境内をのぞきに行くわけですが、信仰心が薄いせいで、拝殿などついぞちゃんと見たことがなかったのです。いつも視野の中に見てはいるのですけれど・・・。
気づいたら、拝殿の階段に手すりがついている。アレッ、いつ手すりなんかついたんだっけ? 近寄って見ると・・・
ひどく新しいようです。
ふ~ん、そうなのかぁ。氏子の誰かが「階段はきつくってね、手すりがあればいいんだが」というようなことをおっしゃったのかも知れませんね。
神社一般は好きではないけれど、とにかく、階段に手すりをつける、これは申し分なくよいことです。
・私は去年、近くのお寺の、手すりのない石段の最下段でバランスを失って、ちゃんと落ちようとして、右膝をひねり、一ヶ月ほど、全く歩けなくなりました。手すりがあったらよかったのに。
・教師をやっておりますと、体育館のステージ、というものと日常的に接します。これ、絶対手すりがないんです。新年度最初の授業で生徒には、「手すりのない階段なんて、絶壁と同じだ」という話をしました。
私のホームページから引きます。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/essay/profile.htm
◎「行けば戻れる」とは限らない。左下がりならいいが、右下がりはダメ。凸型の舗装道路、斜面、階段などでの、障害に起因する一方通行性、行動の不可逆性が発生。山や海、自然の構造も不可逆性の多い構造してるよな。
◎登り坂と下り坂。登り階段と下り階段。登りは負担は大きいが右足によるコントロールが利くので、楽。下りは左足を先に出さねばならずコントロールが利きにくく非常に不安。必ず右手でてすりにつかまる必要あり。てすりの無い階段なんて「絶壁」でしかない。体育館のステージにかけられた階段の恐怖。
◎エスカレーターの右をあけろなんて、健常者の横暴。強者の論理。右手でベルトにつかまらなければ、危険で、怖くて、どうしようもないという人がいる、ということを想像してみてほしいのです。
◎気づいてるかい、私は左足から「段差」へあがることは不可能、必ず右足から。右足から「段差」に落ちたら転倒。必ず左足から降りること。予め距離を目測しながら歩いてるのです、いつも。
バランスを崩して、右足から段差に落ちちゃったわけです。(痛かった~)
・まだ20代のころですが、鎌倉遠足の実踏にいって、あるお寺で、何の気なしに鐘撞き堂に上ってしまったのです。上りは手すりなしでも大丈夫なんです。右足から上がっていきますからね。ところが、降りようとしたら、足がすくんでしまって降りられない。恥ずかしかったけど、階段に腰掛けて、お尻で一段ずつおりたのでした。
・手すりのない階段なんて、あってなきがごときものです。神社の拝殿に手すりがついたおかげで、上まで上がって、お参りすることができるようになった、と喜んでおられる方はきっと多いと思います。
・階段よりスロープ、という声もありますが、きついスロープなんか無意味。スロープより手すり付き階段の方が楽。ということも多いのですよ。何でもかんでもスロープ一点張りでは困るのです。エスカレーターも、右手でつかまらなければダメだという人もいて、故意に立ちふさいでいるわけではない方もいるのです。そういうところに、みんなが、想像力を働かせてくれるといいですね。
・12月5日付の朝日新聞「声」欄にこんな投書もありました。
右に立てたら 転ばないのに
無職 ○○○(東京都荒川区 73)
羽田空港の長い下りエスカレーターでのこと。私は足が悪くて右手につえをついています。空けている右側を5,6人が続けて追い越していきました。邪魔になってはいけないと、私はつえを両足の中間に持ちました。
体とつえの間隔が狭いと、つえに力を込めづらくなります。このためベルトを摑む左手の位置を変えにくくなりました。
終点近くになるにつれ、とうとう体のバランスを崩した私は仰向けに倒れてしまいました。
後ろの女性が大声で前の方たちに告げてくれ、前後から助けられ、私は右ひじの擦り傷だけで事なきを得ました。けれども、エスカレーターの右側を空けずに立つことができていれば、そもそもこんなことは起こらなかったのです。
いったい、片側を急ぎ足で上下するのと、複数並列で自然の速度にゆだねるのと、どれだけの差があるのでしょうか。
片側を空ける習慣は定着しているため今更無理かとも思いますが、助けていただいた方々に顛末を報告しておきたくもあり投稿した次第です。
◆2008.9.1付 朝日歌壇にこんな歌がありました。
石段の急な勾配降り行きてタカラジェンヌをしみじみ思う:(茨木市)瀬戸順治
佐佐木幸綱 評:自分がスターになったような感覚だろうか。「しみじみ」がなんともいえずユーモラスな味を出している。
佐佐木氏のコメントで、多分正解なのだろうとは思います。石段を降りながら宝塚のスター気分、なのでしょう、多分。
私には、上に書いたような障害者としての事情があるものですから、別な風に読めてしまうのです。ここまで読み進んでこられたかたならもう想像がおつきのことと思います。
石段を緊張しながらおりつつ、宝塚のスターたちが元気に、踊り歌いながら階段を降りてくる姿を思う。なんと、元気なのだろう。と。
階段を降りるのに手すりが欲しい、などとあの元気なスターたちは思いもしないんだろうな。
失礼な言い方ですが、健常者の元気というものは、障害者や高齢者には「暴力的」なほどに荒々しいものなのです。
だからこそ「しみじみ思う」のではないだろうか?と、これはおそらく、読み込みすぎですね。
◆政治家の「高齢者(くだけたことばでいえば、じいさんたち)」は、元気ですねぇ。首相官邸の階段を、手すりに手も掛けずに小走りに下りてくる。
外遊の飛行機で、タラップの急な段々を、手すりも使わずに上り下りしている。
こういう政治家には、障害者や高齢者の福祉なんてわかるわけがないんだよなぁ、望むだけバカを見るんだよなぁ、ということです。
「つくづく思う」のです。