観音菩薩
2008.11.24付 朝日歌壇より
死刑囚が描きし絵画の作品に観世音菩薩多くを占める:(京都市)後藤正
「用終えし」というタイトルで書いた記事に頂いたコメントに、私はこんなことを書きました。
「菩薩」というのは、自分自身が悟り彼岸へ去ることを棚上げにして、すべての衆生が救われるまで、この世にとどまり続けることを「意志」した存在のことです。菩薩行といいます。
地蔵菩薩然り、観音菩薩然り・・・この世にありとあらゆる存在が菩薩であるのです。
思うに、リアカーは、人の生まれ、育ち、仕事をし、去りゆくというすべてのシーンに立ち会っている「菩薩」なのかも知れませんね。
死刑を受けねばならないようなことをなしてしまった人が、そうなる前に、このこと、つまり「この世にありとあらゆる存在が菩薩である」こと、そこまでいかなくとも「この世のすべての人が菩薩である」ことを知ることができていたなら。死刑になることはなかったのではないか、間に合わなかったか、と哀しい思いがあふれてしまいます。
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