てふてふ
「みみこ」さんから頂いたコメントの中に安西冬衛の詩が引用されていました。「春」という題の一行詩です。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
昭和4年の「軍艦茉莉」におさめられています。
私がこの詩と出会ったのは、確か高校生の頃だったと思います。学校帰り、いつも寄っていた古本屋で買ったアンソロジーで出会って、強烈なショックを受けたのでした。
詩を解釈するとかどうとかこうとかいう問題じゃなくて、一目で視野に入ってしまう詩の「字面」、「てふてふ」「韃靼海峡」それだけでもう、世界ができている。
読めば、イメージと音(おん)が絡み合う。
ことばが世界を構築する、ということはこういうことなのか、と衝撃を受けました。
世界を震撼させるような、たった一つの「ことば」というものがありうる。
世界を構築するような、たった一つの「ことば」というものがありうる。
詩とはそういうものなのだ、と以来、信じて疑わない私です。
「詩に出会いたい」と思っています。
詩と称して、単にぷつぷつ切っただけの散文はいくらでもあります。
切りゃあいいってもんじゃあないでしょう。
◆芸術ってすべてそうなんだと思います。芸術家が作品として世界を構築してみせる。
鑑賞者はその作品から世界を受け取る。
クラシック音楽がほとんどダメな私ですが、なぜか、バッハの曲のパイプオルガン独奏だけは大好きなんです。聞いていると壮大な建築が頭の中に音で組み上がっていく、あれがたまりません。
ジャズメンが何時間もぶっ通しで楽器で会話しながら世界をつくっていく、好きだなぁ。
◆高校時代、絵画展に行って、川の中の岩にとまった鵜、の絵の前で、20~30分もたたずんでいたら、画大生だという人に「気に入ったのか」とたずねられました。「いえ、鵜の目から見える、川や岸辺の景色を想像していました」と答えたら、「そういう見方もあるのか」と言われました。
題ぬきで作品と向き合うべきだ、鑑賞者は作品を通してのみ作者と対決すべきだ、などと大それたことを考え始めたのは高校生の頃でした。
◆こんな記事がありました。
2度の出会いを体験する 米田知子展(朝日新聞 2008年11月12日)
人は、美術作品を2度体験する。1度目は、作品表現とじかに接する形で、2度目は、タイトルなどの情報を得た上で。
65年生まれの写真家、米田知子は、この二つの体験の関係を作品化しているといえるだろう。約60点からなる個展に、そう感じた。
例えば、第1室で出あう1枚は明るい光に満ちた海水浴場と楽しげな人々を映し出す。しかし、特定の人物や出来事に焦点を合わせることはしない。あくまでも観察者的に、水平線は水平なままに、フラットに光景をとらえる。このまなざしが、明るさと同時に、けだるさも生む。
で、タイトルを見て、「あっ」と声を上げそうになる。「ビーチ ― ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス」(02年)とある。第2次世界大戦の、あの激戦地の現代の姿なのだ。
・・・
この場合、「タイトル」は別の作品というべきでしょう。二つの作品が交差するところに「新しい世界が生まれる」というべきなのだと思います。
芸術作品を鑑賞するときに、「題・タイトル」とはどのようなものなのかも考えながら味わうと、作者が仕掛けた、また異なる世界を覗き見ることができるかもしれません。
◆いや、余計なことでした。世界を構築する「熱」を自分は持っていない、と自覚したのも高校生の頃でした。古い話だ。
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コメント
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「ヤラレタ!」といいますか、面映いといいますか・・・。
レスがとても時間がかかりそうで、かえってご負担になっては、と思っていましたのに、記事にしていただけて。
かかし先生の、「寒かろ」で、ふと思い出した詩。
かかし先生も、世界を構築しておられますよ。
私の中で、このふたつの世界がつながったのですから。
お蔭様で、作者と題名を知ることができました。
ありがとうございました。
投稿: みみこ | 2008年11月14日 (金) 01時12分