苦行僧
2008.11.24付 朝日歌壇より
哲学を意欲乏しき学生に語れる吾は苦行僧めく:(神奈川県)中島やさか
それはもう、「めく」どころではありません。苦行僧「そのもの」です。
面壁九年、岩と対話する方が修行としちゃ楽かもしれませんね。相手がなまじヒトだから、苦痛を超えて、かな(悲・哀)しくなってしまいますものね。
馬の耳に念仏:(馬に念仏を聞かせても、その有難みがわからないように)いくら説き聞かせても、何の効もないたとえ。犬に論語。兎に祭文。牛に経文。[広辞苑第五版]
いや~、猫に説教する方が楽しい。カマキリと見つめあうのは哲学的だ。
教師って、毎年同じことを繰り返すだけで楽な商売だ、しかも昔自分が習ったことをやるんだから楽なものだ、というのが、どうも世間的な通念らしくて、あきれ果てます。
常に学び続けない者は教師足り得ません。
授業は「ライブ」なのです。30年余り教職にあって、同じ授業ができた試しは一切ありません。
自分が変わる、生徒が変わる、授業内容に対する自分の理解・解釈・展開計画、同じであり得るわけがありません。
結構にぎやかで反応の良いクラスでは授業が進みません。あーだ、こーだ、と工夫したり、その場で、いろいろ工夫したり展開を変えてみたり、楽しめます。
静かで、反応のないクラスでは、どんどん授業が進んでしまって、つまらないのなんのって、たまらないですよ。それはもう難行苦行です。
俺はテレビ画面の中の講師じゃないんだ!ここに今生きて楽しみ怒り呼吸している人間なんだ!授業はライブなんだ!とずいぶん叫びましたっけねぇ。
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